home モドル 01 02 03 04 * 06
papillons
5.共犯者のような
人を呼び出しておきながら、杏子はなかなか口を開かなかった。ぼんやりと、校庭を眺めている。外は梅雨の名残のような小糠雨が音もなく降っていて、それが杏子をぼんやりとさせているのかも知れなかった。どう話を切り出そうか迷っている、と言うよりも、自分が呼び出した人間のことも忘れてしまっているのではないかと思われた。
「最初から、男の人が好きだったの?」
出されたコーヒーが冷めかけた頃に、杏子はやっと口を開き、唐突にそんな質問をした。諦めたように本を読んでいた明良は、その声に顔を上げる。
「さぁ……女の子を好きなときもあったから」
自分にも、その辺は良く分からない。酷く悩むより先に、遊びを覚えて遊び相手を見つけたことが、明良をそのことから遠ざけていた。あたりまえのように肌を重ねる男たちは、明良を安心させた。
「でも、私は抱けない?」
杏子は明良のほうを見ずに、雨の降る外を眺めながらそう言った。明良は、その杏子の横顔を見つめる。でも、どんな答えを待っているのか、明良には分からなかった。
「ただ……抱かれるほうが酷く楽なんです」
そうは答えてみるが、明良はその自分の口調が歯切れ悪いことに気づいていた。博紀にも、同じ質問をされたことがある。女の子は抱けないのか?抱けるなら、何故抱かないのか。その問いにも、同じ答えを返した。
「……そう」
呟くようにそう言うと、杏子は冷めたコーヒーをこくりと飲んだ。
「でも、抱いて欲しいんだけど。だめかしら」
なんでもないことを呟くようにそう言って、杏子はゆっくりと明良のほうを振り返った。明良は髪を掻き揚げた手を止めて、その杏子をじっと見る。まったく、とんでもない。とんでもなくて、そして少し、羨ましい。
「嫌ですよ。高尾に出来なかったことが、俺にできるはずがない。……もう、オママゴトはやめたらどうですか」
明良がそう言うと、杏子は瞬きをして、意味がわからないと言う顔をした。
「もう、足掻くのはやめて、旦那さんのところに戻ったら良いですよ」
ばかばかしい。明良はそう思って、立ち上がった。まるで子供じゃないか。帰るところが、安心できるところがあるのに、そこに帰りたくないなんて。
「戻れるはずないじゃない」
杏子の、泣きそうな小さな声がする。明良はそれに、それなら、そう言えばいい。とだけ答えて、からからと資料室の扉を開けた。廊下は雨の所為か、ひんやりと少し、冷たかった。
自分が何故、哲ではなく藤野明良に救いを求めたのか、杏子はやっと分かる。まったく、嫌な相手だ。何も見ていない空洞な目をして、奥底を見つめている。
ほんの、出来心のつもりだった。それが、どうしてこんなことになったのか、明良にも良く分からない。まったく、人の幸せと言うものは、こうやって簡単に壊れるのだとぼんやりと思う。
目の前の相手は、所在なげにコーヒーをスプーンでかき回した。だから、さっさとホテルに行こうと言ったのに。
わりと趣味のいいネクタイが、窮屈そうに締められている。少し神経質そうな細い指がそれを緩めようとして、ふと気が変わったように下ろされた。
「してた方がいい。僕が、解いてあげますよ」
明良がそう言って薄く笑うと、言われたほうは、そうだね、と上の空で答えた。全く、行ってしまえば分かるのに。明良を、男を、抱けるか、抱けないか。まずはそう言う大きな問題があることをこの人は分かっていない。裏切るとか裏切らないとかは、その後の問題なのに。明良は少し自分の行動を後悔し始めながら、外を見る。この雨の所為かも知れない。この細かい雨のせいで、西里杏子を思い出したのだ。
「やめますか?」
明良の呆れたようなその呟きに、目の前でコーヒーを一口飲んだ相手は、煙草に火をつけながら、いや、と小さく、でもはっきりと言う。明良は仕方がないというように、わりと豪奢な感じのする喫茶店のソファーに、深く身を預けた。こんな豪奢さは、阿久津を思い出させる。思い出して、一緒にいる時以外、存在さえも忘れているような相手を思い出したことに、明良は一人驚いた。こんなところでもたもたしている所為だと、明良がもう一度急かそうとすると、明良が口を開くよりはやく、煙草を消した相手が立ち上がった。
「行こうか」
小さくそう言うと、伝票を持ってすたすたと歩いていく。立ち上がって鞄を持った明良の目に、濡れた窓ガラスが映る。
雨はまだ、降っている。
全て自分がするといったのを制されて、明良はいつものように自分を抱く男の後を黙ってついて歩いた。自分を抱きたがる男は、いつも明良を従えたがる。ばかばかしいことに。
無言で部屋に入ると、明良は許可を得て、シャワーを浴びに行った。わりとけばけばしさのないホテルに、明良は少し舌打ちする。ラブホテルに来るのなら、それ「らしい」ところがいいのに。いやに白いタイルに手をつきながらシャワーを頭の上から浴びて、明良は小さく笑う。
「蛙が殺された、」
呟く。
その呟きが、白い浴室に清潔に響いて、明良は胃をむかつかせた。
シャワーからあがると、男はベッドに座って煙草を吸っていた。まだ濡れた髪のまま、その前に立ってネクタイに指をかける。そろりとはずしながら、煙草を取ってその口に口付けるが、男は眉根を寄せて思わずといった風に顔を逸らした。明良はそれを笑って、ネクタイをまた元に戻す。
「……ごめん」
呟かれた言葉に、明良はベッドに横になって、笑った。
「抱けない?」
ベッドが揺れる。俯いた男の顔が、虚しげに歪められた。それが思わぬ美しさで、明良はその横顔をじっと見つめた。そんなに、愛している?
「君は、」
そう言ってからふと、名前、なんて言った?と聞かれて、「あきら」と横顔を見つめたまま答える。
「あきらは、杏子を抱いたことがある?」
「ないですよ」
「なんで、俺を誘った?」
その問いに、明良は答えられずに自問する。何故、この男を誘った?見上げた鏡に映る自分を見つめても、すぐには答えを得られなかった。気まぐれのように西里家の前に行って、自分は、一体何をしたかったのか。
「先生がいたら、先生を抱いたかもしれない」
誘われはしたんですよ、と明良は悪びれずに言う。和巳はその明良を、思わず振り返る。
「俺はてっきり、君が杏子の相手かと思ったよ。だから、誘われたときは驚いた」
言いながら、自嘲気味に笑う。その相手を汚すことさえ躊躇する自分に。
違いますよ。明良は言いながら、半身を起こして煙草に手を伸ばし、一本下さい、と引き抜いた。和巳は苦笑しながらも、その煙草に火をつける。
「先生の相手は、もっと真面目で、誠実で、でも、それを嫌がるような奴なんです」
長く長く煙を吐き出すと、明良は俯いて微笑んだ。悪ぶる哲が浮かんで、じっと白いシーツを見つめる。
「知ってるんだ」
「ええ、良く」
火の点る音がして、煙が明るい室内にばら撒かれる。そう言えば、いやに照明が明るいなと、明良は天井に視線を映した。
「気づいてたんですね」
「だいぶ前からね。分かるよ、そんなこと」
気づかなければいけなかったのだ、と和巳は思う。杏子はそのことにずいぶん驚いていたようだが、本当は、気づいていて欲しかったのだろうと思う。
「愛してるから?」
少し揶揄するような、笑いを含んだ明良の口調に、和巳も軽く笑った。煙草をふかして、また笑う。愛してる。少年の口から出た言葉は、ひどく懐かしく響いて、和巳は笑いを止められなかった。なんて、なんて懐かしく、恐ろしい言葉だろう。
「そんなに、笑わないで下さいよ」
こっちが、恥ずかしくなる。明良のその口調に、和巳はもっと笑いを収められなくなる。明良は小刻みに肩を震わせて笑い始めた和巳を見ながら、困ったように煙草を何度もふかした。まるで真面目になど言わなかったのに、照れる。
「君と話せて良かった」
まだ笑いを止めきれていなかったが、そう言った和巳の声は真剣で、明良を困惑させる。答えられずに、灰皿に手を伸ばした明良の手から煙草を取り上げると、火を消して、和巳は帰ろうか、と立ち上がった。煙草を取り上げるときに掴まれた手には、まったくいやらしさがなく、明良はそのとき始めて、和巳が自分を抱くことは無いと確信した。確信して、ほっとした。
「良かった」
「え?」
「抱かれなくて、良かった」
そう言うと、和巳は微笑んで、何か美味しい物でも食べて帰ろうか、と言った。
home モドル 01 02 03 04 * 06