gravity
04
カウンター越しに見える図書館の庭は、秋が最も美しい。大きな欅も、遠くに見える紅葉も、はっとするほどの色をつける。読書の秋と呼ばれる季節に合わせて、庭の木々は植わっている。
だが、すっかり葉が落ちた冬の閑散とした様もまた、陽は好きだった。木枯らしの吹くような冬の曇り空の日は特に、ここに閉じ篭っていて良いのだと安心する。暖かな館内。静かな時。開けられることのない扉。窓から白い空が見える日、ここは自分の城だと、陽は幻想を抱く。
この図書館と自分の部屋の中と、陽が「城」と認識しているのはその二ヶ所だ。以前はアパートの部屋だけだった。一人暮らしをする前は、実家の小さな部屋だった。
城などと呼んでいるがもちろん、アパートは借り物だとわかっているし、図書館は仕事場だと思っている。ただ、楽に呼吸のできる場所として、この二つをひっそりと、城と呼ぶのだった。他人に言ったことはない。だから、深住が「城」と言ったとき、驚いた。どうやら「いつもより喋った」という内容の中の一つだったらしい。
ずいぶんと気を許しているようだ。陽は酔った自分を他人事のように思った。「少し素直になった感じだった」と深住は言ったが、記憶がないからわからない。一体何を言ったのか、ひやひやしている。
――だが、変なところで意地を張る。
深住は蕎麦猪口を持ち上げながらそう言った。「変なところ?」と訊いた陽の言葉には、微笑が返って来ただけだった。
カウンターで利用者への年賀状書きをしていると、ひやりと風が足元を流れた。誰か来たのだと顔を上げると、木室が手を挙げながら入ってきた。
「うー、寒いな。風が強くて堪らない」
カーキのショート丈のトレンチコートを着た木室は、シェフというより、小説などに出てくる探偵のような怪しい風体で、陽は一瞬誰だかわからなかった。
「木室さん?! どうしたんですか」
「ん? 深住が面白い図書館があるって言うから、来ただけだよ。俺は建物じゃなくて、ちゃんと本に興味があるんだけど」
でも、確かにレストランにしたら面白いだろうな、と木室はあちこちを見渡した。すげえ高級料亭でも出来そうだ、と感心している。
「あの……」
「ああ、ごめん、ごめん。ここって勝手に本は見られるの?」
「はい」
ただし、慣れるまでは目的の本を探し出すのは大変だ。閲覧室に案内しながらそう言うと、木室は「とりあえず最初は適当に見るよ」と手をひらひらと振った。
それから木室は三時間ほど、閲覧室に篭っていた。六時になって閉館を知らせに行くと、机の上にはいくつもの本が置いてあった。陽は棚に戻すのを手伝ったが、中にはイタリア語やフランス語の本もあった。
「借りるには会員にならないと駄目なんだよな?」
「はい」
年会費やらサービスの説明をすると、木室は即決で会員になることに決めたようだった。既にいくつかの本を手にしている。
職業欄の「調理師」という書き込みに、その職の人は初めてかもしれないと言うと、木室が顔をあげた。
「まあ、俺は元々歴史好きだから、これだけ色々珍しい本があると面白いんだけど。でも、中世辺りの料理の研究してる奴もいそうなんだけどなあ。食材の歴史とかさ。俺もその辺りを探したんだけど」
言われてみれば、木室が選んだ本は「中世の生活史」とか「修道院の一日」と言った感じのものだった。
「あの、コーヒーでもどうですか」
書きあがった紙を受け取って、陽はプラスチックカップのコーヒーを差し出した。
「わ、ありがたい。すごいな。喫茶店もしてるのか?」
「はは。いいえ」
陽がロビーのソファーを勧めると、木室は曖昧に頷いて、カウンターに身体を預けた。
「牧谷さんに訊いてみたかったんだけど」
「はい?」
「深住に無理言われたりしてない? 頻繁に食事に行ってるみたいだけど、無理やり付き合わされたりとか……」
思ってもみないことを言われて、陽は驚いて顔を上げた。ふわりと、入力途中の木室の入会申込書が落ちる。
「あいつ、外面はいいからやんわり事を進めているように見えるけど、結構強引だろ? 牧谷さんが嫌じゃないなら別にいいんだけど、断れなくて困ってたりしないかな、と思って。お節介だけどさ」
陽は申込書を拾い上げながら「いいえ」と小さな声で答えた。
「あの、ご迷惑なのは俺じゃないかと思ってるんですけど……」
なんとなく良い機会だと、陽は日頃気になっていたことを訊いてみた。
「ああ、それはない。あいつが嫌なのにわざわざ食事に誘うなんてない。仕事ならなんとかこなすみたいだけど、プライベートで誘うなら、そうしたいからだよ。定期視察は仕事だけどさ、それだって別に一人だっていいことだし」
はっきりとそう言われると、陽もほっとする。
「牧谷さんには、本当に迷惑じゃない?」
いいえ、ともう一度首を振ると、木室も納得したのか「そっか」と頷いてコーヒーを飲んだ。
「あの、お二人で、良くそう言う話をするんですか?」
「ん? ああ、良くって言うわけじゃないけど、今はまだ深住も頻繁にウチの店に来るからさ。他の店の話をしたりするときに少しね」
深住が何と言っているのか気になったが、陽はそれを訊く勇気がなくて、ぱちぱちとパソコンのキーボードを叩きつづけた。
バーコードの入ったカードを渡すと、木室はコーヒーの礼を言って出口に向かった。扉を開けようと手を取っ手に掛けた所で、くるりと振り返る。
「あのさ、もし本当に嫌なんじゃなかったら、たまには牧谷さんからも誘ってみてよ。あいつに奢らせていいから」
「え?」
「誘うの、いつも深住なんだろう?」
陽は「ああ」と木室の言っている意味を遅れて理解して、頷いた。
「俺が誘ってもいいんでしょうか」
「何で?」
「深住さん、忙しそうだし……」
「だから誘わない?」
「それもあるんですけど、あの、電話していいのか迷っているうちに、深住さんから掛けてくれるから……」
ああ、と今度は木室が頷いて笑った。
「そうだよな。一週間に何度も電話があったら牧谷さんから掛けることないもんな」
そんなに「何度も」と言うほどではないが、迷っていると掛かってくるのは本当だ。陽は深住のように、さらりと約束を持ち出せない。深住に電話を掛けると考えるだけで、心臓が騒いでしまう。
「あいつも引くって事知らないからな……」
木室が呟きながら、首を振った。それから「じゃあまたな。うちにも食べに来いよ」と手を挙げて出て行った。
陽は小さく息を吐いて、帰る支度を始めた。戸締りを確認して、電気を消す。暗く静まり返った図書館は、途端によそよそしくなる。ここが陽の城となるのは、昼間だけなのだ。
ここからもう一つの城に帰るのだから、淋しいと思ったことはない。でも、その城には、誰もいない。陽だけの、城だった。
駅に向かっている途中で携帯電話が鳴って、陽は深住と飲みに行くことになった。突然の誘いは珍しい。確かに深住は強引なところがあるが、それほど無理を言うわけではない。誘うときは、大概その日の昼辺りまでに電話かメールをしてくることが多かった。
――寒くなったから、おでんが食べたくなってな。だが、一人で食べたくないんだ。
深住はそう言った。陽は頬が緩むのを感じながら、はい、と頷いた。
深住が指定した待ち合わせ場所は、帰り道にある駅だった。自分のほうが遅れるかもしれないから、近くの本屋にいろと言う。
木室は深住を強引だとか無理やりじゃないのか、と言っていたが、たとえ強引気味に話を進めても、深住はきちんと気遣ってくれる。それがときどき、憎らしい。つい喜んでしまう自分を叱りたくなる。
それほど深住は遅れては来なかった。本屋で落ち合った二人は、駅近くの狭くて古いおでん屋に入った。深住は本当に色々な店を知っている。
「木室さんが来たんです」
日本酒とだいこんとこんにゃく、がんもを頼んだところでそう言うと、深住が不機嫌になった。
「何しに?」
「本を見に。会員にまでなってくれました」
紹介してくれたのは深住ではないのか。陽がそう言うと、深住は「紹介したわけじゃない」とコップ酒を煽った。それからがぶりとすじを豪快に食べる。
陽はちびちびと酒を飲みながら、がんもを食べ、からしをつけただいこんを食べ、こんにゃくを噛んだ。それからはんぺんと玉子を頼んだ。深住も黙々と酒を飲んではつみれやだいこん、しらたきを頼んでいる。深住が二度目のつみれを頼んだから、陽も食べたくなって同じ物を頼んだ。
食事をするとき、いつも話が盛り上がるわけではない。なんとなく沈黙が続くときもあったが、こんな風に居心地の悪い思いを抱いたことはなかった。陽はどうしたらいいのかわからず、隣の深住を気にしながら、ただ黙々と食べた。
「今日はあんまり飲まないんだな」
ふいに言われて隣を見ると、深住は陽のコップを見ていた。それからちらりと目線を上げて、陽と目が合うと、にやりと笑った。
わかっているのだ。この間、陽が酔って記憶をなくしたことを気にしてセーブしているのを。
なんだか悔しい。そんなことを思いながら玉子を割ろうとしたら、箸がつるりと滑った。玉子まで陽をからかうらしい。陽が少しむっとしたところで、深住がすっと手を伸ばしてきて、綺麗に半分に割ってくれる。
「もう、醜態は晒せないですから」
顔が熱い。陽は半分になった玉子をぱくりと食べた。
「別に醜態じゃなかったけど」
だが、覚えていないことが多すぎる。それを醜態と言わずしてなんと言おう。
深住は楽しそうに笑っている。陽は悔しくなって、残りの酒を煽って、もう一杯、と頼んだ。すぐに出てきた酒を受け取ったとき、目の前の鍋から出る湯気に、眼鏡が曇った。それも気にせず、陽はごくりと酒を飲む。
そもそもあの日、どうしてあれほどの深酒をしたのか、それを考えると悔しくて堪らない。
「陽、眼鏡が曇ってる」
深住の手が伸びてきて、眼鏡のフレームを摘んで器用に外す。大きくて、ごつごつした深住の手。
「これじゃあ見えないだろ? 陽、視力は? 眼鏡かけないと全然見えないのか?」
深住はカウンターに眼鏡を置くと、急にずいっと陽の顔を覗き込んだ。
息が止まる。もの凄く間近に深住の顔がある。「見えてないのか?」とその少し野性的な整った顔が、にやりと笑った。
「み、見えてます!」
陽は思わずがたんっ、と音を立てて立ち上がった。顔がもの凄く熱い。眼鏡を掛けていたら、熱で曇ったのではないかと思うほど、熱い。
深住はくすくすと笑いながら、眼鏡を持ち上げて、スーツの袖でレンズを拭いた。ほら、とそれを差し出されて、陽はため息を吐いて席に坐りながらそれを受け取った。
この人は知っている。
陽は眼鏡を掛け直すと、自棄気味に酒を煽った。
深住は気付いているに違いない。陽の気持ちを、きっと。
深住が陽の気持ちに気付いているのだとしたら、問題は、それを深住がどう思っているのか、ということだった。それでも誘ってくるのだったら、少なくとも嫌われていないのかもとは思う。
でも、からかって楽しんでいるだけかもしれない。
陽はチェーン店のコーヒー屋で甘いカプチーノを飲みながら、最近の深住の行動を思い出していた。家にいても色々考えてしまうから街中に買い物に来たのだが、結局は深住のことを考えている。
髪に落ち葉がついている、と頭を撫でてみたり、ふいに支えるように背中に手を置かれたり、その度に耳の先が熱くなって顔を赤くする陽を、深住はいつも楽しそうに見る。まるで子供が巣に土を盛って、混乱する蟻たちを楽しむような、顔をして。その無邪気な少年のような表情にさえ心臓を騒がせている自分が、陽は情けない。
スプーンで浮かぶ泡をすくって口に運ぶと、ほろ苦いココアの味がした。カウンター席のここからは、忙しく過ぎていく人々が眼下に見える。マフラーに顔を埋めて足早に去って行く人たちは、ブラウン管の中にいるようだった。自分がその中に入って歩くことが、陽には想像できなくなる。ガラス越しで視線の高さが違うことが、外を遠い世界に見せていた。
――その眼鏡に阻まれてる感じだ。
一度、深住がそう言ったことがある。え、と顔を上げると、眼鏡のフレームの上を、すっと指が滑っていった。なんだか陽と直に接してない感じ。近くにいても、埋まらない距離がある。深住はそう、肩を竦めていた。
埋まらない距離があるのは当たり前だ、と陽はそのとき思った。深住は陽ではないし、またその逆でもない。まして全く違う性質の二人なのだから、そこに隔たりがあるのは当然だと。それは仕方がないことだ。
銀色の小さなスプーンで、くるくるとカップの中身を掻き混ぜる。隔たりがあるのは仕方がないが、それでも出来るだけ近くにいられないだろうか。
陽はズボンのポケットから、携帯電話を取り出した。ここ数日、十二月が近づいて忙しいのか、深住から連絡がない。一週間に一度は一緒に食事をしないまでも、メールや電話があったのに、先週は一度もなかった。思い出してみると、この間おでん屋に行って以来だった。あのときあまりに露骨な反応をしてしまったから、深住もいい加減距離を置こうと思ったのかもしれない。
そう考えると、一瞬自分から連絡してみようか、と思った気持ちは消えてしまった。木室に言われたにもかかわらず、陽は未だに自分から深住を誘ったことがない。それもあまりのことだと、誘いたいとは思うが……勇気がでないままだった。
ぱかり、とラップトップを開けては閉める。今では深住の番号は、アドレスの一番上にある。一度も、掛けたことがないというのに。
陽はしばらくそんなことを繰り返していた。アドレス帳を表示させて、深住の番号を指定するまでは出来るのに、通話ボタンを押すことが出来ない。自分のあまりの臆病さに、陽は小さくため息を吐いてカプチーノを飲んだ。
カップを置いたところで、歩道の人の流れに見知った顔を見つけた。深住だ。
いつもと同じ上等そうなコートに身を包んだ深住の傍らには、同じく高級そうな毛皮のコートを着た女がいた。深住の腕に自分の腕を絡めて、軽く引っ張っている。何かねだるように深住を見上げて笑った顔は、鞠絵だった。
一度結婚しているだけはある。二人が並ぶのはとても自然で、それこそブラウン管の中のカップルのようだった。
深住が苦笑しながら、鞠絵の頭を軽く叩いた。それに対して、鞠絵が怒ったような顔をする。深住は肩を竦めて相手にせず、大きな手を背中に回して、歩くようにと鞠絵を促した。そのまま、陽の視界から消えていく。
陽はカップを両手に持って、手を温めた。
ガラスの向こうの世界はやはり、自分には遠い。陽はぱたんっと携帯を閉じて、ポケットに戻した。