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遠景涙恋
第九章 深淵


03
 頑なまでに向けられた背を、キーファは見つめた。寝ているのか、その振りをしているのか――見分けるには今立っている位置は少し遠い。
 イーザがいつものように挨拶して、それから少し困ったような視線を向けてきた。それに酒を持ってくるように言いつけ、どさりと座布団に坐る。酒を出してもらえればイーザにすることはなく、キーファはまだ困ったような心配したような顔のイーザに、部屋に戻るように手で示した。
 リーフィウと全く――それまでもほとんど会話らしい会話はしなかったが――言葉を交わさなくなってから、何より、リーフィウがこうしてキーファと決して視線を合わせなくなってから、もう五日経つ。それは、あのザッハと一緒に剣の稽古をつけて欲しいと言った日からのことだった。
 傷つけた自覚は、しっかりある。だから、キーファは何も出来ないし、何もしない。ただここに来て寝るのは、シャリスに怒られるから、そしてタシュラルたちが心配だからだった。最近になって師団も首都に帰ってきており、タシュラルよりもその息子が気が抜けない。
 こうして自分が来ることで、リーフィウを傷つけ続けることを考えると、誰かにこの役を代わらせようかと考えたこともある。だが、シャリスに何を言われるかわからないし、自分がきっと、心配でたまらなくなる。
 リーフィウは諦めているのか、背を向けながらも、寝台の半分は空けてくれている。キーファはいつも、そこにするりともぐりこみ、やはりリーフィウに背を向けて寝る。ときどき寝入っているときもあるが、ときどきは――ぴくりと肩が動く。
 本当は、どうしたらいいのかわからなかった。このままでいられるわけがないのは、キーファもわかっていた。リーフィウをずっと、籠の中の鳥のようにここに閉じ込めておくことは、どれだけ残酷なことなのか。
 自分のことを、自分で守れるように。
 そして、祖国を守れるように。
 そうやって思ったことは、自然なことだとキーファも思う。
 でも――。
 もう少しだけ、この綺麗な鳥を、自分のもとに置いておきたいと思うのは我侭だろうか。
 何よりも、籠の中が似合わないから。
 一度羽ばたいたら、もう戻りはしないだろうから。
 もう、少しだけ。


 あれが全て、カハラムの計画のもとに行われたのだと言われて、リーフィウは哀しくて堪らなかった。哀しくて。
 怒りよりも何よりも、そう思ったのが、不思議だった。
 裏切られた、と思った。
 そう思うような約束も何も、なかったのに。
「もう少し、お食べになりませんか」
 イーザの声に、リーフィウは物思いから顔を上げた。そう言えば、朝食の席だったのだと思い出す。どうも時間の感覚がなくなっているのだ。
 視線を落とした先には、少しも減っていないパンと果物があった。せめて果物だけでも、とイーザは言うが、リーフィウはお茶を飲んだら食欲はなくなってしまった。
 ずっと、このままずっと、何も出来ないままここに居つづける。
 大した運動をするわけでもない。この部屋にいるだけだ。朝食が必要とは思えなかった。
 ずっと。ここで。
 結局、何も出来ず。
 突然扉が叩かれて、ラシッドが来たことを知らせる声がした。リーフィウが頷いたのを見て、イーザは扉を開けた。
 ラシッドが「起きたばかりなのです」と言って、イーザはそれならばと朝食を用意した。ついでに、リーフィウにも食べて欲しいのだろう。リーフィウはその心配そうな顔を少しでも喜ばせようと、林檎に手を伸ばした。新しく淹れられた、花茶が香る。
「また、痩せましたね……」
 ラシッドのため息混じりの声に、リーフィウはそうですか?と微笑んだ。
「シャリスがうるさいわけだ。今回ばかりは、私も庇ってあげません」
 ゆったりと優雅に茶を飲みながら、ラシッドが睨む。ついでに言えば、そのことについて小言を言われているのは、キーファも同じだった。
 リーフィウの目もまた、死んだようだった。最近になってようやく強い光が宿ったようだったのに、今は何も映していない。
 何も。希望も、絶望も。過去も未来も。
 ただ静かに、何も映さない。
「キーファ王は、朝食を一緒に食べていかないんですね」
 ラシッドの声に、リーフィウは「ええ」と短く答えた。イーザが、小さくため息をついた。それと一緒に、小さな声を洩らす。
「意地っ張りと言うか……」
「そうだね。その上、不器用だ」
 あれほど不器用とは思わなかった、と言ったのはザッハだ。ザッハからイル・ハムーンに、それからラシッドに話が来て、この頃のキーファの不機嫌さとリーフィウの痩せ具合の原因を、知ったのだった。
 全くだ、と思う。
 何をやっているのか、と。
 キーファに言っても、返ってきたのは「本当のことを話しただけだ」という言葉だった。
 ザッハのことがあって、ようやくリーフィウが立ち直ったと思ったのに、早速これだ。人の努力を、と思って、ラシッドは自嘲した。
 自分は何もしていない。ザッハとキーファの剣の稽古を見せただけだ。
「リーフィウ殿。今回のルク陥落に関することは、何も言いません。これ以上のことを言っても、言い訳にしかならない」
 ふいにラシッドがそう言って、リーフィウはその目を見た。やはり何も、映していないけれど。
「内情は色々ですが、我々が、何よりキーファ王が今回のことを止められなかったのは事実です」
「でも、それを何故、今ごろ言うのです?」
 リーフィウの呟きに、ラシッドは少し驚いた。
 怒っているのだと、思っていた。許せないだろうと。でも、このリーフィウは。
「なぜ、今になって――」
 恨みたくなかった。リーフィウは、最初から、そう思っていたのだ。自分自身の無知も無関心も、憎かった。だがカハラムのことは、憎むべきではないと思った。それを、なぜそのままにしてくれなかったのだろう。
 一口だけ噛まれた林檎を、ぎゅっと握る。
「誰か、憎む相手がいたら良かった」
 ことりと音をさせて、ラシッドは茶器を置いた。ぎゅっと唇を噛み締めたリーフィウを見ていたら、思い出したのだ。
「キーファ王が言ったことのある言葉です。そうしたら、もう少し楽だったのに、と。あの人も、自分を責めつづけてきた人だ。自分の力のなさを。――その、幼ささえ」
 リーフィウが顔を上げた。それに、ラシッドは小さく笑いかける。
「あなたのことも、そう言っていたことがある」
「え?」
「あなたは、自分を責めてばかりいる。誰か憎む相手がいたらいいのにと」
 その相手というのを、わざわざ自分にするところが、キーファは馬鹿がつくほど不器用なのだ、とラシッドは思う。
「強くなりたいと言うのも、そう言うことがあるからでしょう?まあ、リーフィウ殿も自分を責め過ぎている気がしなくもないですが。もしかしたら、王は自分を重ねているのかもしれません」
 窓の外を鳥が飛んでいって、ラシッドはふいっとそちらに目を向けた。ここのところ雨続きだったが、久しぶりに晴れた朝だった。
「王も、自分の力のなさを嘆いた。だから、剣術に力をいれた。あれだけは、一人でもなんとかなりますからね。まあ、影の諜報員が危険を承知で王の傍に隠れていたようですから、こっそり教わったのだと思いますが。だが、結局王は、その剣で、人を殺すしかなかった」
 守るはずが、戦って、人を斬って。国王軍を与えられたときは、そんな戦いばかりだったのだと言う。最初の戦いはやはりヤーミンとで、海上戦だった。船同士の戦いは、白兵戦となることが多い。特に先頭に立って行くとなると、熾烈な戦いは免れなかった。斬らなければ、殺される。そう言う戦いを、キーファは十四のときからしていると言った。
 タシュラルは、あわよくば死んでくれるかもしれない、と思っていたのじゃないかとキーファは笑うが、ラシッドは笑えない冗談だと思った。キーファが鬼神と呼ばれる今、タシュラルは本気でそのことを後悔しているに違いない。そこまでの腕を持つとは、思っていなかっただろう。
「十四の、ときから……?」
「ええ。そう聞きました。その頃には、もう立派な腕を持っていたようですから」
 ただ、何かを守りたくて、強くなった少年が。
 ただがむしゃらに、人を斬るしかなかった。祖国を守るためだとしても。
「あのときも、キーファ王は、王だったのです」
 ふいに、イーザが言った。少し憤ったような、でも泣きそうな声だった。
「あのときだって、キーファ様は王でした。それなのに……」
 軍人と王とは違う、と言ったキーファを、リーフィウは思い出した。そう、キーファには、軍人としてではなく、王として出来ることがあったはずなのだ。傀儡で、なかったら。
 あの日の、血の海を思い出した。自分はあそこで、怯えていただけだ。悲鳴と血に、震えていた。その血の海の中に、ふいにキーファが立っている姿が見えた。まだ幼いキーファが、剣を持って。まるで、泣きそうな顔をして。
 でも向かってくる敵を、斬りつけて。
 そうしなければ、死んでしまうから。そうすることでしか、守れなかったから。
「こんなものは、何の役にも立たない。キーファ王は、剣を見てよくそう言います」
 ラシッドは、遠くを見たままだった。リーフィウもまた、ただ一点を見つめていた。卓上に飾られた、リアの花。――雪紅花。
「こんな世の中ですから、役に立たないとは私は言いません。実際、王があれだけの腕を持っているから、私たちは少し安心していることもある。そうでなかったら、私たちだって、王のように心配で毎晩彼の傍に控えていたでしょうね」
 王のように……?
 リーフィウは首を傾げてラシッドを見た。
「リーフィウ殿が、王ほどの剣の腕と、気配に対する敏感さを持っていたら、王も自分が傍にいない間の心配が少し減るだろう、ということです。でも、それでいいのかもしれませんね。もう少し、王に守らせてあげてください」
 にっこりと笑われて、でも、リーフィウはその言葉をなかなか理解できなかった。首を傾げたままラシッドに目で問い掛けてみるが、ラシッドは笑っているだけだった。
「疑問は、王に聞いて下さい。なんでも、聞いてみたらいい。そう、言いましたよね?」
 そんな意地悪な、とリーフィウは思った。どう接したらいいのか、わからないのに。
 でも、イーザを見てみても、彼女も微笑んでいるだけだった。
「シャリスの処方箋は、あなたと、それからキーファ王と、両方に対して出ていると言うことです」
 ますます、わからない。そう思ったが、ラシッドはごちそうさまでした、と言って立ち上がってしまった。
 だが、扉まで行ったところで、ふとラシッドは振り返った。
「そうそう、聞き忘れていました」
 そう、真剣な顔をした。
「リーフィウ殿。キーファ王を、憎んでいますか?」
 誤魔化しは許さないと、ラシッドは真っ直ぐな視線を投げてきた。リーフィウは、その投げかけられた言葉を、もう一度頭の中で繰り返した。
 ――キーファ王を、憎んでいますか?
 その頭の中の問いに、リーフィウは首を横に振った。考える、間もなく。
「憎めたら、良かったのかもしれません」
 それから、そう、呟いた。


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