web electro index 01 02 * 04
□yugo03 http://recipe.electro.xx
 幸野との料理教室は、週に二、三日の割合で行われていた。どうやらなかなか忙しい身のようだが、料理を早く覚えたいようで、約束を違えることはなかった。その甲斐あって、ひと月が経った頃には、簡単な料理くらいは出来るようになっていた。特に、煮込み料理は分量さえ気をつければ失敗は少ないし、ある程度は放って置いてもいいところが気に入ったようで、熱心に作っていた。
 幸野はときどきは雑誌から見つけてきた欧風料理などをリクエストするときもあったが、基本的には油分の少ない、ヘルシーな料理を作りたいと言ってきた。
 誰のためなのか、ユーゴは聞いていない。本当に誰かのためなのか、それさえ聞いていない。
 幸野は料理を習いたいと言った。そして、ユーゴはそれに答えた。
 仕事に、それ以上の事情は必要がない。
「そんなに疲れてるのか、ユーゴ」
 ふいに聞こえてきた声に、ユーゴは開いていた角砂糖の包みを摘んだまま、顔を上げた。同じ料理担当が苦笑している。
「ハマナさん……。残業ですか」
「ん?違うよ。今日は十時までの遅番」
 web electroの担当達は三交代となっているが、実際はもっと複雑な勤務体制をとっている。どれだけ出番がなくとも、同じ分野の担当は二人いるようになっている。その辺りは、管理担当が一手に引き受けていた。
「ユーゴは、深夜番?」
 こくりと頷いて、カップの中をかき回す。それを飲もうとして、ハマナに止められた。
「ハマナさん?」
 不思議に思って顔を見上げると、それを飲む気?とハマナが呆れた顔をしている。
「いくらなんでも、ヴィンセント爺さんが怒る」
 ハマナは角砂糖の包みを摘み上げて、ひらひらと揺らした。両手に、二枚ずつの包み紙。ユーゴは「あ……」とカップを見つめた。確かに、こんなに甘くしたら、担当向け休憩所を取り仕切っている紅茶担当のヴィンセントは、渋い顔をするだろう。
「なんだ?悩み事か?」
 同じ料理担当と言えども、ハマナはユーゴが足元にも及ばないベテランで、web electroに来る前も、どこかで料理長をしていたらしい。得意分野は和食だが、洋食もお金を払ってでも食べたい味であることは、ユーゴも知っていた。
 彼はユーゴが尊敬してやまない人物の弟子でもあり、ユーゴを可愛がってくれる先輩でもあった。
「悩み……というか」
 ユーゴが顔を歪めると、ハマナがその肩を叩いてテーブルに誘った。その手には、新たな紅茶と緑茶のカップが握られていた。
「また誰かに熱を上げて……何もせずに、ただ想っているだけか?」
 からかうような口調に、違います、とユーゴは返してみたものの、ハマナは笑ったままだった。
 居心地が悪くなって、ユーゴはこくりと紅茶を飲む。少しだけ甘くしたミルクティーは、じわりと身体の中を温める。
「俺ぐらいの老いらくになってくれば、そういうのも良いと思うがな。まだ若いおまえがそれじゃあ、もったいないだろう」
「老いらくなんて……ハマナさん、まだまだ若いでしょう?」
「簡単に惚れただなんだとは言えない年にはなったがな。……いや、それが悪いって言ってんじゃない。いつかは出来なくなるんだから、今のうちにしとけって話だ」
 なんだかねえ、素面でする話じゃないねえ、とハマナはお茶を啜った。
「怖がるのはわかるよ。俺は詳しくは知らないが、シギの親父がおまえさんを不憫だと言ったからには、おまえさんは不憫なんだろう」
「不憫……ですか」
「ああ。傷ついてぼろぼろになって、それでも生きていこうとしたおまえさんはでも、それ故に一人で生きていく決心をした……。それが不憫でならないってな、酔ったときにぽろりと言ったことがあった」
 温かい、何もかも包み込むように笑う、その顔を思い出してユーゴは目を伏せた。
 あのときシギに会わなかったら、ユーゴは生きていられたかわからない。必死に日々を過ごしていたけれど、そうしていつまで誤魔化しながら生きていけるのだろうと考えると、明日があることが疎ましくてならなかった。
「あのな、ユーゴ」
 ぼんやりと考え込み始めたユーゴに、ハマナは宥めるように声をかけた。
「こういうのはさ、おまえが悪いんじゃないよ。おまえの、男運が悪いんだ。そう思っとけ」
「ハマナさんは女運が悪いと?」
「そうそう」
 がはは、と豪快に笑うハマナは、女のせいで前の職を辞めなければならず、web electroに逃げてきたのだ、と言っていた。ハマナ曰く、やばい女に手を出された、のだそうだ。
「さあてそろそろ時間だ」ハマナはカップのお茶を飲み干して、立ち上がった。それから、ぽんぽんっとユーゴの頭を叩いた。
「今度のは、いい奴だといいな」
 ひらひらと手を振って管理室に向かうハマナの背を見ながら、いい人ですよ、とユーゴは心の中で呟いた。


 ハマナがいなくなって一人になったユーゴは、そこから立つのが面倒で、丸テーブルに一人頬杖をついていた。深夜の控え室は、一日で一番人が多い。相手が一人ではないと出られない、という原則があるから、勢い深夜が一番利用数が多くなるのだ。
 ざわざわと、少し慌しい担当達を、ユーゴはなんとなく眺めていた。
 シギと会ったのは、やはり夜が更けた頃のことだった。もう日付が変わろうかと言う頃で、ユーゴは静かでひんやりとした部屋の中、一人で蹲っていた。
 待って待って、それでも来ない男のために作った夕食を、捨てたあとだった。美味しいと言ってくれた揚げ春巻きも、彩り良く盛られていたサラダも、南瓜とひき肉の煮物も、茶碗蒸も、全部。
 男は、お金がなくなると、良くユーゴのところに来た。それまでは、派手に遊んでいるのだ。ユーゴのことなど忘れて。でも、それでも良かった。やっぱりユーゴの飯が一番上手い、と言ってくれるだけで。そうやって、最後に自分を頼ってきてくれるだけで。それなのに、男はいつからか、ユーゴの元を訪れなくなった。風の便りで、結婚間近らしいと、聞いた。
 良かったのだ、本当に。ただ、美味しいとご飯を食べてくれるだけで。その代わりとでも言うように、ユーゴを抱いていたのだとしても。
 いつしか、携帯も繋がらなくなった。住んでいる場所は、教えてくれなかった。だから、待つしかなかった。
 それでも、別れるならはっきりしたいと思ったユーゴは、少ない共通の友人を介して、様子を聞いたり、連絡を取ろうと試みた。
 あの夜。男は、ユーゴの部屋に来るはずだった。ユーゴに同情した友人が、なんとか取り持ってくれたのだ。でも、男は来なかった。
 ――大事な用事が出来てさ。わかれよ、な。
 少しも悪びれた様子ではなく、男は電話越しにそう言った。ざわざわと、背後は賑やかそうな気配だった。
 ――結婚、するんだって?
 突然そう言ったユーゴに、男は照れたように「まあな」と返した。
 ――おまえもさ、料理作って部屋で待つなんて女みたいなことしてないで、そういうことしてくれる女を探せよ。
 結婚相手は、そういう女なのか、とユーゴは思った。可哀想な女だ。こんな男と結婚なんて。
「ねえ、誰?まだ?」そう、女の声がした。男は「ん、終わる。会社の奴だよ」と言った。
 友人とさえ、言われない。ユーゴは自分の馬鹿さ加減に、笑いたくなった。
 男にとっては、ユーゴなど何でもなかったのだ。きちんと話して関係を整理しなくてはならない相手ですら、ない。
 じゃあな、と言われて、ユーゴは「さよなら」と答えた。その言葉の重さの違いに、ユーゴは電話を切った後、馬鹿みたいに笑った。それから、テーブルの上の料理を全部、捨てたのだ。それだけでは満足できなくて、ふっくらと炊き上がった鍋の中のご飯も、捨てた。一人のときは炊飯器も使うが、男に食べさせていたのは、いつも鍋で炊いたご飯だった。それから、ふと思い出して、冷凍していた春巻きも、コロッケも、捨てた。ユーゴはあまり食べないが、日本酒にはこれだろう、と男が言うから常に冷蔵庫に入れていた、塩辛も捨てた。
 そんなことをしている内に、ユーゴは自分がどれだけ哀れなのか見せ付けられているようだと思って、蹲ってしまった。あんな男のために、こんなにも。
 一体、自分は何をしていたのだろう。
 気付いたときには、もう朝が近かった。まだ明けきっていない夜を引き摺って、外は薄っすらと明るくなってきていた。グレーのようなモーブのような、曖昧で、優しい色だ。
 夕飯を食べなかったユーゴはさすがにお腹がすいてきて、何か作ろうかと立ち上がった。でも、昨日の残骸が目に入って、やる気などすぐになくなってしまった。
 そのときに、ふと思い出したのが、おかしな検索サイトだった。パソコンから出てきた人間が、一緒になって色々なものを探してくれる。最初はとても驚いて、説明を聞いただけだった。それから、怖くてアクセスしていない。それでも、探し方サービス担当と名乗った人物はとても明朗で人当りが良く、ユーゴはとりあえず、アドレスだけはパソコンに記憶させていた。
 そう言えば、パソコンもあの男の影響で買ったのだったか。
 電源を入れてパソコンを立ち上げる。その間、どう探そうか、とユーゴはいくつか言葉を思い浮かべた。その中で、一番直接的な言葉を検索窓に入れた。料理と言う項目は、インデックスにはなかった。
「ご利用ありがとうございます。料理担当のシギでございます」
 シギはまるでレストランの給仕のように、丁寧に頭を下げた。ユーゴもつられてお辞儀をしてしまったほどだ。
「今日はどのようなご用件でしょう」
 太ってはいない。だが、恰幅の良いシギは人に安心感を与える。その上、柔和な顔と丁寧な言葉に、ユーゴの投げやりな気持ちが少し上向いた。
「あの、検索の仕方がまだ良くわからないので料理で検索してしまったのですが、食事を作って欲しいというお願いも出来るのでしょうか」
 おどおどとした態度を取ってしまうのは、人見知りが激しいからだ。社会人にもなってどうしようもない、とユーゴは思うが、簡単に直るものでもなかった。
 シギは何も気にしていない風に、もちろんです、と微笑んだ。それから、何か温かくてやさしいものが食べたい、と言ったユーゴに、シギはそこにあるもので色々なものを作ってくれた。web electroに入った今ならわかるが、担当が材料を出す場合は、費用はもちろん、客持ちになる。そう言った現実的な話をしないで済んだのは、そのときのユーゴにとって嬉しいことだった。シギは、人の機微にとても敏かった。
 あのとき食べたけんちん汁は、ユーゴにとって忘れられないものになった。家族を捨て、男に捨てられ、一人になってしまった、ユーゴにとって。食べながら、あれほどまでに泣けた食べ物は、他にない。
 シギは、もし宜しかったら、と極めて控え目に、一緒に食事をしようかと申し出た。一人で食事をする寂しさも侘しさも身に沁みていたユーゴは、ありがたくその申し出を受けた。
 誰かが、自分のために作ってくれた食事を、その人と一緒に食べたのは初めてだった。幼い頃から、ユーゴはいつも一人で食事をしていたからだ。
「また、いつでもお呼びください。お客様の台所は、とても良く磨かれていて、使いやすい。とても、とても良い台所です」
 感慨深い口調で言われて、ユーゴは泣きたくなるほど嬉しかった。たった一つ、人に自慢できることを、誉められた子供のように。
 それから、ユーゴは何度かシギを呼んだ。二度目からは、一緒に料理をして、教わったりもした。まるで、失った子供時代を、今過ごしているかのようだった。
 ユーゴの父も、有名店のシェフだったのだ。だが、父親の料理を食べたことは、一度もなかった。ほとんど家にはいない父のことを、ユーゴはあまり覚えていない。
 何度かシギと料理をして、食事をした。それはとても穏やかな時間で、ユーゴはそのときだけ、楽に呼吸ができた。
 不運なことに、男とは多少なりとも仕事上の繋がりが合った。男はあれだけ素っ気無くユーゴを切り捨てたのに、後になってその過去の関係を恐れだした。
 最悪だった。
 原因はわかっていた。誰かが、二人の関係を揶揄する噂を流したのだ。それが誰だったのか、ユーゴは今も知らない。だが、二人のことを知っている人間は、少なくとも確かに存在していた。だが、男は、噂を流したのはユーゴだと疑っていた。だから自分を守るための嘘を簡単に付いて、ユーゴは会社に居辛くなっていた。
 ユーゴとはただ数度食事をしただけで、ホモだとは知らなかっただとか。
 何度か執拗なメールが来ただとか。
 男は二人の関係を根本から否定して、ユーゴを一層傷つけた。
「うちに来るかい?」
 その頃にはすっかり親子のように仲良くなっていたシギがそう言ったのは、初めてのサービスから、ふた月が経った頃のことだった。
「君はきっと、立派な料理サービス担当になるだろう。どうかな。一緒にやってみないか?」
 ユーゴは、その誘いを断らなかった。そうするには、もう現実に疲れきっていた。
「我々は、君を歓迎する」
 シギのその言葉に、涙を流すほどに。


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