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壊レカケノ月 参
梅雨にはまだ早いと言うのに、それからしばらく雨の日が続いた。その雨がすっかり上がると、柏木と静は良く家に現れるようになった。
柏木はときどき景一の勉強を見てくれたりもし、景一も次第に柏木を慕うようになった。柏木は、静のように威圧感がない。大人なのに、自分を同等に見ているように感じられて、景一にはそれが心地よかった。
夕方頃に静がふらりと現れて、景一にまた伝言を頼んだ。前回と同じ、遅刻の言伝だ。でも、ふと黙ったと思うと、やはりいい、と言う。
「どうして」
聞いてから、景一はしまった、と思った。余計なことは言わないに限るのに、どことなくあの場所へ行きたいと思っている自分に気づく。行ったところで、自分の未熟さを確認するだけと言うのに。
「おまえにわざわざ面倒をかけることはない。ちょっと寄ればすむことだからな」
静はそう言って、景一を見る。その視線に、景一は兄の意地悪さを呪った。わかっているのだ。景一が、行きたがっていることを。こんな風に言われて、正直なところ面倒ではないと言うことも、自分に嘘をついて、そうだね、と言うこともできないことを。
「そう」
景一は、無駄なこととわかっていても、無関心な振りをしてそう呟いた。全く、兄は意地悪い。
「それほど面白かったのか、この間」
玄関で立ったままだった静は、あがる気はないようで、廊下に腰掛ける。景一はその廊下に突っ立ったまま、煙草に火をつける静を見下ろした。
「あんな不味い酒、お前が飲むもんじゃない」
長く紫煙を吐き出しながら、目を細めた静が見える。景一は、唇を噛み締めた。この間のことを兄が知っている。どうやって知ったのか。それも、今更。あのとき、柏木は言わないと言ったのに。
「柏木さんですか」
「何が」
「柏木さんに、聞いたんですか」
景一が抑えた声でそう問うと、静は前を見たまま、また長く煙を吐き出した。良く考えれば、他の三人の可能性もあるのに、景一にはそのとき、確信めいたところがあった。静は目を細めながら、ゆっくり笑って、立ち上がった。それからそのまま、来週末にまた寄ると言い残して、玄関の扉を開けてゆったりと歩いていった。
場所は知っている。だから、行ってしまおうかと思った。でもそこに、柏木がいると考えるだけで、景一は行く気をなくしたのだった。
そんな風だったのに、静が行ってまもなく、ふらりと柏木が訪ねてきたとき、景一は何も言わずに家に上げた。その日は父と母で、四国の母の実家に行っていた。祖母が体調を崩し、祖父だけでは手におえないと言うのだった。
「静はいないのか」
柏木の変わらぬ口調に、景一は視線を合わせることなく「女のところでしょう」などと答える。柏木が不思議そうに片眉を上げたが、景一はお茶の用意に専念していて、気付きもしなかった。
「虫の居所が悪いらしいな。何かあったのか」
「いいえ」
景一は自分でもわかるほどそっけなくそう答えてから、なぜだろう、と思う。なぜ、柏木にはこんなに感情丸出しに接するのだろうか。とぽとぽとなるお茶の音を聞きながら、景一はその理由を探ってみるが、わかりはしなかった。
出されたお茶を、柏木は美味しそうに飲んだ。夏も近いこの頃は、そろそろ冷たい飲み物が欲しくなるが、柏木は熱いお茶が好きなのだった。景一はすっかりそのことを覚えて、一緒になって熱いお茶を飲む。
「兄は、少し遅れると言っていましたよ。でも今ごろは、あのアパートにいるんじゃないですか。自分で伝えると言っていたから」
景一はそう言うと立ち上がって、勉強があるから自分は部屋に行くが、どうぞ好きなだけくつろいで下さいと言った。
部屋に来たからと言って、勉強をするはずがなかった。兄のようで、友人のようであった柏木に、裏切られた思いがあった。景一は、兄に背伸びをしていると見られることが、一番嫌いだった。追いつくことも、超えることも出来ないから、せめて自然体で、自分は自分であることを見せていたかった。静が兄であることを、誇りに思いながら、嫉妬をしていた。
きしり、と音がして、振り向くと柏木がいた。景一は思わず、非難の目を向けた。それを、柏木がどう取ったかはわからない。
「何を怒っている」
「怒ってなどいません」
進んでいそうもない机の上の教科書に視線を落とした景一を、柏木は気付かれないように笑う。姿勢正しく正座した、景一の清潔な項を見つめる。夕陽が部屋に差し込んでいて、その項を染めていた。
「出直そう」
柏木はそう言うと、ゆっくりと部屋を出て行った。
柏木がぶらぶらと会合場所への道を歩いていると、川の端で静が煙草を吸っていた。柏木を認めると、にやりと笑う。
「よお。今お前の家にいったところだ」
しれっとしてそんなことを言う柏木を、静はもう一度笑う。
「景、機嫌悪くなかったのか」
そう言った静に、柏木は片眉を上げる。原因はお前か。
「言っておくが、俺じゃない。お前だよ。関係ない相手にまで八つ当たりするようには育てていない」
静はそう言うと、柏木に煙草を差し出した。柏木は礼を言ってそれを受け取り、静から火を分けてもらう。その間、静が柏木を睨むように見ていた視線を、柏木は無視した。間近に見る、整った顔の静の目は、かなり怖いものがある。
「お前たちがあいつに不味い酒なんか飲ませるからだよ」
静が煙を吐き出す。柏木は、一瞬動きを止めて、自分も煙を吐き出した。誰が言ったのだろう。あのときの仲間には、口止めはしたはずだ。第一、静が怖くて誰も言う輩などいないはずだ。思案する柏木のその顔を見て、静がゆっくりと笑った。
「俺は人前では寝ない性質だ。お前のあのおふざけは忘れてやるから、あいつには手を出すな」
柏木は煙を吐きながら、くくっと笑って、敵わないな、と言う。
「寮にいくらでもいるだろう。それで我慢しろ」
ずいぶんな言いようだと柏木は思う。自分にだって、言い寄る輩がいるだろうに。
往来はあまり激しくなく、川の音が聞こえていた。二人はしばらく、そこで黙って煙をふかした。少しむっとするような空気は、また雨が降るだろうことを思わせる。重たい空気だった。
「能瀬さん……」
「あぁ」
柏木が全てを言い終わらないうちに、静が頷く。暗くなった道を、月明かりが照らす。もうそろそろ、あのアパートに行かなければならないのに、二人は行けずにいる。能瀬の出征の日が、明日に迫っていた。能瀬はそれを、ぎりぎりまで言わないでいたのだ。だから二人は、心の整理が上手くつかないでいる。
二人とも、能瀬の語り口に惹かれてあのアパートに行くようになったのだ。それまでは、教師や親が言うように、今回の大戦の日本の勝利をおぼろげながら信じていた。
負けるのだと、そう言った本人が、その戦いに行かなければならない。わかっていたとはいえ、それはあまりにもやり切れなかった。能瀬は、だからひっそりと行くつもりだったのだろう。親元にも、結局知らせていない。
どんなに、何を言っても、自分たちの未来がないことを彼らは思っている。あたりまえのように、将来なんてことを思い描けないでいる。
「一杯、やっていこう」
静のその声に、柏木は頷いた。素面で、行けるはずはなかった。
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