home  モドル 10-05 01 02 * 04


遠景涙恋
第十一章 密約


03
 最初、リーフィウはその言葉の意味がわからなかった。あまりに突然で、誰がどうなったのか、理解できなかったのだ。
「皇太后様……?」
 呟いてみて、それがキーファの母上なのだと気付いたリーフィウは、はっとキーファを見た。キーファは、僅かに眉根を寄せていた。突然だったのは、キーファにとっても同じだ。母親は、狂っていたかもしれないが病気ではなかった。
 だが、そう、狂っていた。もう、生きることに耐えられないかもしれないくらいに。
「どういうことだ」
「それが……」
 ちらりと兵たちが周りを見て、キーファが立ち上がった。それから、隣の執務室に三人は移った。
 リーフィウはぽつりと取り残されて、その姿を見送るしかなかった。
 自分が関われないのは、仕方がない。関われるわけがないのだ。
 リーフィウはしばらくその扉を見つめていたが、侍女たちの困惑と不安の表情を見て、食事を片付けるように頼んだ。多分、キーファは食事どころではないだろうし、自分も食欲などなくなっていた。
 キーファ王の母君。
 キーファから、家族の話を聞いたことはない。ラシッドに少し事情を聞いただけだが、彼女も苦しい立場にいることは容易に想像できた。
 キーファは、落ち着いていた。だが、それもまた、哀しいことだとリーフィウは思った。
 執務室に移ったキーファは、表情を変えないまま、二人の兵に向き直った。
「わかるだけでいい。イリ、状況を説明しろ」
 兵二人は、一瞬顔を見合わせた。何か言いづらい状況なのは、見て取れた。だが、名を呼ばれたファノーク部隊の副隊長は、すぐに冷静な顔を作って、僅かに目を伏せてはっきりとした声で報告を始めた。
「皇太后様の死因は、刃物による出血死です。侍女殿が助けを呼ばれて、我々が駆けつけたときには、もう息をされていませんでした」
「自害か」
 そのキーファの感情を全く含まない、冷たくも聞こえる声に、イリは顔を上げた。だが、すぐにまた僅かに視線を伏せた。
「わかりません。ですが、傍にイル・ハムーン隊長がおられて、ご自分がなさった、と」
 しばらく沈黙があった。混乱しているのは、兵たちも同じことだった。今はファノークの厳命によって、イル・ハムーンのことは見つけた兵たちしか知らない。他の隊長たちに知らせる前に、国王へ報告に行けと言われたのだ。
 イル・ハムーンの言った言葉が、イリたちには信じられなかった。にやりと笑ったその口から、零れた言葉が。
「そうか、イル・ハムーンが……」
 ようやくキーファの口から零れた言葉に、イリはじっとその顔を見た。何かを押さえるように目を閉じた顔は、痛みを堪えるようでもあった。
「キーファ王、何か、ご存知なのでしょうか」
 イリは自分がここで聞くべきではないとわかっていてなお、キーファに問い掛けた。
 国王軍の中でも年長の、頼れる第四部隊長は言ったのだ。
 ――俺が殺した。ずっと、機会を狙っていたんだ。任務を果たす、機会を。
 裏切ったのですか、と叫んだ兵に、イル・ハムーンはにやりと笑った。
 ――誰をだ?俺ははなから、こちらの人間じゃなかった。


 結局、イル・ハムーンは地下牢に入れられた。審議はするが、本人が自分がやったと言い、その場にもいたため、釈放はできなかった。そうなると、もう隠すことも難しくなり、宮殿内の誰もが知ることとなった。
 そして、もう一人。
 イル・ハムーンが命を受けたと言った人物が、王家反逆の罪で捕らえられた。
「どういうことだ、キーファ王」
「そのままだ、タシュラル宰相」
 冷たい目で見つめるキーファを、タシュラルはいつもと変わらぬ不遜な態度で迎えた。王が来たと言うのに、その座から立とうともしなければ、姿勢を正すことさえしなかった。大概は何も言わずに隣に立っているばかりのタシュラルを見ていたラシッドは、その姿に眉根を寄せたほどだった。これが、タシュラルのいつもの王に対する態度なのだ。
「身に覚えのない人間を捕まえるほど、あなたも馬鹿ではないと思ったが、王」
「証人がいる。というより……あれは証拠になるのか」
「証拠?」
「あなたの秘密裏の部下にする焼印だ。クィナスとシーサ、それとあなたの名前の頭文字を組み合わせたのは――夢でも見たか?」
 王家になる、その夢を。
 クィナスはともかく、シーサは王家のみに許されている紋章だった。それを使って自家の紋章を作った時点で、反逆を問われてもおかしくはない。
 タシュラルが、初めて顔を歪めた。
 キーファが視線で促して、タシュラルは捕らえられた。階級下の兵たちに触られるのが嫌なのか、腕を取られると、それを振り払って自ら歩いた。だが、ものすごい形相でキーファを見ることには、戸惑いはなかった。
 キーファはただ、それをじっと見つめ返した。


 左上腕の焼印は、決して綺麗なものではないが、自らを戒めるにはちょうどいい、とイル・ハムーンは思っていた。された当初はひどく痛んだが、今はもう、肌にすっかり馴染んでさえいるように思えた。
 クィナスとシーサ、そして、タシュラルの頭文字。ごてごてした感のあるその紋章は、それを持つ人間を現してもいるようで、苦笑がもれる。
 何もかも、手に入れようとした男。
 自分は、何もいらなかった。ただ、少しばかり自分に優しい人たちと、笑い合って暮らせればよかった。
 それが奪われたのは、もう遠い昔のことのような気がした。
 今ならば、納得ができる、というものではない。感情はそんなに簡単なものではなく、やはり国を統べる男の責任を問いたいと思うこともある。この豪奢な、宮殿を見るだけでも。
 冷たい壁に背を預けると、あの辛く暗かった日々を思い出しそうになった。食べるものもなく、雨ばかりが降って、ひどく寒かった。少しでも暖かくなろうと身を寄せ合っていたのに、となりの身体がどんどん冷たくなっていくのが、恐くて仕方がなかった。
 見捨てられた、忘れられた村なのだ、と大人は言った。
 国中が飢えて、ひどく辛い年だった。その村は都からは遠く、小さかった。国の救援がそこまで届く前に、村は飢餓と疫病で、全滅に近い状態だった。自分が助かったのも、ただ運が良かったのだとイル・ハムーンは思っている。
 あの恐怖を誰に訴えればいいのか、その哀しさを誰の所為にすればいいのか、まだ幼いイル・ハムーンにはわからなかった。助かったからといって、決していい生活をして来たわけではない。国王軍の隊長になってからの生活など、夢のようなものだ。
 それでも、青年と呼ばれる年になった頃には、その暗い思い出は忘れたつもりだった。もう、過去なのだと。
 燻らせた状態で蓋をしたのが、悪かったのかもしれないと思う。もっと泣き喚いて、叫べばよかったのかも知れない。
 ふっと息を吐いて天井を見上げた。月明かりが届かないここは、日が暮れれば何処もかしこも暗い。ただ、近くに川が流れていて、耳を澄ませばその音が聞こえた。その水の音に混じって、金属質な音が響いた。
 ぼんやりとした灯りが近づいて、イル・ハムーンのいる檻の前で立ち止まった。その立ち姿には、見覚えがある。
「ザッハ……?」
 呟きは、思ったより響いた。それに揺らされたかのように、灯りが少しだけぶれた。
「なぜ、ここにいる」
 自分がどれだけの重要犯罪人として扱われているか、イル・ハムーンはわかっていた。人を殺しただけではなく、王家反逆の罪も問われているのだ。
「……私も、一応国王軍の隊長の一人ですから」
 だからと言って、簡単に通されるものではない。実際キーファも、誰も通すなときつく門番に言っていた。ザッハにしつこく懇願され、困ったようなキーファが目に浮かぶようだった。
 キーファ王は、全てわかっている。
 イル・ハムーンは、自分の下を訪れたキーファを見て、確信した。そして、彼はきっと自分を裏切らないだろうと。
 自分は、裏切ったと言うのに。
 でも、それを後悔はしていない。
 そのことだけは、キーファを裏切り続けたいと思っていた。
「何をしに来た。こんな時間に、尋問でもないだろう?」
 するにしても、国王自ら行うだろうことは想像に難くなかった。特に、ザッハ一人にさせることは決してない。
 ザッハは、しばらくじっとイル・ハムーンを見ていた。片目だけが、射るように自分を見ている。
 ああどうせなら、とイル・ハムーンは思った。
 どうせなら、自分がザッハの代わりになれれば良かった、と。
 今や命もないに等しい自分なら、片目ぐらいはどうということない。あの綺麗な青い瞳に比べたら、この自分の目など。
「嘘だと、言ってください」
 小さな、ザッハの声がした。川の音に紛れて、聞こえないほどの小ささだった。だが、イル・ハムーンは、聞こえなかったことにはしなかった。
「俺は裏切り者だぞ?そんな奴が嘘だと言って、信じられるのか」
「信じます」
 真っ直ぐに、迷いなく返ってきた言葉に、イル・ハムーンは自嘲の笑みを浮かべた。
 たぶん、ずっと恐かったのだと思う。自分はそう言うものは全て、捨ててきてしまったから。眩しくて、愛しくて――恐かった。
「タシュラルのする焼印は、命を預ける契約だ」
 ふいにイル・ハムーンの声が響いた。部屋の隅にいるその顔は見えなくて、ザッハはそれでもそこをじっと見た。
「契約のときからずっと、顔は晒さない代わりに、その焼印で自分を証明する。それと引き換えに、契約者はタシュラルの本当の紋章が入った印を貰う。二つが揃って、契約者の身元が証明されるんだ。仕事の支払いも、それで払われる。仕事は危険の多いものばかりだが、支払いはいい。だが、一度この契約を交わしたら、死ぬまでタシュラルの手先だ。抜けるときは――死ぬときだ」
 そこまで話してから、イル・ハムーンは寄りかかっていた壁から背を離すと、天井の低い檻の中を腰を曲げて進んだ。ザッハの、青い目が見えた。
 灯りの届くところに行って、イル・ハムーンは軍服の上着を脱いで、左腕の下着の袖を捲り上げた。一体何を始めたのかと見ていたザッハは、そこに現れたものにはっと息を飲んだ。
 クィナスと、シーサの紋章。だが、自分が知るものとは、明らかに違う。
「これが事実だ」
 イル・ハムーンの声がした。だが、ザッハはその顔を見ることは出来なかった。
 そっと、目の前の身体が離れていく。それは灯りの届かない隅に行ってしまって、今度はどれだけ見ようと思っても、今持っている灯りでは無理だった。
 焼印は、くっきりと肌に痕を残していた。それは爛れてもいなければ赤くなってもいなくて、昨日今日やったものではないと示していた。
 嘘だと言ってくれれば、それを信じると言った。
 信じるかと聞かれて、信じると言った。
 それを、こんな風に言われたら。
 これを、信じろと言うことなのだろうか。
 もう一度、その顔が見たいとザッハは思った。その目を見て、もう一度問いたかった。
 でも、イル・ハムーンは、じっと動かなかった。まるでそこにもう、いないかのように。


home モドル 10-05 01 02 * 04