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遠景涙恋
第十三章 月環


03
 湯浴みを終えてリーフィウを寝台に横たえると、キーファは戸棚からハカ酒を取り出した。ここのところの激務に酒は控えていたのだが、飲まずにいられなかった。
 その音を聞きつけたのか、イーザが遠慮がちに扉を叩いた。キーファが入室を許可すると、今やすっかりリーフィウ付きとなった侍女は、手に盆を持って現れた。その上には、薄っすらと湯気を立てた茶碗が乗っている。
「薬湯をお持ちいたしました」
 先刻、シャリスを呼べと言ったのを覚えていたのだ。それに、イーザもリーフィウの体調の悪さに気付いていた。だが最近は顔色の悪さなどを心配すると、殊更元気に振舞って見せたりするので、イーザも困っていた。
 ゆったりとくつろいだ格好のキーファは立ち上がり、その盆の上の杯を取った。それから寝台に近づくと、それを口に含んで、リーフィウに口移しで飲ませた。
 ついでに、王も飲んでくれればいいのに。
 決して明るいとは言い難い表情をしている王を見て、イーザはそう思った。薬湯嫌いのキーファもまた、身体のことを心配しても、大丈夫だと跳ね除けてしまう。
 薬湯をすべて飲ませて戻って来たキーファに、イーザは水を渡した。薬湯の苦さに、キーファが顔を歪ませていたからだ。
 キーファはその水を一息に飲むと、どさりと座布団に坐った。
 イーザが急須や茶碗を片付けて立ち去ろうとすると、キーファが無言で引き止めた。ハカの入った杯を掲げ、勧めてきたのだ。
 イーザは見かけに寄らず、酒豪である。ハカなどの強い酒も男と酌み交わして支障なく、酔うことはない。多少明るくなると言うだけで、翌日もしゃきりとして仕事をするのだから、男たちは頭を下げたくなると囁きあうほどだ。
 イーザはキーファの前に坐り、その杯を恭しく受け取った。王ももちろん、イーザの酒の強さを知っている。
 じじっと灯り油が燃える音がした。しばらく二人は無言で酒を酌み交わした。極力落とされた灯りに、顔の影が濃く映る。
 立派になられた、とイーザはその顔を眺めた。王としての苦悩の表情は、以前のような危うさがない。悩んでも、きっと正しき答えを出すだろうと、思わせてくれる。だがそれは、時には正しすぎてしまうこともある。王である前に自分も人の子であることを、キーファはしばし忘れているように思えた。いや、人の子である前に王でなければならないと、思っているのかもしれない。それこそが、キーファ王の覚悟だったのだと、イーザは思った。
 濃度高く蒸留されたパナ酒の瓶が半分ほどなくなってから、キーファが口を開いた。
「昼間、何かあったか」
 問われてイーザは、酔いの様子は一切見せずに、すっと頭を下げた。
「ザバ地区の再開発問題の会議の前に、ソア様とシャーマ様がお話になっていたのが聞こえまして……注意が足らず、申し訳ございませんでした」
 ソアは外務大臣を、そしてシャーマは農水大臣を務め、その能力は高く評価できるものだ。タシュラルの元でも大臣をしながら、彼に完全には組しなかった、変り種でもある。だからこそ、キーファに実権が移ったときも、逃げもしなければ隠れもしなかった。その手腕を、キーファも認めている。だから尚のこと、二人がリーフィウを危険分子とみなしていることが、キーファの悩みの種でもあった。特に、外交手腕において長い実績と実力を持つソアにリーフィウのことを反対されるのは、苦しかった。
 ソアは、ルクに攻め入ることに反対した大臣だった。そのため、タシュラルにその任を解かれていた。それを連れ戻したのが、キーファだった。
 必ず、いつか必ず、ルクで反乱が起きる。復興を叫ぶ声は、未だ強いのだ。
 ソアはそう、きっぱりと言った。そして、それに間違いはないだろうと、キーファも考えている。だから、リーフィウを人質として捕らえておくべきだ、とソアは言う。今のように、内政に近い場所にいるべきではない、と。
「ソアたちは、何と?」
「いつものようなことを。離宮のことにも触れておりましたので……」
 離宮とは、紅芳宮の俗称で、王の愛人達が住まう宮殿を言う。リーフィウもそのことは聞き知っていたのだろう。離宮でもいいから王宮からは離れて欲しい、とソアたちが言っていることは、キーファも聞いていた。
 キーファはパナ酒を呷って、小さくため息を吐いた。自分がソアを呼び戻したのであり、リーフィウを傍に置いているのだ。正当な理由があるのならいい。だが、キーファがリーフィウを傍に置くその理由を言ってみても、納得してはくれないだろうと思った。
 それが正しき外務大臣であり、つまりは正しき王の姿でもある。
 リーフィウを傍に置いておきたいのは自分の我侭であり、そして内政に近付けているのは――自分の夢のようなもののためだ。そこにカハラムの国益はない。そして、その夢を叶えようと思うのならば、リーフィウを手離さなければならない。全てが噛み合わない、歯車のようだった。
 自分に、あの温もりを手離すことができるのか。
 キーファはじっと動かずに手の中の杯を見ていた。ふいに掴まれる細い指や、思ったより温かい手のことが思い出された。
 ようやく、掴んだと思ったのに。
 キーファとイーザの、二人の動かない影が床に伸びていた。王宮の夜は静かで、闇に沈んでいるかのようだった。
 身動きが取れずにいるのは、キーファだけではなかった。イーザもまた、歯痒い思いをしている一人だった。幼いときからのキーファを知り、そして今では、王宮内では最もリーフィウのことを知っている。この二人がどれだけ惹かれあっているのか、最もわかっている人間でもあった。だが、二人を知るからこそ、ただ一緒にいることがどれほど困難なことなのか、わかってもいた。互いが互いのことを思い合えば、哀しい結果になってしまうのだ。
「お悩みの、ようですね」
 じっと杯を見つめるキーファに、イーザが声をかけると、王はそれをぐっと呷った。
「悩んでいると言うより、諦めきれないのだろう」
 自嘲気味の表情で、キーファは呟いた。
 それでは、王はもう決めているのだ。姉のような侍女は、その王を誇らしくも思い、そして哀しくも思った。
 優しすぎるほどに優しい、この王が。
「諦められないのは、仕方がありません。もう、十数年越しの片思いだったのですから」
 そうイーザが微笑むと、酒の壜を持っていたキーファの手が、宙で止まった。だがそれは一瞬のことで、すぐに琥珀色の液体は杯の中に流れていった。
「そんなものではなかったが」
「まあ、自覚がありませんの?ご安心下さいませ。あれは立派な片思いでしたわ」
 普段はとても控え目な侍女は、二人で酒を飲んでいると、本当の姉のように容赦ない言葉を吐く。
「……よく、覚えていたな。俺は忘れていた」
 照れているようにしか思えない、ぶっきらぼうな物言いに、イーザは苦笑を隠せなかった。忘れていたなど、嘘に決まっていた。忘れたのではなく、大事に、仕舞いこまれていたのだ。
 イーザは笑ったままキーファの杯に酒を注ぎ足した。
「わたくしは、よーく覚えております。あのときは、悔しかったですから」
 そのまま、自分の杯にも酒を注いだイーザは、それをくいっと一気に呷った。
「悔しかった?」
「ええ。とても」
 にっこりと笑ってからイーザは、遠く記憶を見つめた。そう、はっきりと覚えている。あのときの、やるせなさや切なさや悲しみを。そして、それを僅かでも拭い去った、幼子のことを。
 ――早く早く。
 ――待てって。そんなに急がなくたって……。
 ――駄目だよ。逃げちゃうもの。ねえ、本当に大きな蝶なんだ。綺麗なんだ。見たいでしょう?
 ――う、うんっ。見たい!
 軽やかな笑い声と繋がれた小さな手。見ている誰もが思わず微笑んでしまいそうなその光景は、幸福以外の何ものでもなかった。
「あの頃王は、笑わなくなっていました。わたしたちがそのことに、どれだけ心を痛め、どれだけ慰めようとしたか……。でも、幼い王は決して誰にも、心を開こうとはして下さらなかった」
 あの頃は、キーファが自分が傀儡の王であることを知った頃だった。王でありながら、何も持たない自分。誰もに傅かれながら、そのくせ籠の中でしか飛べない。母親に会うのでさえ、自由ではなかった。
 キーファにとって、味方などいなかった。誰もがその飛べない鳥を、籠から出ないようにと監視していると思っていた。そう、飛べないというのに。
「皇太后様の前でも笑わなくなった王に、わたしたちは本当に哀しんでいました。でも、何も出来なかった。私たちは結局、王の願いを叶えることは出来ずに、ただお慰めすることしかなかった」
 そう、慰めることしか。
 王が笑わなくなる少し前、その我侭を宥めすかして諦めさせるのは、イーザの役目だった。まだ大人にはなっていなかったイーザに「大人におなりなさいませ」と言われると、キーファはよく我侭や癇癪を収めた。背伸びをしてみせる王は、侍女たちには微笑ましく映ったものだ。だが、キーファはその我侭を言わなくなった。そして、心を閉じてしまったのだ。
 イーザは遠い目をしたまま、ふっと自嘲の笑みを浮かべた。自分は何時だって、王に何かを諦めさせることしか出来ないのだ。
「あの頃、私たち侍女は悲しみに途方にくれていました。毎日毎日がとても静かで……静か過ぎて、哀しかった。それが、あの海を渡っていらしゃった小さな王子様が賑やかなものに変えてくださった」
 キーファの周りをうろうろとしては、真っ直ぐ曇りのない眼を輝かせてまだ少したどたどしく言葉を紡ぐ様は、侍女たちの心の慰めでもあった。最初はそれにすら心を閉ざしていたキーファは相手にしていなかったのだが、ルク王子は少しも気にせずに、キーファに笑いかけた。好奇心旺盛な王子は、自分の知らないものを目にする度に「あれは何?」「これは何?」と尋ねて、キーファが答えると、目を輝かせるのだ。次第にキーファが語る言葉が増え、二人は一日中、一緒にいるようになった。
 仲良く手を繋いで庭を駆け回る姿も、目一杯遊んで手を繋いだまま眠ってしまっている二人も、イーザはよく覚えている。
 その二人の姿は微笑ましく幸福であったが、同時に悔しくもあった。自分は、王を慰めることすら出来なかったのだから。
 イーザはそのとき二人の髪を撫でてあげたように、自分の足の上の服を撫でた。キーファと伸ばして発音することができなくて、キファ様キファ様、と孤独な王を慕った幼い王子。その彼と、こんな形で再び会うことがあろうとは、思っていなかった。
「覚えていらっしゃいます?お二人で、泥まみれになって帰ってらしたときがありましたわね」
 ふふふ、とイーザが笑う。
 キーファは何も返事をしなかったが、その日の事はよく覚えていた。
 二人で王宮を抜け出して、街を歩いた日だ。翌日の朝には、ルク王の一行は次の目的地に向かうことになっていた。だから、キーファは遠くを目指した。ただ、遠くへ。帰れないように。
 今考えれば、自分より一回りは小さかったリーフィウがよくキーファの足に着いて来ていたと思う。結局、カハラム兵やルクの侍女たちが二人を探し回っていて見つかってしまったのだが、それまで、リーフィウは一言も弱音は吐かなかった。今でも時おり見える、負けず嫌いの気性が出たのかもしれないが――あのとき、キーファはリーフィウが許してくれているのだと思っていた。何も言わずにただ歩きつづけるキーファを、やはり何も言わずに、許してくれているのだと。
 泥まみれになったのは、途中、前日の雨にぬかるんだ道で転んでしまったからだった。手を繋ぎ続けていたから、片方が転べばもう片方もつられてしまう。泥だらけになった顔を見て、キーファは泣きたくなった。だが、リーフィウは笑った。明るい声で、二人の惨状を笑ったのだ。その上、楽しいよ、と言って靴を脱いで裸足で泥の中を歩き回った。
 両手を広げて跳ね回るリーフィウを、キーファは覚えている。まるで、踊っているようだった。その印象があるから、今でもリーフィウを自由に空が飛べる鳥のようだと思うのかも知れない。
「あのとき、お二人は何か秘密の約束をしていらっしゃいましたね」
「本当に、よく覚えているものだな」
「あのときの、王の幸せそうに笑った顔を忘れたことはございません」
 イーザと目が合って、キーファはすっと目を逸らした。だがその目の縁が赤くなっているのは、隠せなかった。
 自分がした顔など、覚えていない。だが、あのときの楽しかった気持ちも、幸福な気持ちも、忘れられなかった。
 ――僕もね、王様になるんだって。そうしたら、一緒だね。
 ――王様なんて、嫌だよ。
 ――なんで?僕は父様は立派だと思うから、一緒なら嬉しい。ね?キファ様も一緒。そうしたら、もっと遊んでいられるかしら?
 ――もっと?ずっと?
 ――うん、ずっと。そうしたら、いいね。
 うん、うん、と頷きながら、それは叶わないとキーファはわかっていた。だが、自分と同じように、ずっと一緒にいたいと思ってくれたのが、嬉しかった。
 ――だから、僕が王様になったら、また遊んでね。
 約束ね、と笑ったリーフィウは、とても真っ直ぐな目をしていた。
 王様になったら――だが、リーフィウが王になることを、キーファが阻んだ。そして、約束は永遠に果たされなくなってしまった。
 ――王様になったら。
 うん、絶対だ。
 そう答えたのは、キーファだったというのに。



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