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モドル 2-05 01 02 * 04
遠景涙恋
第三章 水月
03
何しんみり話してんだろ、とザッハは立ち上がってうーんと身体を伸ばした。背の高い彼は、伸びると天井に手が届いてしまっていた。
「ね、ちょっと外に出てみませんか?」
急にそう言われて、リーフィウはびっくりした。何しろ、ずっと軟禁に近い生活だったのだ。
「甲板、きっと気持ちがいいですよ。今ならまだ寒くなりきらないだろうし」
船室の窓からは、濃いオレンジ色の光が入ってきていた。この日が沈みきると、海の風は陸に居るときよりずっと冷たくなる。
「出ても、いいのでしょうか?」
「へ?ああ、いいと思いますよ。俺はそのことは何も言われてませんし。船内案内もしろって……いけね。そう言えばそんなこと言われてたんだった」
ザッハはそう言ってぺろりと舌を出した。いつの間にか、随分とくだけた話し方をするようになっているが、リーフィウは少しも気にならなかった。返って、嬉しいとさえ思う。
「夕食にはもう少し時間があるはずだし、少し見て回りますか?」
船には乗ったことがあるが、艦隊は初めてだった。リーフィウがこくりと頷くと、では、とザッハが扉を開けた。
まずは、と甲板に行くと、何人かの兵たちが忙しそうに動いていた。ザッハはその兵たちに気安く声を掛けながら、リーフィウを手招きする。
リーフィウは、見えた光景に、言葉を失った。大きな夕日が、海に落ちていくところだった。きらきらと、海面が輝いている。
「でかいなあ」
ザッハの声に、周りの兵から失笑が洩れた。ムードねえぞ、と誰かからの声が掛かる。
だが、リーフィウの耳にはあまりそれらの声は聞こえていなかった。ただ、その美しさと輝きに、魅入られていた。
ルクの宮殿からも、海に沈む太陽が見えた。だが、今は全てを海に囲まれ、辺り一面がその色に染まっている。ずっと部屋に閉じ込められていたリーフィウには、あまりに広大な風景だった。
ああ、と思った。
生きていて、良かった、と。
その航海の間、キーファが一緒に眠ることはなかった。だが、ときどき酒を飲みに来ることはあった。その間、ザッハもどこかで飲んでいるようで、就寝の挨拶をするときはいつも酔っている感じだった。
ザッハはリーフィウのすぐ隣に部屋を持っており、眠るときはそこで寝ている。日中もそこで仕事をしているときもあるようだが、あまりリーフィウから離れることはなかった。離れるときは、ラシッドが来たりして、交代する。
静かな日々だった。キーファは相変わらず、外を見ていることが多かったが、ときどきリーフィウを甲板に誘った。夜気のしっとりした空気の中で、波の音を聞きながら酒を飲む。リーフィウも、そんな時間は好きだった。
キーファは甲板にどさりと腰をおろし、なぜか横長の椅子に坐らずに、そこに背を凭れさせる。リーフィウはその椅子に腰をおろすのだが、そうすると、キーファの顔を上から盗み見ることができた。精悍な顔だった。一向に身だしなみを整えないのはいつものことで、髪はばさばさで無精髭が生えている。ときどき誰かが見咎めるのか、綺麗になっているときもあるのだが。
決して変わらないのは、暗い目だ。だが、夜の海のように漣だってはいない。もっとずっと静かで、だからこそ、心がざわつくような目だった。
ガラスの杯が空になっているのが見えて、リーフィウは傍らにあった手差しを持ち上げた。立ち上がって、それから中腰で杯に酒を注ぐと、じっとキーファが自分を見ているのがわかった。さらりと、リーフィウの長い髪が落ちる。ふと、海の方で、ふわりと光ったものがあった。リーフィウが水差しを持ったまま海のほうを見ると、光はいくつもいくつも生まれては消えていった。
「海蛍だ」
「海蛍……?」
小さな魚だ、とキーファは言った。
「でも、飛んでいる……」
「あれは飛ぶときの力で光るんだ。ああして上に飛び上がって、水面を照らす。そうすると、メスが集まる」
淡い青色の光は、高く飛べば飛ぶほど水面を広く照らすことが出来、メスを多く集めることができる。
「あ……」
ぴちゃり、と音がして、その中の一匹が甲板に打ち上げられた。キーファは立ち上がると、それをそっと手にとった。すっと、リーフィウの前に差し出す。
「まあ、ちゃんと羽があるのですね」
「だからと言って長々と飛べるわけでもないが。なるべく長く空中に留まれるよう、頂点ではかなりの高速回転をするらしい」
キーファの手の中の海蛍はちょうど掌に乗るほどの大きさで、ぴちぴちと何度もその上で跳ねていた。そのたびに、ほんのりと青白く光る。
「綺麗……」
羽の部分が光るので、そこは透明になっていた。光っていなくても、綺麗な魚だ。
キーファはしばらくそうしてリーフィウに海蛍を見せていたが、やがて縁に歩いていき、それを思い切り遠くに投げた。近場では、スクリューに巻き込まれてしまう。
「あれはあまり寿命が長くない」
光るのは一晩だけの話で、雄は交尾の後は死んでいく運命だ。その一瞬のために、光るのだ。
キーファがふいっと掌を見たので、リーフィウは濡れているのだろうとその手を取った。それがびくりと震え、リーフィウははっとしたが、そこに幾筋かの赤い筋を見つけて、息を呑んだ。
「大変、血が……」
「大したことはない。海蛍の羽は薄いがなかなか丈夫だからな」
それを素早く動かすために、薄い皮膚は簡単に切れてしまい、漁をするにも特別な網や手袋が必要だと言われている。だが、その羽が加工用装飾品として高価な値をつけてもいた。
すっと手を引かれてしまい、リーフィウは所在なさそうに立ち尽くした。
ひんやりと、冷たい手だった。
「どうか手当てを……」
「心配してくれるのか」
ふいに言われて、リーフィウは伸ばした手を途中で止めた。キーファは杯の酒を口に含むと、ぶっとそれを吐き出して、掌に吹きかけた。それから、それを拭いもせずに、一振りした。
冷えてきたな、とキーファは呟いて、くるりと船室の方に身を翻した。リーフィウは、慌ててその後を追った。だが、キーファはそのままリーフィウの船室には寄らずに、帰っていった。
波の音が、やけに耳につく。
リーフィウは眠れずに、何度も寝返りをうった。船が揺れているわけではない。波の音も、いつもより大きいわけでは――きっとない。
カハラムを出発して、二週間がすぎていた。最初は慣れない船上の生活に眠れないのかと思ったが、どうやらそういうことではないらしい、と思ったのは最近のことだった。
おかしなことだ。傍らの温もりがないと眠れないなど。
宮殿にいるときも、別に抱き合って眠っていたわけではない。それどころか完全に離れて眠っていたのだから、温もりなどあるはずもなかった。
だが、そこに、気配がない。
何度目かの寝返りの後、リーフィウは諦めて起き上がった。これでも明け方近くに疲れ果ててすっと眠れることもあるのだが、今夜はそれも期待できそうになかった。
リーフィウは近くの戸棚から、パナ酒を取り出した。いつかキーファが来て、置いていったものだ。その時はもう一つ、透明なハカ酒を呑んでいたので、珍しいと思った。キーファはいつも、一時には一種類の酒しか飲まない。
そのパナ酒は、結局封も切られぬまま置いていかれた。それを見つけたザッハは、じゃあリーフィウ様に持ってきたのでしょう、と言った。
パナ酒は強い酒だが、深い芳香がリーフィウは気に入っていた。キーファが酒を注いでくれる中で、パナ酒のときはいつも遠慮なく貰っていた気もする。
分厚いガラスの杯にパナ酒を入れ、月明かりに透かしてみながら、リーフィウは長く息を吐いた。
キーファが不器用だと言った、ラシッドの言葉が蘇る。イーザが本当は優しいのです、と言った、そのことを思い出す。
そして、あの部屋に運び込まれた水甕とレアの花。
海蛍の、淡い光。
眠れぬ夜の、パナ酒。
香る、シュレの匂い。
こくりとパナ酒を飲むと、リーフィウはゆっくり目を閉じた。深い芳香がふわりと身体中を包むように香って、ほっと息をつく。
窓際に近寄って外を見ると、その近くに椅子を持ってきて坐り、海を眺めていたキーファの横顔が浮かんだ。見つめた記憶はないのに、その静かな横顔をはっきりと思い描くことが出来た。
さらりと揺れる髪。
立てた膝に置かれた、逞しい腕。
知らず、リーフィウはその美しさに見惚れていた。だからこそ、今宵もその姿を、思い描けるのだ。
三日目に抱かれたときは、恐怖もあったがかなり覚悟も出来ていて、ただなされるがままだった。まるで自分とは関係ないところで抱かれているようで、ぼんやりと目の前の身体を見ていたのを覚えている。
そのときに、いくつもある傷を見た。見えた限りで一番ひどかったのは胸の中心をざっくりと切られたような傷で、肉が変色して盛り上がっていた。よく、生きているものだと思うような傷だった。
その他、無数の傷があった。腕にも数え切れないほどの傷があったし、無傷な場所などないに違いない。そのほとんどは太刀傷のようで、すぱっと切れたようなものが多かった。
リーフィウは剣は苦手だ。そもそも、ルクの国は肉体的戦いより頭脳戦を得意としてきており、王家も剣術指導より戦術教育に熱心だった。だが、だからこそ最後の戦いで、リーフィウはまともに剣を振るうことも出来なかったのだ。
だが――。
ザッハは「王にはそれしかなかった」と言った。生きていくために、戦うしか。
その意味するところを、リーフィウは正確に把握しているとは思っていない。だが、ラシッドやザッハの言葉の端々から、キーファの状況はどことなくわかってきていた。
そもそも、王ともあろう人物が、このヤーミン討伐に出るのもおかしな話だ。
戦闘をしてこなかった、それも小国のルクの王子であった自分は、その辺りのことには疎い。だが、ここのところ読んでいる歴史物の話では、王とはここぞと言うときの戦いには出陣するが、小さな戦いには出るものではないのだ。
それに、遠めで見た限りだったが、第一師団の艦隊は、国王軍よりはるかに立派で、脇には小隊を連れていた。国王軍は、この一隻だけである。
船室の窓の外に、波に揺れる月が見えた。そこに手を伸ばして、触れてみたい衝動に駆られたが、そんなことは出来ないと知っているリーフィウは苦笑した。
あの水甕の水に触れるように、手を伸ばせばいいというものではない。
同じように、キーファのあの静かな瞳もまた、自分が揺るがせることはできないのだろう、とリーフィウは思った。
残りのパナ酒を、ぐいっと煽る。
そんなことを考えた自分が自分で、なんだか良くわからなかった。
*この「海蛍」は、実際の海蛍とは違います。あくまで想像上の魚です。
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