home
モドル 1-04 01 02 03 * 05
遠景涙恋
第二章 雪紅花
04
そんなことがあってからも、キーファは毎晩の訪問を止めようとはしなかった。翌日も、その翌日も、きちんと先触れを出してはリーフィウのもとに通ってきていた。王の寝室に行くことは少なくなり、そして、キーファは決してリーフィウに触れようとしなかった。
あれは、酔いの所為だったのだろう、とリーフィウは自分に言い聞かせた。キーファが突然、どうしてあんな風に抱いたのか、その説明には少しもなっていないのは分っていた。ただ、あの日違ったのは、キーファが酔っていた、ということだけで、それに縋るしかなかった。
ただ、性欲処理のために抱かれた。
そう思ったほうがずっと気が楽な気がした。でも、同時にひどく空しいようなやり切れないような―――自分でもわからない気持ちがあった。
三日ほど経って、ラシッドが昼間に訪れた。どこか心配そうな顔に、ああ、あのことを知っているのか、と少しばかりリーフィウの心が暗くなった。何よりも辛いのは、そのことかもしれない。
ラシッドやイーザが心配していることと、事実は少しばかり異なった。無理やりという点では相違はないが、リーフィウが嫌だと叫んだ声はイーザの部屋まで聞こえており、それをラシッドが聞いて、乱暴な行為を働いたのだろう、という心配をしていたのだ。だが、リーフィウは、行為による傷は負っていない。叩かれた頬が痣になったのと、自分で声を我慢するために噛んだ歯の跡が、腕に残っているだけだった。
「シャリーアが裁縫を始めましたよ」
ラシッドは結局キーファとのことは触れずに、リーフィウに笑いかけた。
「裁縫……ですか?」
突然言われた言葉に驚いて、リーフィウは少し目を丸くした。何しろ、シャリーアに似合わないのだ。裁縫だの、料理だの、そう言うものに一切興味を示さなかったのが妹で、王家だからと言っても、それぐらいのことができなくてどうするのだ、という母王妃の悩みの種だったというのに。
ラシッドはくすくすと笑って、それほど嫌がっておいでだったのですか?と聞いた。
「それだったら剣を持って戦うと言いまして……」
「それは勇ましい」
リーフィウの驚きがよほど面白かったのか、ラシッドはなかなか笑いをおさめなかった。
「いえ、今もそうなのかもしれませんが……何しろ時間がありますので、とても退屈なさっているのですよ。それで、私の故郷の布で余っているものがありましたので、譲ったのです。何か作られたらいかがですか、と。なんだかとても複雑そうな顔をなさっていましたが、結局今は侍女に教わっているようです」
その侍女が、裁縫の腕が確かで、その布を見た途端ものすごく乗り気になったのだった。その喜びように、シャリーアもいらないとは言えなくなってしまった。だからと言って、譲るとも言えない。何しろ、その布はかなりの高級品で、人から貰ったものをそうそう簡単に譲るのも失礼なほどだったのだ。
「故郷の布、とおっしゃいましたが……あなたの故郷はもしや」
「はい、コクスタッドです」
リーフィウはその、遠い西の国を思い描いてみたが、あまりに遠いため、少しもわからなかった。コクスタッドはカハラムから山を越えて西に進むこと数ヶ月、草原に立つ、城壁に囲まれた国だった。カハラムで話されているカハラム=サムフ言語は、この地域の方言と言っていい。
「ずいぶん、遠くから……」
「そうですね。でも、色々ふらふらして辿り着いたので、実際の距離はあまりわからないのですよ、私には」
コクスタッドからカハラムの間にあるのは、小国というより各国の地方都市と呼んだ方が良かった。独立した形態ではあるが、どちらかの庇護を受けていることが多い。それは少し、ルク国と似ていた。
もう、なくなってしまった、故郷。
ラシッドははっとして、自分の迂闊さを呪った。故郷の話など、彼の前でしていいものではない。だが、その心配とは反対に、リーフィウは柔らかい笑顔を見せた。
「一度、行って見たいものです。素晴らしい城壁なのでしょう?それに、とても美しい街だと聞きました。」
「光の季節の間だけですが。白の季節は雪に閉じ込められて、なんとも寂しい景色です」
この半島にある、カハラム第二の都市キャスカは、一年を通じて過ごしやすい、温暖な気候だった。そのため、いつでも花も緑も絶えず、海へ流れる河は、雨量の多い山々から流れてきていて、水量も豊だった。
「雪……」
ふとリーフィウが目を輝かせて、ラシッドは胸を衝かれた思いだった。初めて、この少年の15才という年頃らしい表情を見た気がした。
「雪に、閉じ込められてしまうのですか?」
「ええ、そうです。こちらでは雪など降りませんから、想像しずらいかもしれませんが、結構な高さになるんです。白の季節は、二階から出入りするぐらいに」
二階から?とリーフィウが目を丸くする。ラシッドはおかしくなって、くすくすと笑った。
「では、道は?あの、埋まってしまわないのですか?」
「気温がなかなか上がらないので、上がっても少しばかり溶けた雪はすぐにまた冷やされてしまうので、そのまま雪が固まっていってしまうのです。ですから、道も雪道をそのまま。時おり気を付けないとずぼりってことにもなりますが、人が通る道はそれなりに固められますし」
リーフィウが、考え込んでいる。たぶん、想像など出来ないのだろう。
「リーフィウ殿、雪をご覧になったことは?」
「いえ、一度も……」
では、いつかコクスタッドにいらしゃって下さい。
ラシッドはそう言おうと思ったが、それはあまりに楽観的な発言で、今はリーフィウにとって決して快い言葉ではないと考え、その言葉は飲み込んだ。だが、そうなって欲しいと、心から願ってはいた。
リーフィウが、自由に旅もできるようになることを。できれば、あの不器用男と二人で。
しばらく沈黙が流れた。あまり大きくない窓が一つだけしかない部屋だったが、天井が高いせいで、あまり息苦しさは感じなかった。焚かれた香が、微かに香っていた。
「キーファ王と、何のお話をするのですか」
この香は、キーファが好むものだった。気持ちを落ち着けるときに効くのだと、らしくもなく言ったことがあった。
突然キーファの名が出て、リーフィウは僅かに動揺した。この三日、キーファはそれこそリーフィウには指一本触れなかった。寝台の上でも、リーフィウには背を向けて、じっと動かずに眠っていた。
「話……ですか?何も……」
会話らしい会話は、未だしていない。だからこそ、キーファが何を考えているのか少しも分らないのだが、リーフィウはキーファと会話をするということこそ、変なことだと思っていた。
彼は王であり、征服者であり、自分は捕虜だ。
「何も?」
こくりと頷くと、ラシッドが目をぱちりとさせた。
何も、とはどう言うことだろう。毎夜毎夜、一緒に寝ていながら?
キーファがリーフィウを抱いているかどうか、ラシッドは少しばかり疑っていた。最初の三日は、確かに抱いたのだろう。だからこそあの薬を頼まれていたのだし、その必要性もラシッドには良くわかっていた。
「本当に、何も?」
驚いたように言うラシッドの表情に、リーフィウが僅かに笑った。
「お話することがないと思いますが……」
「そうかもしれませんが……でも……あの、もしかして、二人でただ眠っているだけなのですか?」
ラシッドの逡巡に、リーフィウはこの人は何でも知っているのか、と思った。だが、それならば何も自分は隠すことはなかった。
「私も不思議に思っておりました。なぜ、キーファ王は私の元にいらっしゃるのか……」
それは、とラシッドは言いかけて止めた。表向きは、キーファはリーフィウを抱くために通っていることになっている。いや、実際そうでもあったはずだ。
あのときキーファがリーフィウを呼ばなければ、リーフィウは今ごろどうなっていたかわからない。されることは一緒だからリーフィウにとって苦痛に変わらないかもしれないが、少なくとも、今のこの穏やかな時間はなかったに違いない。
あの、リヤムシャレンを踊ったリーフィウに、あの場にいたどれだけの男が欲情したことだろう。あれはキーファの失策だったとラシッドは思う。
あの場には、少年を好む輩が大いにいた。宰相のタシュラル然り、その息子然り。特に息子は異常な性癖で、人を痛めつけることを喜びとしていた。
だからこそ、キーファはリーフィウのもとに毎夜通う。どれだけタシュラルが力が強くとも、王の相手に手を出すことは許されない。キーファを一応の傀儡の王とするためにも、下っ端の兵達にはそれなりの威厳を感じてもらわなければならない。その点、キーファは理想的とも言えた。何しろ、戦闘能力だけは異様に高い。それだけで、兵達を統括するのは簡単だった。
あとは全てお任せあれと、タシュラルはずる賢い顔を恥じもなくさらして、澄ましている。
その兵たちの統括をする者として、キーファが取った苦肉の策があのリヤムシャレンだったに違いない。今回は国王軍のみではなく、タシュラルの息子、ラ・フターハの第一師団も参加していて、規律を守らせるのに苦労したのだ。
ルクの王子と姫を捕らえたことは、皆が知っていたことだった。生きて捕らえよという命は出発前からなされていたことで、タシュラルも息子に口を酸っぱくして言ったに違いない。
その上、略奪、凌辱などの行為は一切禁止だという厳重な命も出た。国王軍下の兵たちはいつものことで、それを誇りにさえしているところがあるため、問題はなかった。だが、第一師団は違う。師団長からして、そう言う行為にこそ、喜びを見出す人間なのだ。
その兵たちの鬱憤ばらしに使われたのが、リーフィウだった。捕虜というのは、第一師団にとってはもはや人間ではない。それが王子という身分だったというのだから、余計に兵たちを興奮させていた。
リヤムシャレンは、失敗しても構わないものだった。
それを笑いの種にして、兵たちの鬱憤は少しは晴れるはずだった。しかも、それが娼婦の踊りだということは、兵たちはみな知っていた。リーフィウには辛いことだが、もしキーファが全く見放して、何もさせずに地下牢にでも入れていたら、今ごろは見も心もボロボロだったに違いない。実際、そう言った人間が今までにも何人も出ているのだ。
それら全てのことを、目の前のリーフィウに言うべきかどうか、ラシッドにはわからなかった。彼はあくまで捕虜であり、何より、彼自身の気持ちが少しもわからないのがラシッドには痛かった。兄様は、器用すぎて不器用なのよ、と幼い姫君が笑ったことを思い出した。
「聞いてみたらいかがですか?」
ラシッドの言葉に、リーフィウが不思議な顔をした。何を聞けというのか、とでも言うような顔だった。
「何をしに来るのか、お聞きになってみては?」
その答えを、是非とも自分も聞いてみたいと、ラシッドは思った。
home
モドル モドル 1-04 01 02 03 * 05