home
モドル 3-05 01 02 * 04
遠景涙恋
第四章 祖国望郷
03
できない、とはどう言うことだろう。あの大国、カハラムの王である、彼が。
そもそも、この島は今、カハラム支配下である。
「できない、とは……?」
「言葉どおりだ。あなたが何も出来ないというのなら、私も同じだと言うことだ」
「でも、あなたはカハラム王だ」
リーフィウは思わず立ち上がった。だが、キーファは外を見たままだった。
「カハラムの王という肩書きは、ルク国の王という肩書きと違う。少なくとも、あなたのお父上のように、立派なものではない」
ひどい皮肉だ、とリーフィウは思った。今、その父の寝室を自由に使っているのは、一体誰だと思っているのか。
「あなたが、父を誉めるのですか」
リーフィウの苦々しい声に、キーファは答えなかった。その背を睨んでみても、リーフィウはふつふつと湧き出るような怒りを抑えられなかった。
「あなたは王と言う肩書きを持っている。それ以外ではないでしょう」
そんな無責任なことを言われては、望みもせずに支配下に入った自分たちはどうなるのだ。
「……確かに、私は王の責任を果たしていないのだろうな」
キーファの声は、ひどく自嘲の色があった。リーフィウは眉根を寄せ、まだその背を睨んでいた。
「でも、国王軍を引いて遠い島まで来ている」
「武将と王とは違う。王は武将でもあるかもしれないが、武将は王ではない」
「あなたはでも、国王軍の中で長として認められている。それに……あなたは軍を率いているときは、その責任を果たしているように見える」
「認められているとしたら、軍の中だけだ」
暗い声だった。ゆっくりと振り返ったキーファは月明かりに逆光の位置となり、表情は見えない。だが、リーフィウは知らず、口を開くのを躊躇った。
キーファは再びリーフィウに背を向けた。
「兵たちは、兵である限りその隊の隊長に命を預けなければならない。私はその命を無駄にしない義務がある。そして、もしそれが果てるようなことがあっても、間際に彼らに誇りを持たせる義務もある。彼らには、その権利がある」
その隊の一員として、死ねることへの。
リーファはきゅっと唇を噛んだ。ルクの兵たちを思ったのだ。
彼らは、最後まで誇りに思えただろうか。ルクの兵であったことに。
「私の話をすることはないな。それに、あなたに武将の心得を知って欲しいわけでもない。あなたには、あなただからできることがある」
ふいにキーファが半分ほど振り返って、真っ直ぐにリーフィウを見た。月明かりに半身が照らされている。それから、すうっとまた、眼下に視線を移した。リーフィウはそれに誘われるように、キーファの隣に立った。
街の明かりが見えていた。大通りは花街になったために、未だ明るく灯りが灯っている。だが、そこ以外は真っ暗だった。
「あの通りは出来れば壊したくなかったが、師団は文化価値など考えないからな。先の戦いで、ずいぶん崩れてしまった。惜しいことをした」
その通りは、数百年前のルクの建物を良く示していた。リーフィウの祖父の祖父に当たる人物が整備したもので、ルクの古代の建築を真似ながらも、当時の技術を駆使していて、文化的にも技術面の点でも、貴重な財産だった。
「リ語やルクの文化は、なくしていいものではない。それをきちんと理解して、闇の中でじっと耐えて、あなたを待っている人がいる。……その命を救うことが、あなたならできる」
リーフィウは月明かりに照らされたキーファの横顔を思わず見つめた。今日はきちんと手入れをしたのか、無精髭も生えていない。
「なぜあなたが、そんなことを言うのです。なぜ、あなたが」
王である、ここの今の支配者である、キーファ王が。
「私は何も出来ないと言った。……そもそも、ルクの民たちは力で脅して素直に動くとでも?」
ふっと笑ったキーファから、リーフィウは視線を逸らして眼下の街を見た。
確かに、彼らはそんなことでは動かない。もし従うにしても、一騒動起きるに違いなかった。静まり返った闇の中で、怒りや不満がゆっくりと増幅している様子が、見えるようだった。
「彼らを動かすことが出来るのは、今はあなたしかいない」
きっぱりとしたキーファの口調に、リーフィウは軽く唇を噛んだ。なぜ、そんなにきっぱり言い切れるのだ。
「お父上のしてきたことを、忘れたか」
キーファもまた、眼下の街をじっと見ていた。いつもの、静かな揺らがない瞳だった。
父の、とリーフィウは口の中で呟いた。
穏やかで強く、厳しい父。誰もが、尊敬してやまなかった。もちろん、リーフィウも。王として、父親として。
「あなたは何もしてこなかったと言った。だが、少なくとも、お父上のしてきたことを、見ていたはずだ。民衆もまた、それを忘れていない」
それならば、リーフィウが取れる方法は一つだった。そして、それを言ったリーフィウに、キーファは約束をした。
民たちが素直に従った場合、必ず彼らを守ること。
そして、リーフィウ自身も、必ず守ること。
だが、キーファはリーフィウに約束させなかった。
――逃げないことを。
久しぶりにルクの民族衣装を着て、リーフィウはゆっくりと歩き出した。周りには、ラシッドもザッハも、ファノークもいる。
宮殿の大きな正面扉を開けると、わあっと歓声が上がった。リーフィウは眩しさに、思わず目を細めた。
どうやったのか、キーファはルクの民衆を宮殿の庭に集めていた。実際は、彼らは王子が出てくると言う噂を――キーファの諜報員達によってばら撒かれた故意の噂を――聞いて集まっただけだったのだが、リーフィウはその辺りのことは知らない。
中庭に出て行くと、ゆっくりと群集が半円を描くように広がった。その中央辺りでリーフィウが歩みを止めると、歓声は静かに潮が引くように消えた。王家軍の三人は、リーフィウの後ろにすっと立った。
リーフィウは、ゆっくりと周りを見た。泣いている者もいれば、呆然とした顔でいるものもいた。その誰もが決して豊かとは言えない服装をしていて、リーフィウの胸が詰まった。
――あなたには、できることがある。あなたを待っている人が、いる。
キーファの言葉が蘇ってきて、リーフィウは俯きそうになった顔をすっとあげた。
それから、ゆっくりと、サムフ語ではなく、リ語で話し始めた。
「静かに、落ち着いて聞いて下さい。私は、みんなにお願いがあって来ました。今、リーア港近くに、ヤーミンの艦隊が迫っています。彼らが上陸してくるのか、わかりません。でも、そうなった場合、みんなはまた、その戦いに巻き込まれます。どうか、お願いです。街から出ないで下さい。そして――」
リーフィウはそこで一度言葉を切ると、すっと息を吸った。民衆は、息を詰めるように、リーフィウの言葉を聞いていた。
「もしものときは、この、カハラム国王軍に従って、逃げて欲しいのです」
しんと静まった中庭に、リーフィウの声が響いた。それから、その余韻が残っている間に、周囲はざわつき始めた。
――何を言っているんだ、リーフィウ様は。
――カハラム軍に従え?
――全てぶち壊した、ぶち壊し続けているこいつらに?
昨晩感じた不満と不安が、押し寄せてくるようだった。リーフィウはでも、すっと真っ直ぐ、顔をあげたまま立ち続けた。
リーフィウを良く知っている宮殿近く花屋のおかみは、その姿に胸を衝かれた。
小さかった王子が、あの明るくやんちゃで、優しかった王子が。
凛と、王と同じ顔をして立っている。
本当なら、その顔と雰囲気は、ゆっくりと形作られるはずだったのに。
おかみは涙ぐみそうになって、目を瞬かせた。
私は、とリーフィウがまた口を開いた。
「私は、この国を救えなかった。あなたたちの家族も、私の、家族も。私は何も出来なかった。今も、あなたたちにお願いすることしかできないのです。こんな、お願いしか」
「復興を!」
「反抗を!」
誰かが叫びだして、それは瞬く間に広がった。反抗と復興の二つの言葉が、中庭に轟いた。リーフィウは、すっと空を仰いだ。
青く、澄み切った空だった。
「私に、力があったら」
リーフィウは決して叫んでいないが、その声は良く中庭に響いた。
「あなたたちを苦しめなかった。今も、以前も。こんな風には、きっと苦しめなかった。……ごめんなさい。
ごめんなさい。
これは私のわがままです。もう、誰にも、ルクの誰にも、死んで欲しくない」
その、わがままなのです、とリーフィウは最後は搾り出すような声をだした。
中庭は再び静まり返り、人々はそのリーフィウを見つめ、お互いを見た。
群集は中庭に入りきらないほどである。噂だけで集まっている彼らは、仕事を放り出してきたものもいた。それでも、一目、王子を見ようと集まってきたのだ。
それなのに、自分が言うことが出来る言葉は、なんとも頼りないものだけだ。
リーフィウはそれでも、今の自分にできることはこれぐらいしかないのだと、わかっていた。復興を約束することは出来ない。そんな無責任なことは言えなかった。でも、そのためにも、ルクの民たちに生きていて欲しかった。
「信じよう」
ふと誰かの声がした。
「リーフィウ様が言っているんだ。それを信じよう」
「カハラム軍に守ってもらえと?冗談じゃねえ」
「でも、俺たちには軍隊なんかない。まともな武器もないんだ。戦えやしない」
「そうだ!ヤーミンの残酷なのは俺たちだって知ってるじゃないか」
その言葉に、やり切れないような、未だ引き摺る深い痛みに似た空気が流れた。
「カハラムだって、同じだ」
誰かが吐き捨てるように言った。それに呼応する声が、あちこちであがった。
ルクの民衆は、ある意味とても強い。ここが今はカハラム軍の宮殿となっていることはわかっているのだろうに、それを気にもせずに支配者を非難する。これは確かに、自分たちがどうにか動かそうとしても、一苦労だっただろうとラシッドは思った。
リーフィウはまだ、凛と立っている。
ラシッドの印象からすれば、リーフィウは強いが脆かった。妹のシャリーアは柔軟さもある強さだが、兄は違う。いつかぱきりと割れてしまいそうな、強さだった。
過酷なものだ。その純粋なまでの強さを、リーフィウは大人になるにつれ柔軟なものに変えるはずだったのだろう。色々な経験をして、少しずつ、純粋なままで柔らかさも手に入れたら、きっととても強い男になったはずだ。それが、今は極限にまで追い詰められている。
国を背負うはずの男達は、どうしてこれほどまでに痛々しいのだろう。
「私は、忘れない。あの戦いを、私は決して忘れない。でも、今は、私は自分の力だけでみんなを守ることはできない」
リーフィウがまだ十五の少年だと言うことを、民は忘れていた。ルクでは十五は成人になる年だが、一国を背負うには、まだ小さく頼りないと言うことを。
「みんなを守るのは、王家軍です。今のカハラム軍ではありません。私は一緒に船旅をしてきました。彼らは、決してみんなに危害を加えることはないと思っています。キーファ王も、それを約束してくれました。私も、みなさんに約束します。
その約束が守られないときは、私の身に変えてでも、みなさんを守ると」
緩やかな風が吹いて、リーフィウの髪を揺らした。長かった髪は切られ、今は肩の下辺りまでしかない。パン屋のおかみはそれを見て、とうとう目尻を拭った。
「あの子は、まだ十五だよ。敵に捕まって、どれだけ辛い思いをしてきたか。守らなければならないのは、私たちじゃないの」
呟きは、隣のおかみ仲間に頷きでもって同意を示され、やがて広がっていった。
守るべきなのは、自分たちじゃないのか。
この、王子を。
そうだ、とあちらこちらで声が聞こえ始め、やがて民衆がわっとリーフィウに近寄った。
何が起こったのか、ザッハにはすぐにわからなかった。だが、リーフィウの危険を感じて、駆け出そうとしたところを、ラシッドに腕を掴んで止められた。
「ラシッド様!リーフィウ殿が……」
「キーファ王の言葉を忘れたか」
言われて、ザッハは先刻、リーフィウの警護を言いつけられたときのことを思い出した。
――カハラムの師団兵から、リーフィウを守るように。
つまり、ルクの民からは守らなくてもいいと?
「そんな……でも……」
いまや、民衆に押しつぶされるように、リーフィウは三人の視界から消えていた。これでは、リーフィウを奪われても仕方がない。
それに、民衆の感情がわからなかった。小さな呟きから始まった波は、ザッハ達には届いていない。先刻までの状況からすれば、このまま怒りに任せて民衆が何をするかわからなかった。
「ルクの民が王子に危害を与えるとは思えないが……」
「でも、さっきまで危なかったと思いませんでしたか」
「確かにな。だが、もしそうなった場合でも……俺たちに手出しは出来なかった。それが、王の命だった」
ファノークの言葉に、ザッハがそんな、と絶句した。
「リーフィウ殿も、ある程度の覚悟は出来ていたと思うぞ。だからこそ、王もこんな命を出したんだ」
「殺される覚悟があったとでも?」
「ここに来るまで、リーフィウ殿はまるで裁きを受けに行くような顔をしていたじゃないか」
ただじっと前を見て歩いていたリーフィウは、確かに何か覚悟をしたような顔で、そのあまりの静かな表情にザッハは却って胸騒ぎがしたことを思い出した。
「国を背負うってのはそう言うもんなんだろ。だからこそ、キーファ王はわかっていた。俺はわかりたくもないが」
それは俺も同感、とラシッドはじっと群集たちを見ながら言った。少しずつ、外に移動していっている。人々の顔はどこか明るく、少なくとも、リーフィウに危害を加える様子はなかった。
「連れて行かれる……」
「それもまた、仕方がないことなんだろ」
「お別れも言えないのか……」
「おまえのそのどっかずれたところはまあ、愛嬌って感じだが。彼も一応は政治的な道具だったことを忘れんなよ」
「ファノーク殿はどうしてそう、意地悪なんですか」
ザッハの今にも泣きそうな情けない顔に、ラシッドとファノークはやれやれと顔を見合わせた。こう言うときに一番年下の隊長を慰める役目は、二人ではないのだ。シャリスが適任なのだが、今は医療部隊隊長として忙しくしている。
仕方がないので、二人はぽんぽんとザッハの頭を撫でた。ぐすりと鼻をすする音がして、両脇から肩を抱いてやることにした。それからゆっくり、三人は宮殿に入っていった。後ろの群集は、もう宮殿を出て、喧騒は遠くなっていた。
キーファは開け放していた窓を、ぱたりと閉めた。宮殿の高い窓から、遠く、リーフィウが連れ去られるのが見えた。同じルクの民の中に紛れても、その姿がわかる。
キーファは手に持っていたパナ酒を瓶ごと煽った。
何もかもを、溶かして流し込むように。
home モドル 3-05 01 02 * 04