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遠景涙恋
第七章 逍遥旅人


03
 その夜以来、リーフィウはキーファにリ語を教えるということで、度々その部屋を訪れることになった。読んでいる本の中で、わからないところをリーフィウが教えると言うことだったが、それはただの口実であることは明白だった。
 シャリスは、それが一番いいことです、とリーフィウに言った。薬などに頼らずに、眠れることが一番です、と。
 健康診断です、とやって来たシャリスは、開口一番「眠れてますか?」と言ったのだった。そして、リーフィウが何も答えないうちから、顔色は大分よくなったから、大丈夫みたいですね、と言った。
 キーファの元でならば眠れるということを、誰に言ったわけでもないリーフィウは大いに驚いたが、シャリスが一人で良かった良かったと言っているので、そのことについては何も言えなかった。それに、一つ気になっていることがあった。
「でも、あの……キーファ王には、邪魔じゃないのでしょうか」
 そう言うと、シャリスは「はい?」と怪訝な顔をした。
「王は元々眠りの浅い方でしょう?他人が居ては邪魔ではないのでしょうか」
「ああ……確かに、そのようですけれど。あれは仕方がないのです。リーフィウ殿の所為では決してありません。幼少時からの癖みたいなものです」
「癖ですか?」
「ええ。王も不遇な日々を過ごして来ましたから。夜も安心して眠れないような、ね」
 先日ラシッドから聞いたことと合わせて、リーフィウは「そうですか」と呟いた。つまりは、命が狙われたことがあったのだろう。
「でも、それならば余計、私がいたら眠れないですね」
 ふうっとため息のような息が洩れた。自分でもなにやら良くわからずに、キーファに迷惑をかけているのだ。
「それはないと思いますよ?大体、リーフィウ殿が隣で眠っていない方が、王は気が散るでしょうから」
 その言葉に、今度はリーフィウが怪訝な顔をした。意味がわからない。
「離れていると、不安でしょう?目の前にいて、見えていれば安心です。だから、いいんですよ」
 なんなら、二人が一緒に眠るように、という処方箋を書きましょうか、とシャリスは言って、にっこりと笑った。
「とにかく、時々なんて言ってないで毎日、ちゃんと二人で寝てください。王にも言っておきますから」
 そんなことまで言い出して、リーフィウは大いに慌てた。
「で、でも……」
「医者命令です!これには、王も逆らえません」
 シャリスがぴしり、と指を立てた。もちろん、王にも逆らえないことに、リーフィウが逆らえるはずがなかった。


 船がカハラムに着いたのは、三週間の航海の末だった。戦闘期間も入れれば、約三ヶ月ぶりのカハラムで、時はもうすぐ白の季節になろうとしていた。
 光の季節、白の季節と呼ぶのは、もともとコクスタッドの言葉で、万年暖かな気候のルクにいたリーフィウなどには実感がない。言われてみれば、どことなく涼しくなった、と思うくらいなのだ。
「ここも、それほど季節は感じないですね。やはり、コクスタッドのあの劇的な変化は特別です」
 花茶を飲みながら、ラシッドは遠く故郷を思い出していた。一息に寒くなって、降り始めると雪は止むことがなく、景色は瞬く間に真っ白になる。だからこその、白の季節、なのだ。
「雪が降るのですよね?」
 リーフィウは、ラシッドが持って来てくれたさくりとしたお菓子を口に含んだ。味と言うよりほろりと口の中で溶けるような感触が好きで、ルクにいた頃には良く食べていたものだった。それをシャリーアが覚えていて、これは兄さまに、とラシッドに持たせたのだ。一体あの忙しいさなか、ラシッドはどうやってシャリーアへのお土産を集めたのか、リーフィウには不思議でならない。
 うっとりとしたようなリーフィウに、ラシッドは苦笑した。
「そんなにいいものではありませんよ?少し降って、少しばかり積もるようなら、綺麗だな、で終わります。でも、家の一階が埋まってしまいますからね。城壁の外にも出られないし、本当に閉じ込められてしまうんです。白の季節になって一ヶ月もすると、みんな光の季節を今か今かと待ち侘びるんですよ」
 雪を見たことのないリーフィウにとっては、想像もつかないものだ。自分なら、飽きないのではないだろうかとさえ思う。
「シャリーア様も同じようなことを仰ってましたね。毎日雪を眺めるだけで楽しそうだと。それに、雪に閉じ込められるならロマンチックじゃないかと……」
 くすくすと笑うラシッドに、リーフィウは目を細めた。シャリーアの話をするときのラシッドの目の優しさといったら、こちらが恥ずかしくなるほどで、幼い妹のためにも、良かったとリーフィウは思う。ラシッドならば、安心して任せられる。問題は、自分たちが捕虜である、ということだけだった。
 そういえば、とリーフィウは持ち上げた茶器を空中で止めて、ラシッドに聞かなければならないことがあったと思い出した。
「あの、ラシッド様。私、お願いがあるのですが」
 カハラムに帰ってきて一週間、戦闘の後始末などはそろそろ落ち着いた頃だと思うのだが、リーフィウは以前と同じような生活をしていた。だが、それでは戻って来た意味がない。
 なんでしょうか?とラシッドが軽く首を傾げた。その様子に、キーファ王に何も聞いていないのだろうか、とリーフィウは不安になった。
 確かに、捕虜としてしか受け入れられないと言われたが。
  「あの、私も国王軍の方々と一緒に、訓練を受けられないものでしょうか?」
 ラシッドと話し合え、と言ったのはキーファだ。だから思い切って言ってみたものの、捕虜が軍の訓練を受けるなど、どう考えてもおかしいことはわかる。
 やはりラシッドは驚いて、目をぱちりとさせた。
「何と……?」
「私は剣などほとんど使えないので、お邪魔かと思いますが……どうか、ご指導いただけないでしょうか」
「なぜそんな?」
「……このままでは、私は何も守れないからです」
 散々に考えたことだった。父たちのあくまでも外交で解決していく方法が間違っていたとは思わない。だが、結局はそれで国は滅びてしまった。力があってなお、外交で解決する努力をするのと、力がないからと、外交でなんとか解決しようとするのは違う。
 特に、相手が力でねじ伏せようとするのなら。
 ラシッドはしばらく黙って、考え込んでいた。リーフィウは手の中に茶碗を持ったまま、やはり身動きせずに待っていた。
「そのために、カハラムに戻って来たのですね」
 深く長いため息を吐いて、ラシッドはリーフィウを見た。どこか哀しそうな目で、リーフィウは思わず視線を逸らした。
 国王軍司令部の中では、リーフィウが再びカハラムに戻ることに対して、その理由がわからぬままだった。キーファは例のごとく何もいわず、リーフィウも迷いなく船に乗り込んだ。最終的には、シャリーアが心配なのだろう、ということで落ち着いたのだが、それに加えてこんな理由があったとは、さすがに誰も考えなかった。
「そして、キーファ王は知っていたのですね、そのことを」
 リーフィウはこくりと頷いた。やはり、キーファはラシッドに何も話していなかったのだ。
「キーファ王は、捕虜と言う立場でいいのならば、戻れば良いと仰いました。入隊のことも話したのですが、それはラシッド様と話し合え、と言われて」
 深々と、ラシッドが吐息を吐く。
 そんなことは、何も聞いていなかった。だが、言わなかったキーファの気持ちもまた、わかる気がした。
 目の前のリーフィウは思い詰めたように真剣で、ただの思い付きなどではなく、止めさせるにも説得が困難だとわかった。
「わかりました。王と話をしてみます」
 だからラシッドは、そう言うしかなかった。

 美しい透明な音色が聞こえて、雨が降り始めたとラシッドは外を見た。湖宮のあの水甕は、雨の度に美しい音を奏でて、ああ帰ってきたのだ、とラシッドはらしくもない感慨を抱いた。そもそもここは、自分の帰る場所ではない。
 湖宮を建てたのは、キーファの父だと聞いていた。そして、ここを殊のほか気に入っているキーファは、一年の半分はこの地で過ごす。もう半分は、首都カラムでの王宮生活だ。ルクに関する戦闘がようやく終結して、そろそろ王宮に戻るときだった。白の季節を待つコクスタッドの使者も、やって来る頃だ。
 湖宮のことは、ラシッドも気に入っていた。しっとりと濡れたように静かに建つ宮殿は、静かで静謐な空気に包まれている。ここにいると、とても気持ちが落ち着くのがわかった。
 キーファにとっては、タシュラルが支配する、首都の王宮と離れていることも大きいのだろう。彼がここに惹かれる理由は、聞かなくともわかるというものだった。
 連日の饗宴がたたって、キーファはゆったりと昼寝をしているところだった。脇には、何人もの女がいる。こういうときは本当に眠っていることはなく、ただ暇なだけなのだ。
「それほど暇なら、身なりを整えてもらったらどうだ」
 相変わらずのばさりと伸ばされた髪に、無精髭を生やしているキーファに呆れてそう言うと、言われた方はにやりと笑って目を開けた。
「これはこれでいいという物好きな女もいる」
 なあ、とまわりに同意を求めたキーファに、女たちはくすくすと笑った。キーファは面倒そうに起き上がり、その女達に下がるように身振りで示した。
「昼寝の最中に悪かったな」
 眠っていないとわかっていながら言うラシッドに、キーファは片眉を上げた。
「機嫌が悪そうだな。どうした」
「どうしたも何もない。リーフィウ殿のことだ」
 キーファがにやりと上がっていた口を引き締めて、ラシッドを見た。
「なぜカハラムに一緒に戻ったのかと思えば、軍の訓練を受けたいからだと言う」
 ああ、とキーファは興味がなさそうに呟いた。だが、実際は興味がないわけでもなく、忘れていたわけでもなかった。ただ、賛成していないのだった。
「おまえは知っていたと言うじゃないか。それなのに連れてきたんだ。俺に押し付けるな」
 乱暴な物言いはラシッドらしくない。キーファはふいと横を見て、仕方がないだろう、と言った。
「あのままルクに置いていったら、早かれ遅かれ、命を無くしそうだったんだ」
 それほどリーフィウは追い詰めた顔をしていたし、ルクの民たちも追い詰められていた。リーフィウという格好の「象徴」とも言うべき人物がいたら、ルク民は犠牲を省みずに蜂起をしただろう。まだ、機は熟していなくとも。
「それはわからなくもない。俺も彼がこちらにいることには賛成だ。だが、なぜ軍のことを許した?それも、なぜ俺に託した。おまえが忙しいなんて言い訳は聞きたくないぞ」
 剣術については、キーファの右に出るものはいない。皮肉なことに、キーファには時間もたっぷり合った。
 だが、それよりも。
 キーファは教えたくないのだ。あのリーフィウに、人を殺す術を。
 それなのに自分に託すとは、全く無責任じゃないかとラシッドは思った。
「俺に、人にものを教える器量があると思うか?」
「真面目に答えろ。器量の有無というのなら、ある」
 キーファはラシッドの言葉を、買被りもいいところだ、と鼻で笑った。
「教えたくないのなら、その理由を自分で説明しろ。そして、説得しろ。その役を俺に回すな。大切なら、自分で守れ」
 キーファの顔が、ゆっくりと歪んだ。笑っているようだった。
「俺に何が出来る?守れずに、傷つけるしかない俺に、どうしろと言う?」
「キーファ。おまえは王だ」
 高らかな笑い声が部屋の中に響いた。キーファがさも可笑しそうに、笑っていた。
「本気で言っているのか、ラシッド」
「最初に言っただろう。おまえが王だと名乗ったとき、そうなら良いと思った、と。いまでもそれは変わらない。おまえが王で、良かったと思っている。おまえには、その器量がある」
 いい加減、目を醒ましてタシュラルなど蹴散らせ、とラシッドは唸った。
 だが、キーファの目は昏かった。
「おまえは、よく知っているじゃないか。俺は臆病だ。だから死ぬことも出来ずにいる。鬼神などと言われているが、俺は強いわけじゃない。怖いだけだ。だから、相手を倒すことに必死になる。それなのに、一人で戦いにいけるわけがない」
 キーファ、とラシッドの掠れた声がした。
「一人だと、思っているのか」
 キーファは笑ったままの顔だった。目だけが、底のない暗闇のようだった。
 そのにやりと上がったままの唇が、ゆっくりと、動いた。
「違うのか」


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