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ユーフォリア――euphoria―― 第二話


05
 春が過ぎ、夏がきていた。
 哲史の行方は依然知れず、それでも七緒は諦めずに探していた。
 哲史は自分のことを思って姿を消したのだ。それならば、自分が諦めてしまったらいけないと思っていた。来生や朝井、伏見も暇があれば探してくれているが、仕事の合間の、それも非公式の捜索は、思ったより困難だった。
 捜索願を出すのならそれでもいい、と深海は言ったが、哲史が自らいなくなったことを考えると、それは躊躇われた。
 なんだか、追いかけてばかりだ。
 七緒はふとそう思って、知らず笑った。二人で、ずっと追いかけっこをしている感じだった。突き放して、追われて、追いかけて、そして今度は他人の手で離されて。それでも、決して諦めはしない。
 哲史は決して自ら命を絶つようなことはしない。
 そう信じていた。それなら、自分が探し出すまでだ。生きてさえいてくれれば、どれだけ時間が掛かっても探し出してやる。
 一度だけ、哲史から連絡が合った。それは無言電話で、だから哲史からという根拠はないが、確信はあった。
『もしもし?……哲史、哲史だろう?どこにいる?話がしたい』
 全て終わったから、君のお父さんとも話したから、そう言いたかったのに、電話はあっけなく切られてしまった。
 泣いているな、と七緒は思った。今までにないくらい集中して背後の音を聞いていたが、車の音しか聞こえなかった。それでも。
 耐え切れないと言うように置かれた受話器の向こうで、きっと七緒を思って泣いている。そこに行って、すぐに抱きしめられない自分が、ひどく恨めしかった。
「情けないよなあ」
 呟いた声は、青い空に吸い込まれていった。


 キイッと音がして開いた扉に、雪絵にしては早いな、と思った哲史は、現れた人物に思わず息を呑んだ。カウンターを拭いていたふきんを、ぐっと握り締める。
「何しに来た」
 切りたくても、切れない血があるのに、どうしてそれだけでは駄目なのだろう、と哲史は思う。それを恨むだけ、それを憎むだけで、どうして駄目なのだろう。
 深海は目の前で冷たく硬い表情をしている哲史を見ていた。つい最近まで赤ん坊だと思っていたのに、目の前の哲史は立派な大人だ。その成長過程など、自分の目に映っていなかったのだな、と思って自嘲した。
「人一人探すのがこれほど大変だとは知らなかったよ。刑事も大変だね」
 深海がそう言うと、哲史の目が鋭く細められた。
「あの人は関係ない。何もない、そう言っただろう」
 心配で、一度だけ七緒に電話をした。署にも電話をして、七緒の名を出したこともある。今出ておりますが、と言った女の声に困惑も何もなく、きっと大丈夫だ、と言い聞かせた。
 言いなりになることは簡単だった。でも、それを七緒が許すはずがなく、逃げるしかなかった。
「ああ、彼も同じことを言っていたよ。何もなかった、とね」
 深海の言葉に、哲史は胸が抉られる気がする。真実なのに、その関係まで否定されたようで。それでいいと思ったのは、自分なのに。
「でも彼は、恋人だが、と言ったよ。戸惑いもなく」
「え……?」
「それから、もうおまえを、解放しろと言われた」
 深海が、微かに笑った。薄暗い店の中で、どこか疲れて、急に年を取ったように見えた。
「おまえは私の息子である前に、哲史なんだとね。だからそれを認めて、もう解放しろと言われたよ」
 哲史は、ふいに七緒の真剣な顔が浮かんで、視界が歪むのがわかった。おまえはおまえだ、だからいいんだ、と何度も言われたことを思い出す。
「私は、おまえの父親という役目を降りることにしたよ。それを、言いに来た」
 深海はそれから、彼はおまえを探しつづけると言っていたよ、と告げて、くるりと振り向いて出て行った。
 哲史は、自分が泣いていることにも気付かず、そこに立っていた。父親の言った言葉が、ぐるぐると頭を回っている。
――父親の役目を降りる……
 解放する、というのだろうか。もう、いいのだろうか。自分も、その息子であると言う役目を降りて。何度も何度も、抜け出したかったのに抜け出せなかったその舞台から、降りても。
「哲史?なんか良い車が止まってたんだけど、お客さんだったの?え、あら、どうしたの?ねえ、哲史?」
 雪絵が困ったように何かを言っていた。でも、哲史にはそれは聞こえず、ただ、七緒を求めていた。今すぐに、逢いたいと思った。
 逢って抱きしめて、抱きしめ返して欲しかった。
 てっし、と呼んで欲しかった。


 今日はお休みにしちゃおう、と雪絵は言って、さっさと臨時休業の札を外に出すと、哲史に少しだけだとストレートのウイスキーを出してくれた。身体の中から温められるようなその感覚に、哲史は少しだけ落ち着きを取り戻した。
「そう、そういうことだったの」
 ぽつりぽつりと事情を話しだした哲史に、今度はコーヒーを出して、自分はウイスキーをロックで飲みながら、雪絵は静かに話を聞いてくれた。
「とってもいい人なのね、その人」
 雪絵がふっと顔を綻ばせる。哲史が七緒の話をするときだけ、とても切なく、そして穏やかな表情をするのがどこか羨ましく、そして切なかった。
「俺はずっと、自分が立ってるってことも、話してるってことも、よくわからなかったんです。生きてるってことが、どういうことなのか分らなかった。その何者でもない自分が、自分なんだって教えてくれたのが、七緒だった」
「あなたがあなたであること、か」
 愛人と言う名も、店のママと言う名も、女と言う名もつけず、雪絵が雪絵であることを、あの人は認めてくれていたのだろうか、と雪絵はふと思った。そう思ったら、ひどく切なくて、哀しくて、雪絵はウイスキーを流し込んだ。そうであったら、今ごろこんなに恨みがましい未練はなかったかもしれない。愛人と本妻という名を天秤にかけたのではなく、雪絵とあの女を天秤にかけて、雪絵を捨てたのだと言ってくれたら、威勢良く罵倒の一つでも言って、すっぱり諦めたかもしれない。
「雪絵さん?」
 黙りこんで伏目がちに何か考えて始めた雪絵に、思わず哲史は声をかけた。どこかひどく寂しそうで、見ていられなかった。
「ごめん。ちょっと思い出しちゃった、馬鹿な男のこと」
 そう言って、それからじっと哲史を見つめた。
「ねえ、そんな良い男、滅多にいないわよ。大事にしなさい」
 離れてきたことを分っているのにそんなことを言う雪絵に、哲史は目を伏せた。
 会いに行くことを、哲史は迷っていた。父がもう手を出さないと言ったとしても、これからも、ずっと自分は七緒の負担にしかならないかもしれない、と思った。そんなことは分っていたはずなのに、そしてそれでも七緒の傍にいようと決めたはずなのに、その自分の気持ちは我侭でしかないのかもしれないと思っていた。
 その哲史の悩みなんて見抜いているのか、雪絵はカウンター越しに笑っていた。
「会ってらっしゃい。相手がいることなんだから、一人で悩んでもしょうがないのよ。あなたがあなたであるように、その人もその人でしかない。あなたは彼ではないんだから、彼の本当の望みなんて分らないでしょう?」
 たとえば、他人から見たら不幸に見えるようでも、本人は幸せかもしれない。それを、その人が望んでいるなら。幸せなんて、そんなものだと雪絵は思う。
 愛人だって、どんな立場だって良かったのだ、本当は。愛してくれさえしたら、雪絵はきっとそれで幸せだった。
「雪絵さん……」
「後悔はね、必ずするものなのよ。それをそう思うか、思わないかってだけで」
 そうゆっくりと微笑んだ雪絵は、とても優しく、美しいと哲史は思った。





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