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遠景涙恋
第十四章 薄明


03
 くしゃり、と手の中で握り潰された手紙に、使いの兵は僅かに背筋を伸ばして緊張した。顔を上げなくとも、キーファ王の不機嫌さが伝わってくる。その王は、徐に立ち上がると、戸棚からパナ酒を取り出して一気に煽った。
「キーファ王……」
 呆れた声を上げたのはファノークで、どうしたらいいのかと縋るような使いの兵に、目で退出を促す。どの道、すぐに返信は期待できない。
「想定なさっていたのではないのですか」
 握り潰されたのはルクの状況を報告するシャリスの手紙で、そのシャリスから別便の手紙を貰っているファノークは、内容を読まなくとも、おおよその見当はついた。
 リーフィウが、危機に陥っている。
「していた。だが、最悪の想定だ」
 またパナ酒を煽ったキーファに、ファノークは諦めてため息を吐いた。確かにこれは、最悪な成り行きだった。
 ルクは条約破棄に向かい、リーフィウは孤立していく。その上、その身に危険が迫っている。
「……間違った、と言うべきか」
 キーファの呟きに、ファノークはゆるりと首を振った。
「カハラム王として、王は最大限のことをした、と私は思います。あのままルクを我々の支配下に置いていたら、早晩反乱が起きたことでしょう。それらしい情報を、私も手に入れた。これ以上の血を望まないのなら、あの独立は必要なものだった。ですが、カハラムにとっては、早すぎるルクの独立だった」
 元を辿れば、ルク侵略そのものが、間違いだったのだ。タシュラルが生きて権力を持ったままならば、確実に反乱の芽を潰しただろう。そうやって力で押さえ込む以外に、ルクを支配する方法はなかった。それを、キーファは選ばなかった。元々、侵略そのものに、反対だったのだから。
 起こってしまったことを、元に戻すことは出来ない。だから、歪が生まれるのは当たり前のことだった。
 それを全て、リーフィウに背負わせる気などなかった。だが実際は、あの細い身体で全てを受け止めている。
 ――王の座を死守しているリーフィウ殿の身は、今やその命さえも危ない。
 シャリスの感情を交えない報告書は、それでもその苛立ちを伝えているようだった。今ここで、カハラムが手を出すわけにはいかない。それでは、リーフィウの立場を余計に悪くする。今はかろうじてハリーファが密やかにその身を守っているが、それもルク民相手では、限界があるだろう。
「リーフィウ様は、王の座を降りることはないのでしょうか」
 ファノークの問いに、キーファは何も答えずに、窓の外、遠くを見た。青い空に、気持ち良さそうに大きな鳥が飛んでいた。
 リーフィウは、その座を死守するだろう。王という輝かしい権力の座の魅力に憑かれたわけではなく、条約を守るわけでも、ない。それを破棄したときに生じる、避けようのない争いを、起こさないために。
「結局、傷つけることしかできなかった」
 キーファの呟きに、ファノークは答えを持たない。どうしようもなかったと、慰めにもならない言葉しか、思い浮かばなかった。
「間違ったのですわ、王は」
 ふいに、凛とした声がした。
「カハラム王としてではなく、キーファ様として決断して下さいませと、お願い致しましたのに」
 振り向いたキーファの目に、怒った顔をした、シャリーアが映った。


 ――そろそろ、限界でございます。
 ちちち、と小鳥が鳴いている。装飾物の一切ない、冷たい石壁に囲まれた部屋の小さな窓を、リーフィウは見上げた。天井近く、随分高い位置にあるその窓からは、僅かな空しか見えない。
 シリスの口調は、苦々しさに満ちていた。どうしようもできない自分を嘆いてもいた。だが、十分、色々なことをしてくれたとリーフィウは思う。こうして匿ってくれるだけでも、危険に違いなかった。いくら寺院とは言え、彼もまた、裏切り者の札を貼られても仕方がないのだ。
 胸元に垂れている、小さな袋を服の上からそっと握る。首飾りになっているその皮袋の中に、王の印が入っていた。
 今の自分には、これを守ることしか出来ない。
 シリスが言ったように、過激派の我慢はそろそろ限界に近いようだった。老臣たちは穏健派で、その過激派を押さえながら、リーフィウに条約破棄を迫っていた。だが、未だ成されない新王の戴冠式に、民たちからも不審と不満の声が上がってきていた。その戴冠式と同時に、条約破棄を宣言するように。それが、老臣たちの提案だった。断れば、過激派から命を狙われることは間違いない。リーフィウを病死とし、次なる後継者を――シャリーアなり、遠いと言えども残っている、王家の血を引く者なりを――王座に据える。その可能性を、穏健派からもリーフィウは聞いていた。そのため、こんな地下牢のような部屋に閉じ篭っているのだ。
 条約の破棄は、新たな開戦への道だとどれだけ言っても、議会は締結を良しとはしなかった。例え戦になろうとも、締結はできない。それは、過激派も穏健派も同じことだった。
 それが、ルクという国なのだ。だからこそ、先の戦でもカハラムにつくこともヤーミンにつくことも出来ずに、滅ぶ運命を辿った。
 同じことを、繰り返すつもりなのだろうか――。
 リーフィウの目に、暗い陰が落ちる。あのときの絶叫も、悲鳴も、濡れて光る血の色も、まだ覚えている。それとまた、同じ事を。
 期限はもうない、と言われた。出来ることなら今日にでも、リーフィウの承認を得たいと老臣の一人は懇願していた。あなた様を見殺しにするのは、あまりに忍びない、と。
 リーフィウは、簡単に殺されるつもりなどなかった。古くからの伝統を大切にしすぎるルクでは、この印がない限り、王を認めることはない。それならば、どこまでも逃げようと、リーフィウは覚悟をしていた。その間に、ルクが自ら強くなればいい。再び大国と取り引きが出来るほどになれば、あの条約もその内容を変えるようになる。キーファが、そう約束したのだから。
 リーフィウは、もう一度その皮袋を握り締めて、椅子から立ち上がった。シリスが限界だと言ったのだ。彼の元にこれ以上留まることは出来ない。
 ここを出て行っても、行く当てなどあるはずがない。捕まらないという保証もない。
 ――キーファ。
 もう、会えない。温かいあの腕に包まれることもない。
 もう、一人なのだ。
 着の身着のままで宮殿を逃げ出てきたリーフィウは、この皮袋と今着ている服以外に持ち物を持たない。シリスに何も言わずに行くのは心苦しいことだったが、言えばまた巻き込むことになる。リーフィウは、すっと扉に手を伸ばした。
 その扉が、リーフィウの手が触れる前に、すっと開いた。その先に立っていた人物を見て、リーフィウはその場に立ち尽くした。
「シャリーア……!」
 少し逞しくなった妹は、神々しいばかりの笑顔を浮かべて、リーフィウを見ていた。そして、その笑顔をくしゃりと歪めると、兄に抱きついた。
「兄さま!」
 抱きつかれれば、やはり華奢な身体だと思う。だが、それと同じくらいに、リーフィウも痩せ細っていた。
「シャリーア……なぜここに……」
 ちらりと後ろを見ると、シリスがいた。だが、シャリーアはその前で、扉をそっと閉めた。狭い部屋に、二人きりになる。
「兄さまも、キーファ王も、馬鹿だからよ」
 涙混じりのシャリーアの声に、リーフィウは切なげに顔を歪めた。わかっていると、シャリーアは言うのだ。二人の、決断を。
「本当に、馬鹿なんだから……」


 陽を入れる大きな窓のない部屋は、ひんやりと冷たい。痩せて儚げな兄の薄着に、シャリーアは眉を潜めて自分が羽織っていた布を肩にかけた。
「シャリーア、大丈夫だ。おまえの方が身体を冷やす」
 リーフィウはそう言ったが、シャリーアのひと睨みに、口を閉じた。ついでとばかりに、一つしかない椅子にまで坐らされる。
「こんなに痩せて……」
 どちらが年上なのかわからない。シャリーアの微笑みは、母のことを思い出させた。あまり似てないと思っていたのに、やはり親子なのだ。
「シャリーア、無事に帰ってきたんだね」
 良かった、とリーフィウが言って、シャリーアも微笑む。だが、すぐに呆れたようなため息を吐いた。
「わたくしの心配より、ご自分の心配をなさって、兄さま。まさか、ここまでの状況になっているなんて……」
「情けないところを見せたね」
 ふるふると、シャリーアは首を横に振った。
「……情けないよ。王になってさえ、力がない」
 自嘲気味にリーフィウが言う。だが、その横顔は、胸を衝くものだった。
「兄さま……兄さまには、向いていないのだわ」
 小さな呟きに、リーフィウは「そうだね」と小さく笑った。
 厳しいことを言ってくれるものだ。昔から毒舌の傾向があった妹だが、あまり政治のことには口を出したことはなかった。コクスタッドで色々学ぶものも多かったのだろう。
「別に、王の座が向いていないと言っているわけではないの。ただ、今のルクの王には向いていないというだけで……。以前のルクのまま、平安な中での王だったら、兄さまは立派な王になったと思うわ。でも、今は周りとの取り引きも必要な時。条約全てを受け入れられないと言うのなら、妥協案を探せばいい。せめて税額をもう少し上げて、数年後の駐留軍の規模縮小を約束してもらう。それで、議会のほうにも我慢してもらう。王なのだから、それぐらい強く出ても構わないでしょう?」
 すらすらと出てきたその案に、リーフィウは目を丸くしながらも、ゆるく首を振った。
「あれは、カハラム側のぎりぎりの線だ。カハラム王は、かなりの尽力を尽くしてくださった。それでも、その条約では議会は納得しないだろう。それも、仕方がないことなのだ、シャリーア。彼らは、私がカハラムで安寧な日々を送っているときも、戦っていたのだから」
 決して安寧な日々とはいえないだろう、とシャリーアはどこまでも他人のことしか考えない兄にため息を吐いた。やはりそうなのだ、と思う。これが、兄なのだ、と。
 両者の努力を無駄にしないために、リーフィウは悪者になることにしたのだ。あまりに頑固なリーフィウの態度に、今では「国のためではなく、王の座に目が眩んでいるだけだ」とさえ言われている。シャリーアは、それが口惜しくてならない。
「ルクの民たちは情に脆い。それに、タシュラル亡き後のカハラムには、ルクを理由もなしに侵攻したという罪悪感のようなものもあるはずです。それらを考えて、わたくしが捕虜として捕まっていたのですから、そこで取り引きをしてもいいはずです」
「シャリーア……」
 そんなことを出来るはずがないだろう、とリーフィウの目は言っている。
「……ですから、向いていないと言うのです。本当に……。兄さまたちは優しすぎる」
 それは、色々な人間に言われてきたことだ。だが、その中の言葉に、リーフィウは首を傾げた。
「たち……?」
 ええ、とシャリーアは頷いた。それから、坐っているリーフィウの前に腰を屈めて、その目を下から覗き込んだ。
「わたくし、キーファ王に頭を下げられました」
「え?」
「ルクとカハラムの国交を円滑に進めるためにも、形だけでいいから、妻になって欲しいと」
 つまりは、ルク側からしてみれば、現王の妹姫を人質に差し出すような形になる。シャリーアが手紙で、どんな境遇も受け入れると書いたそのことに、キーファはこう言う形で答えたのだった。
 リーフィウは絶句して、何も言えなかった。
「わたくしが妻になれば、条約の内容などをもう少しルクの有利になるようにもできるかもしれません。または、新たな条約を締結してもいい」
「でも……」
「カハラム王として、正しい判断だと思います。頭を下げたところは、全く大国の王とは思えないのですけれど……」
 真っ直ぐにリーフィウを見てから、シャリーアはふっとその真剣な顔を崩して、立ち上がった。
「でも、それでは、ラシッド様とは……」
 ラシッドと結ばれたときの、シャリーアの幸せそうな笑顔が浮かんだ。形だけといえども、キーファと婚姻の関係を持ったら、今までのようにラシッドと仲むつまじく暮らすわけにはいかないだろう。
「ええ。ですから」
 シャリーアが、思わずといったような笑顔を零す。そして、高らかに言った。
 ですから、お断りいたしました、と。


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