ユーフォリア――euphoria――
04
哲史は明かりを、温かいと思ったことがない。家に明かりが点いていると、誰かが自分を待ってくれているようで温かい、などと言うが、そんな気持ちを味わったことは一度もなかった。
一人でいられるなら、それが一番良かった。母か、父か、どちらかがいると思っただけでも、家のドアがひどく重く感じられた。
何度、この家から逃げ出そうと思ったか知れない。でも、それが出来ないほど自分が臆病で、何も出来ない子供だとわかっていた。
――子供。
親子、と言う関係も、哲史にはどんなものなのかわからなかった。物語やドラマで見るのとは違う、家族というもの。いまのこの形態を、家族と呼んでいいのかさえ、わからなかった。
父にはもう一つ、家族があるはずだった。母はその影にいつも怯えながら、虚勢を張っている。そして、自分は家族と言う形態に必要な駒として、そこにいるに過ぎなかった。
父にとっても母にとっても、「優秀な子供」がいてくれればそれでいいのだ。だから哲史は、その役目を必死に果たそうとしていた。大人しく、優秀で、聞き分けのいい子供。その役目を、哲史はただひたすらにこなしていたのだ。家でも、学校でも、他人の前では。だから、一人でいられる、他人の目のない閉ざされた誰もいない部屋は、哲史がその役目を少しだけ休めるところだった。
哲史はそれを、不幸だとは思っていない。役目があるだけ、良かったと思っている。それがなかったら、自分がいる意味がないのだから。
明かりのついた家の前で、哲史はふと立ち止まって、その家を見上げた。明かりのついた家を、温かいと思ったことは一度もない。怖いと思ったことはあったとしても。
「ただいま」
玄関を上がったら、きちんと靴を揃えなおす。居間に行って、父がいれば挨拶をする。いなければ、母のいる台所に行って、挨拶をする。
「ただいま」
母は「おかえり、勉強はどう?」と挨拶を返す。それに、順調、と答える。日課だ。それをこなすことで、哲史は役目をこなせていることを確認する。
「遅かったのね、哲史。どうしたの?」
「……本屋に行ってたんだ。どうしても必要になった参考書があって」
「そう。本を買うお金が足りなかったら言ってね」
本当は、薬物取り締まりに引っかかって、警察に保護されて、刑事に送り帰されたところだと知ったら、この人はどうするだろう、そう思いながら、哲史は「うん」と答えて自室に行く。
間違ってはいけない。
役目を、間違ってはいけないのだ。
人目を惹き付ける少年だ、と七緒は思う。ぼんやりとした家の明かりに照らされた横顔は、どこか人間ではないような、彫像のような印象を抱かせた。感情の見えない所為か、表情のない所為か。
ふと家を見上げたその少年の顔を、七緒は思わず見つめていた。似てなどいないのに、その顔が弟の藤吾と重なる。
過去は過去、などと割り切れるわけがないのだ。どうして死んだのか、理由を問い詰めたい相手はもういない。残されたどんなものからも、自分が納得できるような死の理由など、見つかりはしなかった。
知らせを聞いたとき、真っ先に思ったのは、「何かの間違いだ」ということだった。会いに行くことも少なくなって、電話さえときどきしかしなかったというのに、自分は弟のことをわかっていると思っていた。だから、何かの間違いだ、などと思った。
わかっていたわけではない。知らなかったのだ。
そう気付いて、愕然とした。自分の都合で藤吾をいい子にして、勝手に安心していただけだったのだ。
残されたもの、といっても、ほとんど何もなかったと言ってよかった。学校に行くための道具や本、ノートと最低限生活に必要なもの、それぐらいしか遺品はなく、漫画や本、ゲームといったものから、七緒が初給料で買ってやったパソコンもなかった。それは自殺をしたほかの子供たちも同じだったようで、死に支度だ、と誰かが言った。確かに、片付けられた殺風景な部屋は、死に支度に相応しかった。
死んで、消えてしまうこと。
それだけを望んで生きていたのだと思うと、やりきれなかった。もどかしいのは、と七緒は思う。もどかしいのは、自分がそんな弟に気付かなかったことと、それ以上に、例え気付いたとしても、自分はその弟に、生きていくことがどれだけ素晴らしいか、語る言葉をもっていないということだった。それは、今でも変わらない。目の前に弟が現れたとしても、七緒は何を言ったらいいのか、わからなかった。
わからないことだらけなのに、割り切れるはずがない。
ふと、深海哲史ならわかるだろうか、と七緒は思った。
『俺がおかしくなっても別にいいんだよ』
そう言った、哲史になら。
それからしばらくは大きな事件が重なったこともあって、七緒は哲史のことは忘れていた。ときどき、藤吾のことを思い出すときに、その横顔が重なることはあったが、それだけだった。
仕事が忙しい、というのは、七緒にとって助かるようで心苦しい思いもあった。忙しければ弟のことも忘れられるが、そうやって弟を省みなかったのだと、自己嫌悪のように思うときもある。それを、後輩の来生は「忙しいのは仕方ないでしょ、刑事なんだから。俺なんか彼女もできないっす」とこともなげに言うが、そんな風に言えたらずいぶん楽なのだろうと、七緒は笑った。
哲史と再び会ったのは、あの日から二ヶ月は経っていた。だから、すぐには哲史とわからなかったのかもしれない。でもそれ以上に、哲史はその姿を変えていた。日の光はだいぶ弱くなってきたものの、まだ残暑の厳しい夏の終わりだった。
ようやく一つ事件が解決して、来生と朝井をはじめとする同僚と一杯引っ掛けた後、七緒はまだ飲みにいくという彼らと別れて、帰ろうとしていた。明日もまた、新たな事件が待っているのはわかっていたし、少しゆっくりしたかった。それなのに、低くうめく争うような声に反応してしまう刑事の性に、七緒はため息をつきつつ、その声に近づいた。
「離……せっ」
「まだ何もしてないのに、金を取ったのはおまえだろ?」
「知るかっ」
「……つっ。このくそガキっ。なんならここでやってやっても……」
「何をやるって?楽しそうだなあ。俺もまぜてもらおうかな」
男の腕をひねり上げながら七緒がそう笑うと、男が悲鳴をあげた。
「なんだ貴様っ」
「……ただのサラリーマン……って言えたらいいよな。いや、サラリーマンには違いないか」
「七、緒?」
「え?あっ、待てっ」
思いもしなかった自分の名を呼ばれて、七緒は顔を上げた。そのときには、その名を呼んだ少年は、背中を向けて走りだしていた。
「おいっ」
人の波を押しのけるように走る影は、いやに細かった。もともと背は高いのに小さい印象はあったが、今は病的に細いと七緒は思った。それにしても、逃げ足が速い。
「待てって」
持った腕は、どきりとするほど細かった。思わず、折ってしまうのではないかと手を緩めてしまうほどに。
「逃げるなって。せっかくまた会えたのに」
「――嬉しくないね」
そう吐き出した少年が、哲史だった。
夜の闇と、けばけばしいネオンのせいだけではなく、哲史はやつれていた。青白い顔に、くぼんだような目が沈んでいる。
「ひどい顔だな」
「大きなお世話だよ。手、離してくれない」
哲史は決して七緒のほうを見ようとはしなかった。七緒はそれにため息をつきつつ、道の端に行くように促した。逃げたというのに、どこかほっとしている自分に、哲史は少し混乱していた。七緒が悪いのだ、と哲史は思う。最初に自分を甘やかした、七緒が悪い。
「離したら逃げるんだろ?」
「……刑事なんて、逃げられるのが商売なんじゃないの」
口では憎まれ口をたたきながら、哲史は大人しく引かれるままになり、ガードレールの上に座った。七緒はそこに寄りかかって、ようやく手を離して、煙草をくわえた。二人の目の前を、まるで魚のように人々が歩いていく。
ああだから、魚ではない自分は、苦しくてうまく息ができないのだと、哲史は知る。
「違うね、逃げられるのを捕まえるのが、刑事の商売だよ」
七緒がそういうと、哲史が顔を上げた。少しだけ、怯えたような目をしている。
「でもなあ。今日は俺、久しぶりの非番なんだよなあ」
取り締まりに非番も何もないのだが、明らかに哲史がほっとしたのが見えて、七緒は苦笑した。ほんとうに、病的なまでに頼りない線だ。その様子は、七緒のいやな予感を助長する。たぶん、先ほどの男相手に売りをして、金だけとって逃げようとしたのだろう。それほどまでに金に執着する理由が、七緒には十分想像できた。
「やめろって言ったのに、聞かなかったな」
七緒のつぶやきを、哲史は聞こえない振りをした。七緒も人のことを言えないほど、疲れた顔をしている、とぼんやり思う。相変わらずくたびれたスーツに、煙草がいやに似合う。
「非番なのに、こんなところうろつくんだ」
何も言わなくなった七緒に、今度は哲史がつぶやいた。ざわめきが遠く、なんだか静かだ、と哲史は思う。前に車に乗って送ってもらったときにも思ったが、この静けさは、どこか心地よい。
「一つ事件が解決して、飲んでたんだよ」
「一人で?」
「なわけないだろ。仕事仲間みんなで」
「ふーん……」
帰るところだったのになあ、と七緒がため息をつく。それで、哲史が何気なく、じゃあ俺を抱かない?と誘った。ただなんとなく、もう少し一緒にいられたら、と思ったのだ。
「……誰に向かって言ってんだ」
あまりのことに、今度は盛大なため息を吐きながら七緒が言う。
「お金はいいよ」
「そういう問題じゃないだろ。犯罪なの、犯罪」
「だって、非番なんだろ?」
それでもだめなものはだめで、大体、七緒は男を抱いて喜ぶ趣味はない。
少しずつ、何かがずれてきている、と七緒は思った。哲史の中で何か、おかしくなって来ている。
「大体さ、もう少し自分の身体を大事にしろよ」
「……なんで?」
ああまただ、と七緒は思う。自分が――自分でさえ――納得できる答えを、与えることができない問い。
大事にしてほしい。
生きていてほしい。
自分の都合でしか、答えることができない。
「薬に支配されるなんて、冗談じゃないって言ってただろ」
答えられずに、七緒は話題を変えた。
「されてないよ」
そのやつれた顔と身体では、何の説得力もないのに、哲史はきっぱりと言い切った。
やめようと思えばやめられる、と哲史は本気で思っていた。でも今は、勉強のためにも、このまま自分の役割をうまくこなすためにも、薬は必要なものだった。でも、それだけだ。大学にさえ合格したら――哲史は、そう思っていた。
「こんなになって……。もったいない」
言いながら、七緒は哲史の前に立って、その髪をなで上げた。その七緒の表情が、どこか切なげで哀しそうで、哲史は顔をそらす。
「もったいない?」
「そうだよ。男に言うのも変だけどな、綺麗な顔をしてるだろ、おまえ」
「抱かないのに、そういうこと言うんだ」
哲史が顔を上げると、少しだけ照れたような七緒の顔があった。それに哲史は、思わず笑い声を上げた。
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