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腹黒天使と純真悪魔の奇妙な物語


第一話 05

 リシュアがグラスを持ってきて、改めてシャンパンを差し出した。キアは少し迷った末に、今度は素直に受け取った。それをごくごくと、まるで水のように飲み干す。
「……ここはとても住みやすい。さすが青い悪魔のキアが作っただけある。天使たちも楽しそうに暮らしているし、特に花の装飾は気に入られていて、うっとり見入っているものもいる」
 リシュアの言葉がくすぐったい。キアは椅子を勧められて、どさりと向かいに坐った。その椅子の覚えがある坐り心地に、部屋に入って来て初めて、ここが何も変わっていないことに気付いた。
「ここ、全然変えてないんだな」
「変える必要がないだろう?」
 リシュアの答えに、キアは少し目を見開き、口篭もった。リシュアはいつも自分をからかうようなことばかり言うのに、こういうときは嬉しくなることを言ってくる。つまりはリシュアは、キアのこの部屋を気に入ったということだろう。
「確かに」
 と、リシュアは椅子に深く腰掛け、キアを流し見た。
「俺たちは新しい城にとても満足している。氷の城は思ったより早く溶けてしまったし、少し不公平だな」
 ふいにそんなことを言われて、キアは戸惑った。今になって見れば、あの城は氷であろうがなかろうが、綺麗だったと怒りも収まってきたところだった。
「だからって、今更ここを返せなんて言わないぞ」
「もちろん。キアがそんなに懐の小さい奴だなんて思ってない。でも、あの勝負の賞品としてここを完全に貰ってしまうのは、正直俺のほうが心苦しい。キアの潔い負けっぷりを考えると余計に」
「負けっぷりって、嫌味な奴」
「誉めてるんだけど?」
 リシュアはひどく甘い顔をしている。どうしてそんな目をするのか、キアにはよくわからない。そういう顔をされると、キアは居心地悪くなるのだ。
「だから、これは提案なんだけど。ここは天使と悪魔の共同領域にしたらどうだろう」
「共同領域?」
「そう、この部屋はキアに返す。俺は隣の部屋を貰う。キアの小悪魔たちも連れてくればいい」
 キアは眉を顰めた。ずいぶんと寛容な提案だ。勝負は終わった。リシュアが勝って、テフ島を手に入れた。一度決まったことだ、どんなことがあろうと今更それをひっくり返そうとは悪魔であるキアも思わない。
「ここを返せなんて言わないって言っただろ」
「そう。だから、返すんじゃなくて、お互いで分けようって言ってる」
 悪い提案じゃない。氷の城で騙されたよな気分になったのは確かだ。だが、キアは気に入らなかった。ここで頷くのは、それこそ本当に負けのような気がする。
 だからキアは、頷くことも断ることもできずに、宙を睨んでいた。リシュアはそれをじっと眺めていた。


「どうにも気に入らない」
 テフ島からしばらく振りのリ・キアの屋敷に帰ってきたキアは、ずっと不機嫌だった。苛立ちが収まらないのか、羽も畳まれずにずっと羽ばたいている。まだ小さな身体の悪魔たちは、おかげで全く近寄れない。もうすぐ大人のヤンでさえ、ときどきその羽ばたきに身体が揺れてしまう。
「キア様、何がお気に召さないのかわかりませんが、羽だけは大人しくしていただけませんか」
 恐る恐るそう頼むと、ぎろりの睨まれつつも少しの間は羽を止めてくれる。だがそれも一瞬のことだ。小悪魔たちがほっと息を吐いた途端、またすぐ風が起こる。ヤンはほとほと泣きたい気持ちになった。
 何度目かの「気に入らんっ!」と言う怒声に館中の小悪魔たちが身を縮めたとき、大きなため息とともにカイルがキアの扉を叩いた。
 キアが応えるわけがないとわかっていたのか、カイルは返答を待たずに扉を開ける。
「キア様。少し落ち着いていただけませんか」
 カイルは再び大きなため息を吐いた。キアの前でこれほどあからさまな表情ができるのは、この館の中ではカイル位だ。
「うるさい、カイル」
「その苛々の原因はこれでしょうかね」
 ひらり、とキアの目の前に紙が垂らされる。真っ白で透かしの入った上等の紙だった。
「なんだこれは」
「お隣の看取りの天使からのお手紙です」
 キアはもの凄い目でその紙を睨んだ。ヤンは紙が燃え上がるのではないかと、思わず身を引いた。
「手紙? あいつは平気でこっちに来ることもあるだろうが。今更なんだ」
「正式文書として送られてきたからですよ。お話はあらかた聞いていらっしゃるのでしょう? いいお話だと思いますが」
 でも気に入らん、とキアは唸った。
「何がです? 共同にするのがですか? それともテフ島に住むことですか?」
「なんだって? テフ島に住むってなんだ」
 キアはカイルの手から手紙をひったくると、それをすばやく読んだ。
 書いてあるのは、先日の共同領域の話だ。だが、一つだけ、あのときリシュアが話さなかったことが記してあった。
 ――なお、この共同領域に関する取り決めは、以下の条件を満たした場合とする。すなわち、天使、悪魔、双方の長が島に住むこと。以上を条件とする。
 ここで言う「双方の長」とは、もちろんリシュアとキアのことだ。キアはくしゃくしゃとその紙を丸めた。
「こんな話は聞いてない」
「手紙を届けた天使から、看取りの天使の伝言も頂いています。『今回の件は、天使長にも魔王様にも届けていないこと。テフ島がどちらか一方の領域となると、お叱りがあってもおかしくはない。天使たちは屋敷がないため、しばらくテフ島に滞在をしなければならない。長たちを心配させないためにも、悪魔側の滞在もあったほうが望ましい』とのことでした。私も同感です。テフ島が天使側に取られてしまうのは、正直好ましくないことです。あちら側からのお申し出でありますが、ここは大人になって、お受けしたらいかがでしょうか」
 いとも簡単に言ってのけたカイルをキアが睨む。だが、小悪魔たちなら慌てて逃げ出すその眼力も、上級悪魔のカイル相手ではなかなか効かない。そもそもカイルは小悪魔時代から生意気だった、とキアは忌々しそうにその冷たく整った顔を見た。この生意気で口煩い執事代わりの悪魔の唯一の長所がこの顔だ、とキアは見るたびに思う。
 ――大人になって。
 本当に嫌なことを言う。これで断ったら、まるで自分が小悪魔並に子供だと言うことじゃないか。キアは丸めた紙を床に投げつけた。
「ここはどうする」
「不肖ながらわたくしが。それに、キア様ならば、テフ島からここまですぐに飛んでこられるでしょう」
 謙遜の言葉を述べているのにも関わらず、その自信満々な態度はどうだろう。全く、面白くない。
「それとも、看取りの天使が苦手とでも?」
「嫌いだ!」
 苦手、と言うのは悔しい。だからキアは、そう叫んだ。カイルは相変わらず生意気そうな冷たい表情で、そんなキアを見ていた。それからふっと息を吐いて、転がっていた紙を取り上げた。それを丁寧に細い指で伸ばす。
「ご用意はわたくしの方で致しますので。キア様はヤンでも連れてお引越しください」
 急に名前を呼ばれて、それまで壁にぴたりと背を付けて沈黙を保っていたヤンがびくりと顔を引き攣らせる。その泣きそうな顔にようやくキアは「まあいいか」と思った。ヤンのこの顔が毎日見られるのなら、それもいい。最近はカイルに似てきて、少しばかり生意気になってきたのだ。
 キアは不機嫌な顔を保ったまま「行くぞヤン」と言って、窓から飛んだ。


 怒っているキアの顔は綺麗だ。リシュアは緩みそうになる口元をなんとか引き締め、目の前の悪魔の顔を堪能していた。テフ島にあるこの城にやって来てからずっと、機嫌が悪い。おかげで天使たちも気が立っているし、食事を運ぶ見習いたちの手が震えて粗相が増えるしで大変なのだが、今夜から同じ屋根の下で眠るのだと思うと、リシュアの機嫌は良くなるばかりだった。
「キア、ソースがついてる」
 本当は直接舐めたいところを我慢して、口元のソースを指で拭う。キアは不機嫌な顔のまま、じろりとリシュアを見た。それに微笑みかけながら、ぺろりと指を舐める。周りの見習い天使や小悪魔たちがぴきりと固まろうが、気にしない。リシュアは笑ったまま、キアのグラスにワインを注ぎ足した。
 天使たちは恐々とその二人の様子を見ていた。酷く不機嫌な上位悪魔がいるだけでも堪らないのに、いつもは決して自分のグラスに酒を注ぐことさえしない大天使が、人のお酌をしているのだ。もう、逃げ出したくて堪らなかった。それに、悪魔の世話をする大天使なんて、見たくない。
 リシュアはそんな天使たちの心情もわかっていながら、全て無視した。何しろ、ずいぶん待ったのだ、この日が来るのを。
 初めてキアを見たときから数十年、からかっては楽しんできたが、そろそろ手に入れたい。リ・リシュアの城が壊れたのは、絶好の機会だった。この鋭く睨む目が、抱いたときにはどんな風に濡れるのか。想像するだけで楽しくなってしまう。
 それでもまだ、これはこの、綺麗な青の悪魔を手に入れるための第一歩。料理で言えばようやく材料が揃ったところで、それを食すためにはまだまだ手間ひまも時間もかかる。
 さて、一体どう料理するべきか。
 不機嫌ではあるがリシュアがこんなことを考えているとは夢にも思っていないだろうキアを眺めながら、リシュアは一人、それはそれは楽しそうに笑った。


(第一話 了)


*この第一話に出てくるお城の話は、フランスのとある地方の民間伝承をベースにしています。

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