水槽の中で泳ぐ
03
香月が担当者に住所変更の電話を入れると、出版社のパーティーに誘われた。そんな気分ではなかったが、近くにいた公子が耳ざとく、行く、と言ったために、香月は仕方なく承諾した。居候でしょ、と公子は言うに決まっているのだ。でも、アパートを出てから三日もたった夜には、少し騒ぎたい気分もあって、香月はこっそり公子に感謝した。もう未練はないが、感傷はあったのだ。
「住所変更って、もしかして……?」
だから、パーティーで会った担当の坂江にそう言われても、香月は笑ってそうなんです、と答えた。
「別れちゃったんですよ」
「電話貰ったとき、そうかなあって思ったけど、本当とはなあ……」
長かったでしょう?といわれて、そうですねえ、ともう過去の目で香月は頷いた。この坂江は初めて香月に仕事をくれた人で、智之と変わらないぐらい長い付き合いをしている。
「しばらくは公子の家に居候です。ちゃんと引っ越したら、また連絡しますね」
香月がにっこりとそう笑うと、坂江はどことなくほっとしたように見えた。香月はまだまだ気分に左右されやすく、仕事の良し悪しはそれで決まるようなものなのだ。
「そう言えば宮下さん、いつの間にウチの副社長と知り合ったんです?」
ほっとしたところで話題を変えたかったのか、坂江がそうにやりと笑った。その間にも、通りかかったボーイからカクテルを二杯貰って、香月にも渡してくれる。
「副社長?知り合うどころか、見たこともないですよ」
香月が不思議そうにそう言うと、坂江はでも、ほら、と言って視線で香月の後ろをさした。
香月は振り返ると、思わずあっと声を上げて、その人物を見つめた。見られているほうは、にこやかに笑って、手を振ってこちらに向かってくる。
「副社長さん、だったの?」
呟いた香月に名刺を渡しながら、絵本、面白かったよ、と貴広は言った。
「見たらウチの出版社だろ?びっくりした」
まじまじと名刺を見る香月に、貴広はそう笑う。そう言えば、社長の名前も敦賀だったと、今更ながら香月は思い出した。でも、もともと香月はフリーのイラストレーターなのだから、出版社の副社長を知らなくても当たり前だ。
「やっぱり、お知り合いだったんですか」
隣で、坂江が香月に向かってそう聞いてくる。
「ええ、ついこの間、知り合ったんです。でも、ここの出版社の副社長さんとは存じ上げませんでした」
香月がそう言うと、坂江は少し興味深そうな視線を寄越す。
「俺も、本見てすぐにウチの出版だって分からなかったんだから、どうしようもないよな」
貴広はそう言って笑うが、手広く事業をしているこの出版社の本を全て把握している方がおかしいと香月は思う。特に、絵本部門はそれほど大きな市場を占めているわけではないのだ。
ずいぶんとくだけた口調で話す二人に、坂江が何か言いかけたが、そこに公子がわって入ってきた。
「お久しぶりです。坂江さん」
とりあえず、と言った感じに、まずは知り合いの坂江に声をかけた公子は、視線で貴広のことを紹介しろと香月に言ってくる。それに苦笑しながら、香月は公子に貴広を紹介した。
「香月が副社長さんと知り合いだなんて知らなかったな」
「私だってさっきまで知らなかったわよ。知り合ったのは偶然だったんだもの。ほら、この間の金魚の……」
香月がそこまで言うと、公子がああ、コンドームの、と言ったから、坂江が隣で驚いた顔をしている。
「ちょっと公子、そんなことこんなところで言わないでよ。誤解されるじゃない」
香月はそう言うが、あまり気にしている様子ではない。公子は、堪えきれないと言うように笑っている。確信犯なのだ。
「いいじゃない。別に誤解されるようなことないんだし。だいたい、それを言ったのは香月なんでしょう?」
最後のところは貴広に向けて公子が言うと、貴広も苦笑をしながら頷いた。
「びっくりしましたよ、あのときは。あなたなら持ってるでしょ?なんて、言われて」
一人事情が飲み込めていない坂江は、貴広と香月を交互に見ている。それに仕方なく、香月が事情を説明した。
「はあ、金魚を入れるのにねえ」
香月の説明を聞いて、坂江は思わず笑う。香月らしい話だ。金魚の桃子は、坂江も良く知っている。
「あれから桃子ちゃんは元気なんだ」
「ええ、おかげさまで」
にっこりと笑う二人のその会話に、坂江も公子も笑わずにはいられなかった。
偶然、と言うのは確かにあって、でも確かにあるなら、必然なのかもしれない、と貴広は思いながら、目の前で唇を噛んで泣いている女を見ていた。どうにもつまらなくて、別れようかと切り出したところだった。この女とは、もう三ヶ月も付き合っている。そろそろ飽きる頃だ、と貴広は思っていたのだ。そう思ってしまったら、もうあとは思考はその方向にしかいかない。食事をしていてもやはりつまらなくて、貴広は唐突に別れ話を切り出したのだった。
その、賞味期限切れの食品を捨てるような女の捨て方はやめなさい、といつだったか言われたことがある。未練も何もなしに、突然捨てられる、女の身にもなれ、と。
貴広は別に、遊んでいるわけではない。好きだとか、可愛いとか、そう思った気持ちは確かなものなのだ。少なくとも、貴広はそう思っている。
でも、だからと言って、冷めてしまったらそれは終わりなのだ。仕方がないと思う。
道端で泣き始めた女に少しばかりうんざりしだした貴広の目に映ったのは、香月だった。ふらふらと、楽しそうに歩いてくる。こちらのことなど、気付いてないようだ。まるで鼻歌でも歌っていそうな軽い足取りだった。その偶然を、必然なのかもしれない、と貴広は思ったのだ。
さすがに近くまでくると気付いたのか、香月はふと立ち止まって貴広と女を見た。目が合って、貴広がにっこりと笑うと、香月も笑って、お辞儀をしてまた歩き出す。まるで、今の状況を気にしていないのだ。
貴広は、その香月と同じように、何も気にせずにこの夜の街を歩けたら、どれだけ楽しいだろうと思って、つい呼び止めてしまった。それにはさすがに目の前の女が怒って、香月をきっと睨むと、貴広の頬を思い切り叩いて、走り去った。
「派手ねえ」
呼び止められた香月は、そう笑う。貴広は痛いな、などと言いながら、頬を擦っていた。
「ねえ、飲み行かない?」
頬を擦りながら貴広がそう誘うと、香月はふふふ、と笑った。その笑いの意味がわからずに、貴広が不思議そうな顔をする。香月はそのまま、ふらふらと歩き出した。
どうやら酔っているらしい、とようやく貴広は思う。春の薄い白いコートが、ひらりと舞った。
「散歩がしたい気分なの」
香月の呟きに、それもいいかもしれないと、貴広は賛成した。
それから二人は、夜の街をただ散歩した。キラキラ光るネオンと、少しだけ高く感じられる人々の体温と、その中を、二人はまるで魚のように、漂っていた。