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遠景涙恋
夕月
04
夜になってキーファが部屋に戻ったとき、夜はかなり更けていたにもかかわらず、リーフィウは眠っていなかった。寝たふりはしてみたが、気配に敏感なキーファを騙せるはずがない。
「眠れないのか」
さらりと髪を撫でられ、リーフィウは観念して振り向いた。ゆっくりと、唇が重なる。
これだけで、いいと思う。傍らにいる以上のことを望まないと、ルクを出るときに決めたはずだった。だから、この温もりに触れられるだけで、それだけでいいと、思うのに。
ゆっくりと目を開けると、キーファの心配そうな目が見えた。
「昼間のことを、気にしているのではないかと思っていた。やはり……」
「いいえ。ソア様がおしゃったことは正しいことです」
「だが、それでは」
キーファは言葉を止めた。リーフィウが、微かに笑みを浮かべながら首を振っていた。
「心配なさらないで下さい。大丈夫ですから」
リーフィウは、それ以外の言葉を見つけられなかった。大丈夫、大丈夫。何が大丈夫なのかわからなくとも、ただそれだけを唱えていたからだ。
キーファはじっとリーフィウを見て、ふいに乱暴に立ち上がると、そのままくるりとリーフィウに背を向けた。
「大丈夫だと、言うのか。俺の婚姻の話を聞いても、子供の話を聞いても」
「……キーファ王の婚姻もお世継ぎのことも、当然のことでしょう」
リーフィウはゆっくりと上半身を起こした。キーファは背を向けたまま、戸棚へ向かいハカ酒を取り出して、瓶ごと煽った。
「平気だと、言うのだな。俺が、他の女と結婚しても、子供を作っても」
キーファが乱暴に、口元を拭う。リーフィウは寝台から降りて、その横に立った。
「それが、王の務めでしょう」
リーフィウは、声を震わせないように慎重に口を開いた。部屋の隅の明かりが、その影を長く寝台の上に伸ばしていた。
「あなたは、カハラム王だ。王は、過去を知り、今を生き、未来を作らなければならない。今と、それに続く時代が平和であることを、民に証しを立てなければならない。それが王の務めであり、それが、王であること――」
リーフィウの言葉の途中で、キーファはまた酒瓶を煽った。勢いに、幾筋かの零れた酒がその首から胸元を濡らした。
「わかっている。わかっているっ。だが、それを、あなたが言うのか」
キーファが腕を大きく横に振った。酒瓶が戸棚にぶつかって割れる。がしゃん、と大きな音がして、戸棚の中のグラスも割れた。深い茶色の床に、ぽたりぽたりと、ハカ酒が垂れた。
大臣達の言うことが正しいと、キーファはわかっている。彼らの心配がもっともだと言うことを。だが、それでは誰も幸せになれない。自分も、リーフィウも、そして、結婚させられる人間も。キーファは知っているからだ。リーフィウ以外の人間を愛することはないだろうと。
「王であることを選んだのが、間違いなのか」
搾り出された声に、リーフィウは首を振った。何が間違いかと言うのなら、二人が、惹かれ合ったことだろう。男同士であるにも、関わらず。だが、それをわかっていても、一緒にいようと思ったのだ。キーファが王としての務めを果たすことに対して、何が言えよう。
キーファがつかつかとリーフィウの元まで歩いてきて、その肩を掴んだ。
「あなたはそうやって、全てを許してしまうのか。俺が、何をしても。他の人間を抱いてもっ」
「だって――」
リーフィウがそのキーファの腕を払って、叫んだ。
「だって、仕方がないでしょうっ」
「仕方がない?そんな言葉で、簡単に片付けられることなのか、あなたにとってはっ」
キーファがリーフィウの腕を掴んだ。リーフィウは再び、それを振り払おうと暴れた。
どうにもならないことは、たくさんある。二人が男であることも、キーファが王であることも。それでも傍にいられる今が、奇跡のようなものだ。
だから、仕方がないと、リーフィウは自分に言い聞かせ続けていた。
「簡単?そんなわけがないでしょう?!でも、それ以外、どうしたら――」
暴れるリーフィウの腕をキーファは離さなかった。だが、リーフィウも負けずに、それを振り払おうと必死だった。二人の影が、大きく揺れた。
「仕方がないでしょうっ?!子供が、産めないのだからっ」
リーフィウがそう叫んだ途端にキーファの手が緩んで、リーフィウはそのままぽすりと、寝台の上に仰向きに倒れた。
「だって私では、子供は産めない……」
濡れた瞳から、涙が一筋流れた。リーフィウは両腕を交差させ、顔を隠して荒い息を何度も吐き出した。
大丈夫。ずっと、そう言い聞かせてきた。キーファの隣に他の人間が立つことになろうと、大丈夫だと。ただ、傍にいられるなら。
キーファは自分の間違いを悟って、大きく一息つくと、ゆっくりと寝台に腰掛けた。それからそっと、恐る恐る、リーフィウに手を伸ばした。その髪をさらりと撫でて、ゆっくりと抱き締める。
「すまなかった……」
どれだけ、リーフィウは悩んだことだろう。そして、どんな風に、仕方ないと言ってしまうまでの気持ちの整理をつけたのだろう。どうすることも出来ない、問題を抱えて。
「嫌だなんて、言えるはずがない」
リーフィウが震える声で言った。キーファは抱き締める力を強めて、すまなかった、ともう一度詫びた。
扉を控え目に叩く音がした。音を聞きつけたハリーファだろうと、キーファは僅かに身を起こして、「なんでもない」と答えた。
リーフィウが、もぞりと動いてその腕をキーファの首に巻きつけた。キーファも、緩んだ腕を強めた。二人はそうしてしばらく、ただ抱き合っていた。
キーファが「考えていること」を重臣たちの前で発表したのは、それから間もなくのことだった。すぐにでも言えなかったのは、突然政治の場に出されることになるだろう、相手のことが心配だったからだった。例え相手が頷くにしろ、首を横に振るにしろ。キーファの提案が、相手に拒否されれば、先に話してしまったことで彼女たちの静かな生活を壊してしまうことになる。それだけは、避けたかった。この提案をすることに、キーファは少なからず、後ろめたさがあった。
「……姉君が、いらしたのか」
キーファが第一王位継承者として紹介したのは、姉シャラシュアの息子、シンハークだった。まだ、6才の子供である。だが、それよりも出席者を驚かせたのは、キーファに姉がいたことだった。
キーファ自らが扉を開けて、そこに控えていたシャラシュアとシンハークを迎え入れた。シャラシュアの手を取って、椅子まで案内する。その様子に、近くにいた重臣たちは、彼女の目が見えていないことに気付いたようだった。
シンハークは、母の手をしっかりと握りながらも、大勢の大人の前で臆した様子もなく真っ直ぐに顔を上げていた。そんな彼だからこそ、キーファも継承者として選んだのだ。
シャラシュアは、自分が現王家の娘だと言うことを、知らなかった。ただし、皇后は何度か忍んでシャラシュアの様子を見に行っていたことがある。不幸なことに、それがタシュラルに彼女の存在を知られるきっかけになってしまったのだが、稀に訪れるその優しい女性が自分の母親ではないかとは、シャラシュアも思っていた。そして、皇后が亡くなったとき、キーファがそれを知らせに来たことで、自分が先王の娘だと、知ったのだった。その時点で、育ての親はかなりの年になっていた。
キーファの後ろめたさは、その点にある。親子の将来を誰もが心配していた中での、提案だったのだ。その将来を保証すること、そして、シンハークを次期王として育てること――。交換条件としての提示ではなかった。だが、そう取られても、おかしくなかったとキーファは思う。シャラシュアは、賢い女性である。大いに悩んだに違いなかった。その彼女に決断させたのが、シンハークだった。
「いろいろ勉強できるよね?キーファ様もリシュ様も、いつも僕の話を聞いてくれるし、ちゃんと答えてくれるもの。きっと楽しいよ?」
シンハークのその言葉に、シャラシュアは心を痛めた。目立たぬよう、ひっそりと暮らしてきたが、子供にとってそれが決して幸せだとは思えない。その上――。
「シンハーク様の、お父上は?」
ソアの言葉に、シャラシュアの頬が僅かに強張った。だが、彼女が口を開く前に、キーファの声が響いた。
「亡くなっている。よって後見人には私がなる」
広間は静かだった。だが、困惑の雰囲気は、目の見えないシャラシュアにもしっかりと伝わっていた。
キーファは知っている。シンハークの父親は、誰なのかわからない。シャラシュアが十七のとき、男に乱暴されたのだ。目の見えないシャラシュアには、それが誰だったのかわからない。だからこそ、親子はひっそりと暮らすしかなかった。そのことを知っているのは、育ての親とシャラシュア、そしてキーファだけだった。
知っていながら、キーファは守ると言ってくれた。そして、父親が誰であろうと、シンハークには一切罪は無いのだから、と。
「キーファ王。ここではっきりと確認しておきたいのですが、王のお子が生まれたときは、どうなさるおつもりなのか」
その質問に、キーファは僅かに苦笑した。
「俺の子は、生まれない」
「王?」
「結婚をする、しないの問題じゃない。俺には、子は生まれないと思う」
一瞬広間がざわついた。王と親しい軍隊長たちも、驚いた顔をしている。
「考えてもみろ。昔の俺は女遊びが派手だっただろう?もちろん、女たちは玄人ばかりだった。だが、中には俺との子を成そうとしていた女もいたはずだ。俺もそれについては、慎重だったわけじゃない。だが、今まで、一人として子を孕んだ女はいなかった」
長いため息を吐き出して、キーファは椅子に凭れた。目の前の、茶碗を見るとはなしに見る。ひどく皮肉めいた笑みが、その口元に浮かんでいた。
家臣たちは、思わず顔を見合わせた。言われてみれば、今まで一度として子を孕んだと言った女はいない。キーファが相手をしてきた女の数は、今の重臣たちでさえ、顔を顰めるほどだ。
「わかっただろう?つまり、何にせよ、俺は世継ぎを作れない。血を重要視するなら、シンハーク以外に適任はいないだろう。それを抜きにしても、俺はシンハークを買っている。おまえたちを、買っているのと同じに」
家臣たちから、反対の声は上がらなかった。この時をもって、シンハークは、第一王位継承者となった。
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