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モドル 9-05 01 02 03 * 05
遠景涙恋
第十章 花眠歌
04
リーフィウは少しばかり驚いて、でも、何も言わずにそこに坐った。すとんと座り込んだ先はキーファの目の前で、リーフィウは柔らかい布団をずらして横に移った。その間も、キーファは手首を離してくれなかった。
それからしばらく、二人は無言で坐っていた。侍女たちも、給仕の数人を残していなくなっている。いつものような、ひどく静かな部屋になった。
この静けさの中で、王は一人で食事をするのだろうか。
リーフィウはふとそう思って、新しく並べられた卓上の夕食を見た。豪華な食事だ。一人では食べきれないほどの。
それでも、食器は一人分で、リーフィウがいなければ誰も来る気配はない。自分はいつもイーザと一緒で、最初は断固として断っていたイーザも、二人きりのときは一緒に食事をしてくれる。そして今は、部隊長達が来てくれる。
それなのに、キーファは一人なのか。
ふと手首が寒くなった気がして視線を落とすと、いつのまにか掴んでいた手がなくなっていた。なんとなく寂しくてそこに触れると、キーファが「悪かった」と呟いた。
一体、何を謝っているのだろう、とリーフィウは首を傾げる。それから、一向に食べ始めないキーファに、食事を勧めた。だが、キーファが手にしたのは酒のグラスで、リーフィウは眉根を寄せた。
「何も食べないうちからお酒なんて……きちんと食べてくださいね?」
そう言えば、顔色が余りよくない気がする。リーフィウは自分のことは棚に上げて、キーファの身体が心配になった。なんと言っても、動かないリーフィウとは違う。
心配そうな目で見つめられて、キーファは仕方なしに箸を持った。だがそこで、じっと見られている気がして、その視線の先を見た。
「食事は、したのか」
突然そう言われて、リーフィウは目をぱちりとさせた。それから、微笑んだ。いつもよりずっと、キーファが頼りなく見える。
大丈夫。ここにいるから安心して欲しい。
リーフィウは、掴まれていた手首をそっと撫でた。
「ええ……この騒ぎが起こったので途中でしたが」
といって、リーフィウも食欲があるわけではない。それはそれで構わなかったが、キーファが「それならば一緒に食べろ」と言って、食器を揃えさせた。
確かに、一人で食べる食事ほど味気ないものはない。リーフィウはいつも家族や宮殿内のものたちと一緒に食べていたから、一人で食べることには未だに慣れないのだ。
食事は、静かに進んだ。キーファは一緒に食べろといったが、既に食べたことを考慮しているのか、無理強いはしなかった。でも、いくつも出される皿の中で、リーフィウは甘酸っぱいたれのかかった、揚げられた白身の魚を気に入った。引き締まった魚の身と、そのたれが絶妙な味わいだった。揚げてあるにもかかわらず、油のしつこさもない。ルクでは、食べたことのない味だ。
ああそれは、とキーファが少し言い淀んだ。でも、少し悪戯している子供のような目をしている。
「なんですか……?」
「いや、気に入ったんだな」
「ええ、美味しいと思いましたが……なんの魚なのです?」
リーフィウは箸使いも綺麗だった。ルクでは箸はあまり一般的ではない。そこはさすが王族なのだ。その箸で、小さく揚げられた魚を掴んで、首を傾げる。
「食べたことはないか?」
「たぶん……この食感は知りません」
どこか焦らすようなキーファに、リーフィウは少し怪訝な表情をした。何か、とんでもないものを食べさせられているような気分になる。
「キーファ王?」
キーファは、僅かだがにやりと笑っている。なんだか嫌な予感がして、リーフィウは魚を小皿に置いた。
「教えていただけないのですか?……意地悪ですね」
少しむくれた目で言うと、キーファが今度はそれとわかる笑みを浮かべた。
「いや、知らないほうが食べやすいかと思ってな」
「ですから、何の魚なのです?」
キーファは気にしていないのか、ぱくりとそれを食べる。それならば、別に自分だって知っても害はないと思った。
「海蛍だ」
「え?」
「船の上で、見ただろう?」
リーフィウは思わず口元に手を当て、まじまじとその料理を見た。
淡く光る、綺麗な魚。
「食べられたんですね……」
「遠海に出ないとならないし、どちらかと言うと羽が目当てだから、食用としては珍しいといえば珍しいが、不味くはない」
確かに、あの綺麗な魚を食べているのかと思うと……悔しいながらちょっぴり箸が進まなくなる。キーファが言い淀んだのは間違っていないのだ。
「ええ、美味しいですね」
リーフィウは少しばかり悔しくて、そう笑ってみせた。
実は美食家なのはシャリーアなのだが、リーフィウも美味しいものは好きだった。あの生きていた海蛍を見てしまったからなんとなく申し訳ないような勿体無いような気になるが、それがなければ美味しい食材には違いない。
キーファはふっと笑って、酒を煽った。むくれたり強がってみたり、今日のリーフィウは表情が豊かだ。
キーファは先刻までのあの暗く絶望的な破壊衝動がすっかり消えて、随分穏やかな気持ちになっていた。突然来るあれは、抑えようにも抑え切れない事が多い。
壊して壊して壊して。それでも、満足出来ない。壊したいものは、これではないのだとわかっているからだ。
散々に手当たり次第のものを壊して、それでようやく、やはり壊れないのだと確認する。――壊せないのだと、思い知る。そしてあとは、自己嫌悪のような、最初の衝動より更に深い絶望のような思いを抱いて、眠る。眠れもしないのに、その中に沈んでいく。それがいつものことだった。何より恐ろしいのは、本当はあの破壊衝動ではなく、その後に来る、この深い闇だった。
だから、キーファはリーフィウの手を掴んでしまったのだ。
「キーファ王?」
ふいに黙って一点を見つめて動かなくなったキーファに、リーフィウは不安になって声をかけた。二人でいるときも、そんなことは良くあった。もともと大した会話が成り立つわけではなかったからだ。だが、今回ばかりはリーフィウはひどく不安になった。
先刻暴れていたキーファは、それは痛々しかった。あれだけ暴れているのに、少しも何も、発散していなかった。怒りとか苛立ちとか、哀しみだとか。リーフィウが幼い頃に暴れたときは、そういったものを発散するためだったと思う。言葉で泣き叫んで足りなくて、手足をばたつかせる。それなのに――キーファは、ただ無言で。
ふいっと向けられた目に、リーフィウは胸を衝かれた。深い深い、暗い目。
だから。
リーフィウは、離れられなかった。その傍から、離れたくないと思った。
そのまま、暗いどこかの闇の中に、キーファが沈んでいってしまいそうに思えた。
眠る頃になって、キーファはリーフィウを帰そうとした。だが、今度はリーフィウがそれに首を振った。
「引き止めたのは王ですのに。お傍にいてはなりませんか」
それにどう答えたら良いのかわからずに、キーファはしばらくリーフィウを見ていた。そんな言葉を聞くとは、思っていなかった。
しばらくの沈黙の後、キーファはゆっくりと口を開いた。
「ラ・フターハがしたことを、俺は許せない。つまり、俺自身も許せないということだ」
それに、キーファには恐怖があった。この不安定な状況でリーフィウに近くにいられると、自分で何をするわからなくなりそうだった。
それは、とリーフィウが絶句して、キーファはハリーファを呼ぼうとした。だが、今度はリーフィウがその手首を握った。細く華奢な指が、がっしりとした手首を捕まえる。
何か言おうとして、リーフィウは口を開いた。だが、どんな言葉を言うべきかわからず、何の言葉も発しないまま、再びそれを閉じた。ただぎゅっと、その手首を握り締める。キーファはその訴えるような目をしばらく見つめて、ふいっと何も言わずに歩き出した。手首を握ったままのリーフィウは、そのまま一緒に寝台に向かった。
手は、振り払われなかった。
どさりと寝台に横になって初めて、キーファはリーフィウを見た。それから微かに笑って、手を離してくれないか、と頼んだ。そこでようやく気付いたかのようにリーフィウははっとして、慌てて掴んでいた手首を離した。
キーファの隣、寝台の左側は空いている。そこが自分の場所だと、思っていいのだろうか。リーフィウは目を閉じてしまったキーファをじっと見た。
「リ語の歌が聞きたい」
どうしようかと立ったままだったリーフィウに、ふいにキーファが口を開いた。
「歌、ですか?」
戸惑ったところで、寒くないのか、と言われた。火鉢の火はまだ消えてはいないが、夜はさすがに冷える。それが布団に入れという合図なのだと受け取って、リーフィウはその中に滑り込んだ。半身起きたままで、少しだけキーファの黒い髪を見る。ここのところまた手入れをしていないのか、それとも先刻暴れた所為なのか、整ってはいなかった。だが、リーフィウはその自然なままのキーファの髪を好んでもいた。
「歌ってくれないのか」
リーフィウには背中を向けたまま、キーファが言う。冗談なのかと思っていたリーフィウは、あまり得意ではないのですが、と言った。キーファは何も答えない。リーフィウはその背をしばらく見つめて、小さな声で、歌いだした。
リ語の美しい調べが流れる。
それは、花をも眠らせる、一種の子守唄のようなものだった。ゆるやかな抑揚と、優しい響きばかりで出来た歌。リーフィウを育ててくれた乳母は、この歌をよく歌ってくれた。
遠い、幼い頃の日々がふいに蘇る。温かで、何も知らず、平和だったあの日々が。街の何処も楽しくて、活気に溢れ、夜は昼のその騒ぎに疲れたように、静かに眠る。それはとても心地よい疲れで、ひっそりと、花さえも眠る夜。
ふいに頬に何かが触れて、リーフィウは歌を止めた。一瞬だったそれは、キーファの長い指だった。いつのまにかこちらに顔を向けている。
「すまない。泣かせたかったわけじゃない」
少し困ったような顔をしている。そのときになって、リーフィウは自分は涙を流していたのだと気付いた。
「美しく、優しい調べだな」
キーファが、再び背を向けながらぽつりと言う。リーフィウは、はい、と頷いて、するりと布団の中に全身を潜り込ませた。温かい。
広い背中が目の前にあって、リーフィウはなんとなく、そこに額と手をつけた。ぴくりとそれは動いたが、キーファは何も言わない。
微かな、柔らかく少しだけ甘い香りがする。シュレの香り。キーファの匂い。
リーフィウはゆっくりと、瞼を落とした。久しぶりに、心地よい眠りにつけそうだった。
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