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琥珀に沈む月
04

 花びらが、ひらりと舞った。
 朗ははっとしたように目を逸らして、手を離した。俺は、何度か呼吸を繰り返した。
 キス、するかと思った。
 引き寄せられるかと思った。
 顔を寄せてしまいそうだった。
 ――でも、しなかった。
 朗は少し前を、ゆっくりと歩いている。
 もう、幸せな気分はどこかにいっていた。ただ、こうして散っていく桜の気持ちがわかった気がした。
 朗を追いかける。闇の中、すっと立つ、長身。朗は姿勢がいい。後姿も、ほれぼれするほどに。でも、今はそれが、俺をぴしゃりと拒否しているような印象だった。ミキサーの中の金魚みたいに。
 しばらく無言で歩いた。宴会の遠い喧騒を聞きながら、公園を抜けると、また元来た道を辿った。大通りではなく、住宅街を抜けてきたから、俺はあまり道を覚えていない。ここで朗を見失ったら、途方にくれるだろう。自分がどこにいるかも、わかっていなかった。
「ここ、どこ」
 ふいに不安になって、訊いた。突然、ここが異国のように感じられた。知らない土地で、迷子になったような気分。
 朗はふいっと俺の方を振り返った。何か問い掛けるような目だった。だから、俺は立ち止まってしまった。でも、俺はそれに答えられなかった。何を答えたらいいのか、わからなかった。ただ、心細さを抱えて、途方にくれていた。すっと朗の右手が伸びてきて、俺の左手を掴んだ。無造作に、コートのポケットに突っ込まれる。中で、指が絡まった。
 見上げた朗の耳がほんのり赤い。朗が歩き出して、俺は引っ張られるように、その後をついていった。さっきまでの、心細い気持ちは消えて、口元が緩んだ。
 無言で、歩く。俺は俯いて、緩む口元を隠した。ポケットの中の手は、緩く握られている。
 静かな住宅街に、二人分の足音が響く。手を繋いでいるから、歩調が自然と一緒になる。それと一緒に、俺の心臓もどきどきと音をたてていた。それが指先に流れて、朗に伝わるんじゃないかと、心配だった。
 俺は、帰りには一言も、文句を言わなかった。


 朗は好きなだけいればいい、と言ったけれど、俺は一度部屋に帰ることにした。何にしろ、服もないのでは不便で仕方ない。手を離してしまうのは、ひどく残念だった。でも、そのまま部屋に帰ったら、きっとどうしていいのかわからなくなっただろう。
 駅前で、なんとなく二人で煙草を吸った。じゃあ、とその一言が言えずに、俺は足元を見てはそこにある石を転がしていた。
「携帯、番号教えて」
 ふいに思い出して、ポケットの中にあった携帯を取り出すと、留守電が入っていた。恭司だろう。俺は、すっかりその存在を忘れていた自分に、驚いた。
 すらすらと言われた番号を、登録する。そのまま掛けるから、登録しろよ、と言うと、今は携帯を持っていない、と言う。部屋? と訊くと、頷いた。
「何か書くもんとか持ってないの?」
 自分だけ携帯の番号を貰うのが気に食わない。朗は持っていないと首を振った。俺はきょろきょろと周りを見て、駅の窓口にボールペンがあるのを発見した。
 朗をそこまで引っ張っていって、中の駅員に「ペンちょっと借ります」と声を掛けてから、朗に手のひらを開かせた。
「なにか紙ないんですか」
「なくしたら困るだろ」
 言ってから、手のひらでは消えると思った。俺は朗の左腕の服を捲くって、腕の内側に、11桁の番号を書いた。
「何で腕なんですか」
「手のひらじゃ、消えちゃうだろ」
 不満気に言った俺に、朗は苦笑する。
「帰ったら、すぐ登録しておきます」
 安心しろ、と言われているようだった。俺は「わかってる。当たり前だろ」と言った。
 わかってる。ただ、書きたかったんだ。朗の身体に、俺のことを、何か刻印のように残したかったんだ。
 俺は、掴まれた腕の感触をまだ覚えていた。


 服は洗って返すからと言うと、気にしないで下さいと言われた。俺の言葉を少し意外そうに聞いていたのに腹が立った。
 だからクリーニングにまで出したと言うのに、その夜、朗は「goldfish」にいなかった。携帯の番号は、活用されていない。朗が掛けてきたら、俺も掛ける。そんな馬鹿みたいな決まりごとを勝手に作ったのだ。
「なんでいないの」
「そりゃあ、休みだから。朗だって毎日仕事なわけじゃないよ」
 不機嫌に言った俺に答えたのは、オーナーの氷上だった。やり手のクラブオーナー、とみんなには言われている。おやじの癖にかっこいい、ずるい男だった。
「何?」
「別に。何でもない。いないならいい」
 氷上は目を眇めながらも、それ以上は訊いて来なかった。その代わり、嫌な話題を振って来た。
「春都、恭司とはどうなってんだ」
 俺は答えなかった。答えるべきことを思いつかなかった。
 氷上はわざとらしくため息を吐いた。
「相変わらずか……はっきりしちまえばいいのに」
 はっきり。何がどうしたら、「はっきり」するのだろう。俺はオーナー手製の、「goldfish」を呷った。赤くて甘い、見かけより度数の強い酒。この店のオリジナルカクテルは、氷上が作るのが一番上手い。
「恭司とその状態で、朗に手を出すなよ」
 今までに聞いたことのある中で、一番とも思えるほど、真剣な声だった。少なくとも、氷上が自分の従業員のことで、こんな声を出すのは初めて聞いた。
「朗はオーナーのお気に入り……って、本当だったんだ」
「茶化すなよ。俺は純粋に、朗には幸せになって欲しいと思ってるだけだ。本当は、ここで働かせるのも迷ったんだ」
 純粋に。俺だって、朗の幸せなら純粋に祈りたい。
「うん。ずい分おかしな毛色のバーテンだと思った」
 朗は変わらない。相変わらず、生真面目にバーテンをしている。客にからかわれては、少し赤くなったりしながら。のりでキスしたりなんかしない。
「でも、どうせ夜の仕事をするなら、俺の目の届くところの方がいいと思ったし。ここなら、一応バーだからな」
「何? 朗と知り合いだったの?」
「…………友人の息子。それで知ってる」
 ふーっと疲れ切ったように紫煙を吐き出す。そういうのが似合うところが、氷上のずるいところだ。
「ふーん。でも、大学生なら、他にも何かバイトがあるんじゃないの」
 この間みたいに、昼間が空くときだってあるのだろう。そう思えば、わざわざ夜に、それも深夜までやっているバーで働くことはない。
「小遣い稼ぎならな」
「違うの?」
 違う、ときっぱり言われる。
「あいつ、苦学生なんだよ。その上、今時珍しく純朴で真っ直ぐで、義理堅い。家族思いだしな」
 氷上が他人を誉めるというのは、不思議な感じだった。でも、それが朗だと思うと、納得してしまう。俺は自分が誉められたかのような錯覚をする。全くの、真逆の性格だと言うのに。朗が誉められるのは、自分のことのように嬉しかった。


 結局、会えないとなると我慢できなくなった俺は、「goldfish」の帰り道、朗の携帯に電話を掛けていた。カラフルなネオンに溢れる道の真ん中で、朗の声が柔らかく響く。
「バーからの帰りですか? それなら、もし良かったらうちまで来て貰えますか?」
 服を持ってきたというと、そう言われた。道、覚えてますか、と訊かれて、頷いた。
「今、頷きました?」
 笑い混じりの声がするりと耳の中に入ってくる。あ、と俺は間抜けな声を出した。
「頷いた」
 可笑しくなって、くすくすと笑ってしまう。電話だと言うのに忘れていた。
 朗と話していると、全部を言葉にしなくてもいいと思ってしまう。笑い合ったり、見つめたり。それで事足りてしまう。温い水の中に漂うような、そんな気持ち良さがある。
「じゃあ、待ってます」
 待ってます。なんて良い響きだろう。朗が俺を待っている。俺が行くのを、待っている。
 バーから朗のアパートまでは、歩いても十分ほどだった。でも、朗に会えると思うと、俺のほうが待ちくたびれそうだった。
「いらっしゃい」
 狭い階段を上って、小さなドアを控え目にこつこつと叩くと、朗の小さな笑みが迎えてくれた。
「休みなのに、ごめんな」
 玄関口で、ここで帰るべきじゃないかと躊躇する俺に、朗は当たり前のように「どうぞ」と中に入るよう促してくれた。
 小さな折りたたみ式テーブルの上には、ノートや本が置いてあった。
「あー……邪魔しちゃったみたいだな。やっぱり帰るよ」
「コーヒー一杯くらいはいいでしょう? 俺もちょっと休憩」
 んー、と伸びをする朗は、年相応に見えた。学生なんだな、と思う。俺はすとんと坐った。目の前のノートをちらりと見ると、朗の性格を伺わせる、几帳面な字が並んでいた。かくかくした、丁寧な字。それはひどく親しみやすい字だったのにも関わらず、書いてあることはさっぱりわからなかった。
「服、ありがとう」
 袋を渡すと、朗は目を見開いた。
「クリーニング?」
「そう。洗って返すっていったら、びっくりしてただろ? 心配だったのかと思って」
 何しろ、俺はコーヒーもまともに淹れられず、トーストを焦がした男だった。信用ないのは、仕方がない。
「そういうつもりじゃなかったんですけど……でも、ありがとうございます」
 朗を好ましいと思うのは、こういうときだ。例え人の好意が押し付けだとしても、素直に受け取ってくれる。
 朗はテーブルの上を簡単に片付けて――ばさばさと、あまりに適当にノートたちを扱ったので、少しびっくりした――マグカップを置いた。香ばしい匂い。温かい湯気。白いマグカップはすとんと寸胴で、手に馴染んだ。
「今度の休みっていつですか」
「休み? 適当だけど。みんな結構好きなときに取るから」
 こくりと飲んだコーヒーが、変なところを通過している感じがした。朗と仕事に関わる話をするのは、ひどく嫌な気分だった。
「じゃあ、もし土日で連休取れるときがあったら、俺の田舎に行きませんか?」
 朗が「行きませんか」というとき、どうしてこんなに明るくあっけらかんと響くのだろう。ピクニックにでも誘われている気分だ。実際、田舎にと誘われているのだけれども。例えただ一杯のコーヒーを飲むだけだとしても、俺を誘うとき、男たちの言葉はこんな風には響かない。
「朗の田舎?」
「はい。今度顔出しに行こうと思って。電車で三時間ぐらいかかるんですけどね」
 朗の田舎。とても、魅力的な響きだった。
「いいの? 俺が行っても」
「全然、構いません。電車も一人じゃつまらないし」
 朗の言葉はすごい。本心からそう思っている風にしか響かない。本当は邪魔何じゃないかとか、少しも疑いを感じさせない。それを言えば、きっと「本心ですから」と朗は言うだろう。戸惑いのない、素直な真っ直ぐな言葉。
「じゃあ、行きたい」
 俺も努めて、真摯な気持ちで答えた。どうか、本心からそう言っていると、伝わるようにと願いながら。


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