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遠景涙恋
第三章 水月


04
 カハラムからルクへの道のりは、風向きのせいもあって、逆の道のりより早く着くこともある。だが、隣国のサハ、ヤーミンの艦隊や海賊船に襲われる確立もまた、高い海域だった。
 カハラムの半島南部から出た船は、しばらく半島沿いを走った後、一気に北に向かっていく。南からの風を上手く帆に捉えれば、かなりの快速船となるのだ。
 この辺りの船は帆と櫂の両方を使っているのが普通で、国王軍の船には、三百人ほどの兵士と共に、十人ほどの船員、そして三十人ほどの漕ぎ手も乗っていた。師団の船では彼らは奴隷だが、国王軍は正式に雇った職人的な漕ぎ手で、彼らはときには一緒になって戦うこともあった。
 穏やかだと思っていた航海に影がさしたのは、マスト先に昇って辺りを監視している船員が、ルク島の島影が見えたと言った日のことだった。そうはいっても、目のいい彼以外に、甲板からその影を見ることができるものはいない。
 ばたばたと俄かに外が騒がしくなって、リーフィウは読んでいた本から顔を上げた。ザッハなどは酔って駄目だというが、リーフィウは揺れた船でもそれほど気にせずに本を読むことが出来る。
 近場の座布団で剣の手入れをしていたザッハが、はっとして立ち上がった。手にしていた剣を素早く腰に差すと、扉の近くに身構えた。
「ザッハ隊長、緊急召集です」
 ぴたり、とやんだ足音に続いて、声が響いた。ザッハはわかった、と一言言うと、リーフィウをちらりと見た。
「ご心配なさらずに……こちらに大人しくしていますから」
 リーフィウはそう言ってみたが、ザッハは真剣な顔をして、首を振った。
「申し訳ありませんが、リーフィウ様もご一緒願いたい」
 緊急召集のときは連れて来るように、というのがラシッドの命だったのだ。
 リーフィウは慌てて本を閉じると、頷いて立ち上がった。今の自分では、何があっても荷物としかならないという自覚はあった。
「お供します」
 すっと扉が開いて、見知らぬ青年が頭を下げていた。ザッハは顔見知りのようで、驚きもせずに頷いて、リーフィウに後を付いて来るように言った。
「何があったのです」
 ザッハが背に緊張を走らせながらリーフィウを挟んで後ろの青年に話し掛けた。
「南東方向から、怪しい船影が見えたと」
「……艦隊か」
「詳しい報告は何も」
「あなたはどう思うのです?どうせ見ていたのでしょう?」
 ザッハの言葉に、後ろで青年がふっと笑ったのがリーフィウにはわかった。
「私見では、海賊かと……ただ、この海域であるのが多少気になります」
 ルクの島影が見えたということは、カハラム海域だということだ。少なくとも、その辺りにいることには間違いない。
「馬鹿が……恥知らずが動いたか」
「ヤーミンの旗を掲げていたら、大いに笑わせていただけますね」
 全くだ、とザッハが言ったところで、皆が集まる船室についたようだった。ザッハがかなり力任せにどんどんっとその扉を叩いた。
「第一部隊隊長、ザッハです」
 入れ、と声がして、ザッハ、リーフィウが中に入った。ぱたりと扉が閉まって、後ろの青年がいつの間にか居なくなっていたことにリーフィウは気付いた。
 部屋の中には、キーファ王、ラシッド、それから、三人の男がいた。「ありゃ、びりだ」とザッハが舌をぺろりと出す。
「状況は?」
「さっきハリーファに。奴の意見では、海賊じゃないかと」
 ラシッドと王の間に坐るように言われて、リーフィウは言われた通りにそこに腰を下ろした。隣は窓のないその部屋は暗く、丸い卓上で灯りが燃えていた。
「ルクの島影が見える海域で?馬鹿か」
「あの船員の視力は人を超えているからな。後ろの船には見えていないのだろうよ」
「海賊船はヤーミンの旗を掲げてるぜ、きっと」
 いしし、とザッハが笑って、部屋の中の空気が揺れた。皆が皆、くすりと笑ったようだった。
「王は、どうなさるつもりですか?」
 黙っていたキーファに、ラシッドが問い掛けて、全員の視線がそこに集まった。キーファはゆったり笑って、逃げるか、と言った。
「ええ、大義名分が向こうからわざわざ来ているのに!」
 そう叫んだのはザッハで、彼が一番若いらしい。扉に近い末席に坐っていた。
「まあ、気持ちはわからんでもないが、ここで下手に足止めを喰らうのは、向こうの思い通りなんじゃないか」
 落ち着いた声でそう言ったのは、リーフィウとは反対に坐る男だった。暗い灯りの中でリーフィウには顔がはっきり見えないが、この部屋で一番年上の印象があった。
「イル・ハムーンの言う通りだな。無駄な体力をここで使うのは賢いやり方じゃない」
 話している間にも、外からひっきりなしに報告の声が飛び込んでくる。
「船影確認。三隻の小型船。かなりの速さで近づいています」
「火焔薬の筒確認」
 それに対して、指示を出していくのはキーファだった。
「風は?」
「南東です」
「北東に立て。それから、出来うる限りの速さでルクに向かえ」
 逃げろ、とはさすがにキーファは言わなかったが、その一言でその場にいた全員が王の意思を汲み取った。
「ヤーミンの旗です!」
「構わない。北へ向かえ」
 しばらくばたばたと足音がしていたが、報告の声は途切れたようだった。
「というわけで、逃げること決定ですね」
 にこやかな声で言ったのは、ザッハの隣の男だった。兵士にしては、線が細い。
「どこまで追いかけてくるやら」
「ルクまで来ると思うか?」
「師団の船に隠れれば不可能なことじゃない。旗はしまってしまえばいいわけだし」
「ただコケにするためかもしれないじゃないですか」
 色々な意見が出ている中で、リーフィウはただ卓上の火を見つめていた。そして、キーファは肩肘を円卓にのせて、同じようにその火を見ていた。
 ふいにその炎が揺れたと思ったら、大きなずんっと言う音がした。船が、縦に揺れる。
「火焔薬が投げ込まれました!」
「被害は」
 言いながら、キーファは部屋を出て船尾に走った。あとに、ラシッドが続く。リーフィウも何も言われなかったが、気になって後を追った。
「船員が一人、下敷きになって……」
「火は?」
「食い止めました」
「シャリス」
 先刻の線の細い男が、箱を抱えて走ってきた。リーフィウの脇をすり抜け、甲板に走り出る。船の上では、船員達がばたばたと走っている。
 シャリスが坐り込んだ先を見て、リーフィウはひっと息を飲んだ。
 左腕が、潰れていた。それはまるで、柔らかい果実が木から落ちてしまったように。
 シャリスの叫ぶ声も、キーファの響く声も、遠くなった。すっと、目の前が暗くなって、リーフィウは気を失った。
 真っ先にそれに気付いたのは、キーファだった。とんっとシャリスの肩を僅かに借りて、反対側に飛びうつる。そして、リーフィウが崩れ落ちる前にその身体を支えた。
「ザッハ!」
 呼ばれて、ザッハがリーフィウを受け取る。抱え上げながら、早口で状況の報告もした。
「風が吹いたので逃げ切れると船長は」
「なら逃げろ。こいつは俺の部屋に」
 ザッハは承知の返事をすると、リーフィウを抱えて船室に向かった。途中で船長への伝言も頼む。
 島影はどんどん濃くなり、反対に船影は薄くなっていった。帆船としてならば、こちらの方がマストが多く、風が吹けばルクへの道はそう遠くなかった。火焔薬を避けながら逃げても、国王軍の航海技術ならば、速度を落とすことなく進んでいけた。
「脅しでもコケでもないな」
 火焔薬を調べていたラシッドがいつの間にかキーファの隣に来て呟いた。キーファは船影を睨んだ。
「ああ。沈めるつもりだな」
「船影が二つばかり増えたようです。逃げ切れますか」
 イル・ハムーンがやって来て、ちらりと腕を潰された船員を見た。気を失っているのがせめてもの慰めだろうか。キーファも一緒にその船員を見た。
「船長殿を信じるよ」
 実際、距離は遠くなってきている。この距離なら、火焔薬は届く範囲ではない。
「あれは師団から湧き出たきのこみたいなものですね」
 その船影を見ながら、イル・ハムーンが嫌悪の色を目に浮かべて吐き出した。
「きのこか。おまえも面白い例えをする」
「侮るなかれ。知らないうちに生えますからね」
 しかも場所なんてわきまえない。
「カハラム海域ぎりぎりだったのはそういうわけだ。人様のところで船を一つ沈めるのは、いささかことが大きい。他から苦情も出かねない」
「海賊なのに、立派に海域権主張しますからね」
 自国の船が自国の海域で他国船を襲っても、目を瞑るのが慣習になっている。襲われた方は抗議も出来なくはないが、何しろ非協力的になるのでまともに裁くことなど出来ないのが普通だ。だからこそ、ルクを手に入れることも大きな意味があった。
「さて、これは上陸後も一悶着ありそうですね」
 イル・ハムーンはのんびりと言った。それほど楽観視できるものではないことは、その場にいる全員がわかっていることではあったけれども。
 兵たちはいまだ緊張感を保ったまま、見張りを続けていた。そして、船員は相変わらず忙しくしていた。
「様子はどうだ?」
 キーファがすっと屈んで、船員の顔を見る。すっかり血の気がなく、呼吸が浅かった。
「ルクが近かったのが幸いですね。着いたらすぐに安静にできる場所に移さないと……。出血が多いですが、命はなんとかなるかと」
 後で船長にも報告しておけ、とキーファは言って、立ち上がった。


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