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遠景涙恋
第六章 夜香


03
 四人が中に入ったとき、キーファは床に置いてあった大きな座布団に倒れこんでいた。その横で、リーフィウが驚いたように立ち尽くしていた。
 すぐに動いたのはシャリスで、倒れたキーファの横に膝をつくと、その上着を脱がした。黒い布では目立たなかったが、腰の辺りの布はたっぷりと血を吸っていた。
「あなたは、どうして早くに言わないのか……」
 ぶつぶつとシャリスがいいながら、ばっと上着の前を開ける。真っ赤に染まった生成りの下着に、リーフィウははっと息を飲んだ。あれほど鮮やかでたっぷりの赤は、外側から染み込んだものではない。
 ふらりと倒れそうになって、誰かに支えられた。ぎこちなく後ろを見ると、ラシッドがいた。
「化けもんだな。俺も気付かなかった」
「キーファ王は痛みに慣れすぎているんです。ハリーファ殿、お湯を」
 シャリスとイル・ハムーンで、キーファを抱き起こした。顔は蒼白で、全く血の気がない。手早く上着を完全に脱がせ、二人は王をベッドに運んだ。シャリスは横たわったキーファの下着を剣で切ると、少しばかり眉根を寄せた。
 リーフィウの目にも、ひどい刀傷が見えた。腰から胸元まで、切られている。
「あのときか……」
 ふとラシッドが呟いて、リーフィウは自分も蒼白の顔のまま、のろりと上を見上げた。
「また何かお節介を?」
 言ったのはイル・ハムーンだ。言うことを聞かない子供を見るような目で、キーファを見ていた。
「お節介と言うか……キーファ王は何か考える前に動いてしまうんですよ。味方が殺されそうになると」
「それで?俺は北側にいたから全然知らないんだ」
 キーファの背にそっと枕や布団を入れて、イル・ハムーンはキーファの前髪を掻き揚げた。
「一人、隣で兵がやられそうになって……あのタイミングで小刀を投げたら自分は相手の攻撃を避けきれないとわかっていながら」
「投げたんだな」
「ですからね、無意識に近いんですよ」
 ふうっとラシッドが息を吐く。リーフィウは目の前のキーファをじっと見つめた。
 こんな怪我をしているのに、自分の話を聞いてくれたのだ。それも、その怪我は自分の兵を守った怪我なのだと言う。
「この人は、自分の命は少しも大切にしない」
 怒ったように言ったのはシャリスで、ラシッドとイル・ハムーンはちらりと顔を見合わせた。
 何度言っても、わからないのだ。あってもなくても同じ命だと、キーファは言う。
 シャリスの手は迷いなく動いている。傷口はやはり深いのか、縫い合わせるようだった。
「あの、何かお手伝いできませんか」
 こんな風に倒れるまでにしてしまったのは、自分の所為だと自覚のあったリーフィウは、支えられていたラシッドから身体を離して、自分の足で立った。
 情けない。
 部下を囚われたのはキーファであり、その交渉も奪回作戦も、全て彼が担っているのだ。それなのに、自分はどこにも持っていけない激情を、ぶつけてしまった。
 シャリスがちらりと振り向いて、「では、布をお湯にぬらして固く絞ったもので、王の顔を拭いて頂けませんか」と言った。
 リーフィウは頷いて、ハリーファから布を受け取った。近くで見るキーファの顔は本当に血の気がなくて、リーフィウは心配そうに眉根を寄せた。
「大丈夫です。キーファ王はこれぐらいじゃ死にません。全く、少しはぎりぎりの所を彷徨って、死の恐怖ってものを味わって欲しい」
「相変わらずきついな、シャリスは。無駄だぞ?こいつのことだから、怖いなんて思いもしないだろ。却って、戻って来たことに文句を言いそうだ」
 ラシッドが呆れたように言う。
「本当に……一番性質が悪い。死を怖いと思わないのですから」
 そっと顔を拭きながら、なぜ、とリーフィウは思っていた。
 なぜ、キーファは死を恐れないのか。
 自分の強さを信じていると言うより、死ぬことが怖くないのだとラシッドたちは言っているのだ。
 目を閉じたキーファは、無表情だった。苦痛でもなく、安らかでもなく。
 無事に縫い合わせが済むと、シャリスは薬を塗って、布でその上半身を巻き上げた。大げさだとか怒りそうだよな、と言ったイル・ハムーンに、怒らせておけばいいんです、とシャリスは不機嫌に言った。
「そうしたら、ここに縛り付けられます。どうせすぐ動こうとするに決まってるんですから」
「まだ戦闘は終わってないからな。大人しく床にいるとは思えないな」
「仕方ないですけどね。でも極力じっとしていてもらわないと」
「今夜は?俺がついていようか」
 イル・ハムーンの言葉に、シャリスがそうしていただければ助かります、と頭を下げた。
「ザッハのこともあるからな。ラシッドはそっちに集中して欲しいし、第一部隊もザッハがいない所為で無茶したのが多いんだ。第二部隊には他の兵たちの治療をしてもらいたいからな。気にするな」
 その会話を聞いて、リーフィウが顔を上げた。シャリスが飲ませた薬が効いてきたのか、キーファの顔には少し赤味が戻ってきていた。
「あの……もし宜しかったら、私が」
 リーフィウの言葉にびっくりしたのは三人で、でも、と思わず声が揃った。
「私では心配かもしれませんが……でも、私がここにいればハリーファ殿も近くにいらっしゃるでしょう?イル・ハムーン様も戦でお疲れでしょうし……」
「いえ、心配と言うか……申し訳ないですから」
 イル・ハムーンの言葉には、なぜです?とリーフィウは首を傾げた。
 三人は顔を見合わせ、少しばかり思案した。だが、このことに関しては一番の主導権を握っているシャリスが、いい考えかもしれません、と言って、リーフィウを見た。
「申し訳ありませんが、見てもらえますか?」
「シャリス!」
「ラシッド。たぶん、これほど心強い看護人はいませんよ?リーフィウ様の言うことなら、キーファ王だって少しは聞いてくださるかもしれません。もちろん、リーフィウ様もどうかご無理をなさらずに。夜はハリーファに任せてもいいですから」
 リーフィウは小さく首を振った。それは見なかったことにして、シャリスは「お願いします」と頭を下げた。
「薬と予備の包帯は置いていきますから。今夜は熱が出てうなされるかも知れませんが、どうかよろしくお願いします」
 その言葉に、今度は、リーフィウはしっかりと頷いた。
 今日の戦闘が開始されたのは、昼過ぎのことだった。三人は今夜のこともあって、時間がなく、王がいない分の仕事をこなすために寝室を出て行った。リーフィウはふーっと長いため息を吐くと、手にしていた布を洗った。
 なぜ、自分がこの男の看病など申し出たのか、本当は自分でも良くわからない。キーファはルクを侵略した王であり、家族を奪い、自分を侮辱した。
 だが、その傷を隠してまで自分の行き場のない思いを聞き、約束までも与えた。キーファの言葉は不思議だ。彼が言えば、それは必ず実行されると確信に似た思いを抱ける。キーファが大丈夫だと言ったのなら、ザッハは必ず生きて帰ってくるだろう。
 リーフィウはその晩、ハリーファの再三の勧めも断って、一晩中キーファの傍にいた。何度も、冷たい水に布を浸して、その顔をぬぐってやる。ふっと触れるその冷たさに、どこかキーファが安らぐような、そんな気がして、リーフィウは疲れることも知らずにそれを繰り返していた。


 明け方、ばたばたと廊下を走る音がして、リーフィウはうつらうつらと漂っていた眠りの世界から目覚めた。床の横で、椅子に坐ったまま、布団にうつ伏せていたのだ。
 はっとして、リーフィウはキーファの顔を上から覗いた。すうっと、安らかな寝息が聞こえた。
 思ったより顔色がいい。熱も落ち着いたようで、そっと触れた額はそれほど熱くはなかった。
 リーフィウはほっとして、それから扉を振り返った。ザッハのことも、ずっと気になっていたのだ。
 扉を叩く音がして、リーフィウは立ち上がった。勝手に自分が出て行くわけにはいかなかったが、すっとどこからかハリーファが来て、扉に近寄っていった。その向こうから、シャリスです、と言う声が聞こえた。
「おはようございます。リーフィウ様……その様子では、一晩中看病をなさって下さったのですね」
 シャリスの穏やかな笑みに、リーフィウはザッハのことを聞こうとした口を閉ざした。叫んでしまいそうだったのだ。だが、リーフィウの心配を理解していたシャリスは、こくりと頷いて見せた。
「大丈夫です。ザッハは、無事戻ってきました」
 ああ、とため息とも叫びともつかない声を上げて、リーフィウは床に座り込んだ。良かった、と搾り出すような声がした。
「かなり痛め付けられていますが、命に別状はありません」
 良かった、ともう一度、リーフィウは呟いた。
 もう、嫌だった。自分のために誰かが死ぬのは。
 ルクが侵略されたとき、最後まで自分と共にいた人間達は、王子を守るために逃げなかった。それが、彼らは殺され、自分は生き残ったのだ。捕らえられ、何も出来ないまま――。
「リシュとイスファは」
 ふいに床の上から声がして、リーフィウははっと顔を上げた。すぐにシャリスがその傍らに行き、王の顔色を見た。
「二人とも無事です。地下水道のおかげで、追手に追われることもなかったと。ヤーミン陣営は驚くことでしょう。ところでキーファ王、お加減は?」
「いい医者がついているんだ。良いに決まってる」
 そう言ったキーファに、シャリスは「お褒めに預かりまして」と軽く返した。そう言っておいて、だからもう平気だ、と動き始めるのがこの王なのだ。
「でも今回は、私ではなくリーフィウ様のおかげですね」
 にっこりと笑ったシャリスを意地が悪いと思ったのは、そこにいた中ではハリーファだけだった。リーフィウは「いいえ」と首を振っていたし、キーファは驚いて僅かばかり目を見開いていた。
「ですからね。リーフィウ様に感謝して、言うことを聞いてくださいね」
「シャリス……」
「もちろん、残念ながら出ていただかなければならない場面もありますが。とりあえず痛み止めの薬を持ってきたので、お飲みください」
 それを「いらない」とキーファが言う前に、シャリスはリーフィウに薬を取ってもらえるかと頼んだ。
「まさか、苦いから嫌だとか、言いませんよね?」
 にやりと笑ったシャリスに、キーファは思い切り眉根を寄せて見せたが、薬を差し出すリーフィウがどこか心配そうな顔をしているのが見えて、口を閉ざしてしまった。
「それで?今後はどう言う予定だ?」
 思い切り顰めた顔をして薬を飲み干したキーファに、シャリスは笑ったまま白湯を渡した。
「あと一時間もすれば、ヤーミンがザッハのことに気付くでしょう。第一部隊は、かなりのやる気で戦闘準備をしていますが……」
「叩き潰す……しかないだろうな」
「ラシッド殿もイル・ハムーン殿も同じかと」
 シャリスの言葉に、キーファはため息を吐いた。
「第一部隊は仕方がないな。好きなようにやらせるしかない。それはイル・ハムーンに任せる。だが、無闇に殺すな。首を取るのはナーヴァだけで十分だ」
 はい、いつものように、とシャリスが頭を下げた。


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