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遠景涙恋
第十章 花眠歌


03
 その日は、急に気温が下がって随分と寒くなった。イーザは朝起きるとまず窓を開けるのだが、爽やかさよりも冷たさが勝つような空気になっていた。
「本格的に、白の季節になってきましたね」
 いつもより早めに窓を閉め、リーフィウにも少し厚手の服を用意した。本当に寒くなったときには、この長衣を何枚か重ねることになる。履いている布靴も、防寒用に変えなくてはならない。
「まだ寒くなるの?」
「ええ。もう少し寒くなりますね。特にこちらは内陸ですから、湖宮のあったキャスカより冷えます」
 雪は降る?と聞いたリーフィウに、イーザは「ええ」とにっこり笑った。好奇心を押し出したリーフィウの目が、可愛らしかった。
「ものすごく積もるということはありませんが、何度か降ることがありますよ」
 雪を見たことがないというリーフィウは、もうすっかりそれを楽しみにしているようだった。
 そうして、先のことを楽しみにすることが出来るようになったのだと、イーザはどこかほっとした。最初の頃のような何もかも諦めたような、何も見ない目は遠い。
 キーファが来なくなってから、リーフィウはあまり眠れていない。それをイーザもわかっていたが、どうにも出来ずにいた。シャリスも薬湯を処方しようかと迷っているらしい。何しろ王が、少しも言うことを聞かないのだと言う。
 行かないことがリーフィウを傷つける、リーフィウもあなたがいないから眠れていないのだと言っても、信じてくれないのだとため息を吐いていた。もちろん王も、ぐっすり眠れているわけでもなければ、機嫌も悪い。そういうところが子供なのだが、誰もどうにも出来ずにいる。
 昼過ぎになっても、気温はあまり上がらなかった。日は出ていて、日向は暖かいのだが、このままでは夜は冷えるだろう。これは暖を取るための炭や床に敷く敷物を用意しなければ、とイーザはぱたぱたと忙しくしていた。布団も厚目のものに変えるか、一枚増やすかしなければならない。
 リーフィウはそんな中、花の世話をしていた。忙しそうなイーザに変わって、やりたいと自分から申し出たのだ。
 水甕の水を取り替え、そこに花を浮かべる。白の季節になって花の種類は減ったが、それでも途切れずに届けられる花を不思議に思ったが、どうやら栽培している温室があるのだと言うことだった。
 そんなところから、花が届く。
 それは王の命だからだろうか。
 手を傷つけないように気をつけて下さいね、とイーザに何度も念を押されながら、リーフィウは花をぷつりと枝から取る。それを黒い甕の水面に浮かせると、リーフィウはそれをしばらく眺めた。くるり、とレアの花が廻る。届けられる花の中で、一番登場する確立が高いのが、レアの花だった。
 どうせ時間があるからと、リーフィウはのんびりとその作業をしていた。いつもならば午前中に終わっているはずなのに、今日はしばらくイーザが忙しくて花は放って置かれていて、午後になってようやくリーフィウが許可を貰って取り掛かったので、花も少しばかり元気がない。
 リーフィウがようやくそれを終わらせた頃には、もう日は傾き始めていた。リーフィウの部屋から見えるのは川と街だったが、夕陽に照らされ光る川面を眺めるのは好きだった。家々の黒い屋根も、橙色にきらきらと輝く。
 それをぼんやりと眺めているうちに、いつの間にかすっかり日が暮れて辺りは闇に包まれていた。だが、その頃には川面には小さな灯りがきらめき、家々にもぽつぽつと灯りが灯り始め、それを見るのもまた、リーフィウの楽しみだった。
 街はとても遠く、自分はこの中でじっとしているしかないのだけれど。
 いつか、あの街を歩いてみたい、とリーフィウは思った。カハラムのことを、もっと知りたいと。
 そう思っていたところ、夕食時になってラシッドが訪れて、色々と聞くことが出来た。どうやら眠れずに食が細くなっているリーフィウを心配してくれているらしく、こうして毎日、部隊長の誰かが食事に来てくれる。イル・ハムーンやファノークはあまり話した事はないのだが、イーザもいるからそれほど話題に困ったことはなかった。でも、これからは、カハラムの様子をそれぞれに聞いてみよう、とリーフィウは考えた。
 ラシッドには、あの川面の光を聞いてみた。
「ああ、あれは魚捕りの小舟です。夜に活動する魚もいて、夜間漁をしているんですよ」
 灯りでおびき寄せ、魚を捕るのだ。
「後は、渡り舟ですね」
「渡り舟?」
「ええ、あれだけ川がくねくねと色々なところに流れていると、陸上より川を行ったほうが速いときがあるんです」
 ルクには大きな川はあったが、リーフィウはあんなに小さな舟に乗ったことはない。船と行ったら艦船ばかりだ。
 乗ってみたい、とリーフィウは思った。もちろん、それは叶わないとわかっているから口には出さない。でもできるなら、あの夕暮れ時に。
「そうか。ここからだと、少し遠くてあまりわからないんですね。今度、望遠鏡を持ってきましょう」
 ラシッドにしてみても、連れ出してやれないことは心苦しかった。この兄妹は、きっと目を輝かせて街を歩くだろう。そして、あれこれと好奇心に任せて聞いてくるだろうし、シャリーアなどはあれこれとつまみ食いをするに違いない。そう思うとラシッドは連れて行きたくて堪らなくなるが、国王軍副官だとしても、それはできない。それに、タシュラルにそんな誘拐の絶好の機会を与えるわけにもいかなかった。
 この二人の立場が変わったら。
 絶対に街に連れ出して遊んでやる、とラシッドは誓った。
 そんな話をしていると、外の廊下が騒がしくなった。三人で顔を合わせて、ラシッドが扉に近づいてそれを開くと、遠くから何かが割れる音がした。それも、何度か連続して響いてくる。
 ラシッドが兵の一人を様子見に行かせようと思ったところで、廊下を走ってくる侍女が見えた。そのときにはリーフィウもイーザも扉に近づいて、なんとなく外の様子を見ていた。
「あ、ラシッド様っ。こちらでしたか」
「どうした?」
 兵ではなく、侍女が走ってくることは珍しい。その顔には見覚えがあった。キーファの侍女だ。そう思い出して緊張した面持ちで尋ねると、侍女も慌てているようで、荒い息を吐きながら「すぐにいらして下さい」と今にもラシッドを引っ張りそうな勢いで言った。
「キーファ王が……」
 荒い息の下では話がままならない。ラシッドはそう聞いただけで、駆け出していた。そして、同じようにそれを聞いたリーフィウもまた、一緒に走り出していた。だが、日頃鍛えているラシッドに着いて行ける筈がなく、すぐにその背が小さくなる。それでもラシッドを呼びに来た侍女が一緒にいたために、リーフィウは部屋を探す必要がなかった。
 その上、部屋がある廊下に辿り着いたところで、悲鳴や何かが割れる音がして、その部屋はすぐにわかった。扉が開いて、侍女たちが逃げている。
 リーフィウはその侍女たちの間を縫って中に入った。
 入った途端、ひゅっと何かが飛んできて、後ろで割れた。幸い廊下は広く、壁が遠かったためにリーフィウは怪我をしなかったが。
「これは一体……」
 部屋の中は、ぐちゃぐちゃだった。夕食の最中だったのか、準備をしていたのか。食器類もみんな割れて散らばっていたし、食べ物も潰れている。花が浮かんでいたはずの甕も割れて水が辺り一面に散って、水たまりになっていた。
「キーファ王が、突然暴れだして……」
 近くにいた侍女が、そう震えている。部屋の中を改めて見ると、キーファが中央で卓上の食べ物を投げているところだった。先刻飛んできたのも、そのなかの一つだったのだろう。おろおろと侍女たちはなんとかキーファを落ち着かせようとしているが効果がなく、今はラシッドが必死で押さえようとしている。それでも、キーファは大人しくならなかった。
 リーフィウは、ふとその頬が切れて、血が滲んでいるのに気付いて、キーファの元に歩いていった。気をつけなければ、破片を踏んでしまう。
「リーフィウ殿?!危ないですから……」
 ラシッドがそう言ったときには、リーフィウはキーファのすぐ近くまで来ていて、すっと手を伸ばしていた。
「血が……」
 そう言って、キーファの頬をそっと触る。途端に、キーファの動きが止まった。
「ああ、こちらも……」
 そう言って、今度は手を持ち上げる。所構わずに投げていたから、跳ね返った破片などが当たったり、それを掴んだりしたのだろう。掌には、小さな破片が刺さっていた。
 痛くないのだろうか、とリーフィウは顔を顰めた。
「手当てをしなければ。でも、その前に片付けなければ、坐ることもできませんね」
 ふうっと言ったリーフィウの言葉に、侍女たちがはっとして片づけを始めた。ラシッドは、深いため息を吐いて、へなへなとその場に坐り込んだ。もちろん、破片があるために床に坐ることは出来なかったが。
 リーフィウは近くの座布団を持ち上げて少し叩くと、それをひっくり返して、キーファを坐らせた。それから、もう一つ、同じように座布団をその前に置いた。
 ぱたぱたと走り回る侍女に薬がないか尋ねると、戸棚から持ってきてくれた。王の生傷は絶えなくて、常備してあるのだ。
 キーファはすっかり大人しくなって、リーフィウにされるがままになっている。消毒している手つきはおぼつかなくて、キーファが思わず顔を顰めると、リーフィウは「駄目ですよ」と言った。
「ご自分でつけた傷なんですから、少し我慢してください」
 それでもリーフィウは、そっとその細い指でキーファの傷口に薬を塗る。まったく何なんだか、とラシッドはそれを見て再びため息を吐いた。
 どうやらここは、リーフィウに任せたほうが良いらしい。
 侍女たちによって瞬く間に部屋は片付けられ、食事はどうしようかとラシッドに相談している侍女の困った声に、リーフィウが顔を上げた。
「食事はまだ……?」
「はい。準備をしているところでしたので……」
 ちらちらと、キーファとラシッド、リーフィウの様子を伺う侍女は気の毒なほどだった。きっと、本当に突然、暴れだしたのだろうと、ラシッドは頭を小さく振った。
 ときどき、キーファはこう言うことが起きる。極度のストレスの結果だとシャリスは言うが、それは子供の頃のキーファと同じ暴れ方で、見ているほうが辛くなるのだ。
 何も言わず、ただ無言で、何もかもを壊そうとする。
「何か簡単なものをお願いできますか?何も食べないのは良くないでしょうから」
 リーフィウがそう言うと、侍女もほっとしたように頭を下げて準備のために下がっていった。ラシッドも疲れたとばかりに部屋を出て行く。
 それから、侍女たちが再び、先刻とは違う食事を用意した。キーファはその間もただ坐ってじっと床を見ているだけで、一言も言葉を発しなかった。
 リーフィウは少しばかり掌の手当てに手間どいながらもなんとかそれを終わらせると、薬箱を返した。小さな破片を取るときに、リーフィウのように慣れていないものがやったら痛かっただろうに、キーファは何も言わなかった。
 こう言うときは、痛いって言って良いのに。
 リーフィウはそう思いながら、そっと包帯の巻かれた掌を撫でた。キーファが、ぴくりと手を震わせる。
「私の手当てでは心許ないですから、あとでシャリス様に見ていただいてくださいね」
 リーフィウはそう言うと、立ち上がりかけた。食事の用意も整ったようだし、帰らなくてはと思ったのだ。
 だが、リーフィウはすとんと、また坐ってしまった。
 キーファが、その手首を掴んでいたからだった。


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