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半夏生

04
 翌朝の目覚めは、最悪だった。気持ち悪いという感覚だけが残った夢を見て、鴇田は重い頭を抱えて出勤した。これなら、会社で寝た方が余程いい。
 久しぶりの夢だった。内容は覚えていないが、昔良く見た夢のどちらかだとわかっていた。
 血溜まりの上を、必死に走るが、滑って少しも前に進まない夢か。
 誰ともわからない人間の首を絞めている夢か。
 どちらも、ロクなものではない。
 鴇田は通勤途中のコンビニで栄養ドリンクを買った。そこの店員は、いつもぼそりと喋る。それが、コンビニというものに似合っていると、鴇田はいつも思っていた。
 朝礼が終わった途端、電話が鳴った。買っただけで飲み忘れていた栄養ドリンクを飲もうとしていた鴇田は、田上に「佐々木鋼鉄さんからです」と言われて、蓋を開けただけでその壜を机の上に置いた。
「はい、お電話代わりました。鴇田ですが。ああ、お久しぶりです」
 佐々木鋼鉄は、もともと鴇田の担当だった。まだ小さくて、社長が営業をしていたときから知っている。電話の相手は、佐々木社長だった。
 社長はしばらく、久しぶりだとか、活躍の噂は聞いてますよとか、決まりきった挨拶を並べた。鴇田はそれに付き合いながら、市河を目で探した。だが、彼はフロアのどこにもいなかった。
「それで、どうしたんですか。納期のことは市河が話をしたと思いますが」
「ああ、まあ、それはなんとかする。なんとかするからさ、鴇田君」
 久しぶりに「鴇田君」などと呼ばれた。
「次はなしなんて言わないでくれよ。絶対、なんとかするから」
 あの馬鹿、と思わず悪態を吐きそうになって、鴇田は受話器には吹き込まないように、ため息を吐いた。くるりと椅子を回した先に見えたホワイトボードに、市河は欠勤だと記してあった。
「市河が、それを?」
「いやまあ」と社長は言葉を濁したが、それ以外にそんな話をする人間が居るはずがなかった。それも、昨日の今日で。
「その件については、後で市河をそちらにやらせますから」
「いや、ウチのを向かわせるから。どうかお手柔らかにお願いするよ。長い付き合いじゃないか」
「とにかく後日と言うことで。生憎今日は、市河が休暇を取っていましてね。申し訳ないのですが」
 返事まで、少し間があった。懸念事項は、なるべく早くに拭い去ってしまいたいのだろう。
「わかった。でもさ、頼んだから、鴇田君」
 鴇田はそれには答えずに、それではまた、失礼します、と電話を切った。本当は受話器を叩きつけたいところを我慢して、そっと置く。
 無意識に胸ポケットの煙草を触って、鴇田はため息を吐きながら立ち上がった。顔を上げると、田上が心配そうな顔でこちらを見ていた。それに、大丈夫だと軽く肩を竦めて見せて「煙草を吸ってくる」と言うと、田上は軽く頷いて口を開いた。
「課長、栄養ドリンク、忘れてますよ」


 喫煙コーナーは、廊下の隅にある。開発と購買と言う、どちらかと言うと男所帯の部署があるこの階は喫煙所になっていて、一階下の総務部がある階は禁煙になっている。年々、喫煙者の肩身が狭くなっていくのは、会社も世間も変わらない。
 鴇田は壁際のベンチに腰掛けると、その壁に背を預けて、天井を見上げながら煙草の煙を吐き出した。それから、栄養ドリンクを一口煽った。ひどくまずい。
 昨日から、口の中がざらざらしているような感じだった。鴇田は再び煙を長く吐き出すと、窓の外を眺めた。青い空に雲が一つ、ゆっくりと流れている。
 あのときも、ひどく晴れていた。空には雲ひとつなく、蒸し暑い日だった。梅雨の間の晴れ間で、雨の名残の湿気が、身体中に纏わりつくような日だった。
「頼むよ鴇田君。考え直してくれ。うちがそちらの仕様に合わせて新しい機械を入れたのは知ってるだろう」
 体格のいいその男は、大きな身体を折り曲げて、土下座でもしそうな勢いで鴇田の腕を掴んだ。だが、鴇田は頷けなかった。掴まれた腕が、ひどく熱かった。
「うちだけじゃないでしょう?」
「いや、鴇田君のところが仕様を変えるから入れたんだ。長い、付き合いだろう?そっちが新仕様にするなら、うちもと思った」
 男の額には汗が浮かんでいて、じっと見ていると、流れ落ちていった。町工場のような小さな工場の、プレハブの営業所の中では、扇風機が回っていた。鴇田は、ゆるく頭を振った。
「うちだけのためなら、考えた方がいいって、言いませんでしたか」
 男は唇を噛み締めて、何も答えなかった。隣の工場から、一定間隔の大きな音がする。
「考えたって、あれがなかったらもっと早くにウチは切られたんだろう?」
 男が顔を上げて、じっと鴇田を見た。その瞳に、非難の色はなかった。ただ、事実の確認をしているだけとでも言うような、目だった。
「君の提示する金額でやり取りを続けたら、どちらにしろ、ウチはもたない」
 いつの間にか、腕は解放されていた。スーツに、くっきりと皺が寄っていた。
「うちにも、君と渡り合える営業が欲しかった」
 ぽつりと呟かれた言葉に、鴇田は何も言わなかった。小さな工場をもつ男は、製造と営業と社長業の、全てを兼任していた。工場には数人の工員がいたが、現場を離れたくないと、男はよく言っていた。
「実際、鴇田君には色々教わったよ」
「いえ、そんな……こちらこそ、勉強になりました」
 それが終わりの言葉だと、鴇田は意識していなかった。男は弱々しく笑って、図面見るのだけは好きだからな、と言った。
 ありがとう、と言われて、鴇田も「ありがとうございました」と答えようとした。だが、言葉は出てこなかった。切り捨てることを決めたのは鴇田だ。上司にも承認を貰っている。これは、ビジネスだ。
 だが、完全に引導を渡すようなその言葉を、鴇田は結局、口に出来なかった。そしてその後も、その男に感謝の意を伝えることは出来なかった。
 もう二度と、伝えることは出来なくなってしまった。


 あれから、十五年が経つ。あの後すぐに、鴇田は本社に呼び戻された。全く遅咲きだと、寺井には言われた。同期の本社採用で、地方から戻ったのは、鴇田が最後だった。
 煙草を消して、栄養ドリンクをちびちびと飲んでいると、設計室のドアが開いて夏目が出てきた。鴇田に気付いて、会釈する。それから、鴇田が手にしているものを見て、微かに笑った。
「おまえもそのうち、こう言うものにお世話になるさ」
 鴇田は眉根を寄せてそれを一気に飲むと、ぺろりと舌を出した。どれだけ高価なものを飲んでも、この種の飲み物はまずいと鴇田は思う。鴇田は立ち上がって、「ビン」と書かれたゴミ箱にその小さな瓶を捨てた。それから、二本目の煙草を咥えた。だが、ライターが見つからない。先刻、使ったばかりだと言うのに。
「俺も徹夜をしたときとか飲みますよ」
 夏目がこちらに向かって歩きながら、ごそりと上着のポケットを探って、ライターを取り出した。しゅっと音がして、炎が立つ。
「悪いな」煙草を噛んだままで言って、鴇田は顔をライターに近付けた。
 綺麗な手だった。ごつごつと長い指は男のものだが、肌が滑らかだった。造作のいい人間は、そう言うところにまで恩恵を受けるのだろうか。
「寺井課長も朝から辛そうで、栄養ドリンク飲んでいたんです」
 夏目はライターを仕舞った。自分は吸うつもりはないらしい。確かに、朝からサボっていては仕事がはかどらない。
「あいつのは二日酔いだろ」
「……鴇田課長は違うんですか?」
 夢見が悪くて寝不足――そう言うのは何故か憚られて、鴇田は「年だろ」と言った。間違ってはいない。
「そう言えば、課長はかなりお強いと聞きました」
「誰だそんなこと言うのは。寺井が弱いだけだろ」
「寺井課長じゃありませんよ」
 夏目の声はいつも感情が見えない。鴇田は煙草を吹かして、再びベンチに坐った。甘えていると思う。あの電話くらいで、朝からここでサボっていいはずがない。だが、今はこのすわり心地の悪いベンチから離れがたかった。
「ああ、石村か。そう言えばあいつ、随分世話になってるみたいだな」
 夏目はすっと姿勢良く立って、鴇田を見ていた。
「勉強熱心な方です。それに、石村さんは先輩ですが、年は同じなので」
 鴇田は頷いた。基本構造ぐらいは、と言った鴇田の言葉を、石村はきちんと理解したらしい。あいつなら、きっと良いバイヤーになるだろう、と鴇田は思った。
「私の方も、随分勉強させてもらっています」
 設計がバイヤーに教わることなど何もない。だが、夏目の声に嘘があるとは思えなかった。
「まあ、色々面倒だったり邪魔だったりするだろうが、頼んだよ」
 自分が寺井と太いパイプがあるように、石村にも、誰か設計開発と独自のパイプを持って欲しかった。
 夏目はすっと頭を下げて、エレベータに向かっていった。鴇田は天井に向けて、長く煙を吐き出した。いい加減、仕事をするべきだ。


 仕事が終わったときには、時計の針は十時を回っていた。月末の価格決定はバイヤーの重要な仕事だが、鴇田はそこで妥協しない。高いものは高いと、跳ね返す。支払い処理が滞ろうが、未払いになろうが、関係はない。どさくさに紛れて、など、鴇田には通用しない。鴇田は課長になってから、その姿勢を崩したことはなかった。
 今から「サハラ」に行ったら、家に帰るのが億劫になるかもしれない。多少暗くなったオフィス街を歩きながら、そんな思いが頭を掠めたが、足は迷いなく、小さな、だが重厚な木のドアに向かっていた。サハラまでは、会社から歩いて十分で着く。
「お久しぶりね」
 するりと、かなり控え目にスツールに腰掛けた途端に降って来た言葉に、鴇田は苦笑した。一日来なかっただけでこの言われようでは、今までどれだけ頻繁に通っていたか、わかると言うものだ。
「営業妨害を訴えるなら、寺井に言ってくれ」
 席に坐ると、何も言わないうちから水割りが出てくる。ちらりと目線で礼を言うと、寡黙なバーテンダーの口元が緩んだ気がした。
「まあ、寺井さん?そう言えば、ここのところいらして下さってないわ」
 サハラのママ、百合絵が艶やかに微笑む。鴇田にここを紹介してくれたのは、寺井だ。
「小遣いがきつくなったって言っていた。幸せな証拠だろ」
「あら、鴇田さんからそんな言葉を聞くとは思ってなかったわ」
 同じ水割りを作って、百合絵はそれをこくりと飲んだ。淡く白い喉が、暗い店の明かりにさらされる。
「羨ましいの?」
「そんなことはない。そんなつもりで言ったんじゃないんだ」
 ただ、子供のために働く寺井は、一般的に幸せと言うのではないのか、と思っただけだった。ときどき一般論を述べないと、会社という組織の中で上手くやっていけない気がしてしまう。
「いやね。別に責めたわけじゃないんだけど。そうじゃなくて……羨ましがってくれたらいいのにって思ったのよ」
 百合絵がまた、水割りを飲んだ。鴇田も何も言わずに、水割りを飲んだ。ここで答えるなどと言う、愚かなことはしない。
 百合絵が鴇田に少なからず好意を寄せていることは、うすうす感づいていた。だが、鴇田にその気はなかった。全く、なかった。
 百合絵は美しい女だ。客の中には、百合絵を目当てに通っている男もいる。だが、鴇田はこの店の雰囲気が好きで通っていた。それ以上でも、それ以下でもなかった。
「それで、どうしてその寺井さんに営業妨害を訴えるの?」
 百合絵は一瞬、寂しそうな表情で微笑んだ。鴇田はそれを見なかった振りをして「真っ直ぐ帰れって、うるさいんだよ」といった。
「飯をきちんと食べてない。格好がだらしない。口煩さはおふくろ以上だ」
「そう。心配なのね、寺井さん」
 鴇田はここで閉店の二時まで飲み、その後は近くのカプセルホテルに泊まったり、サウナに行くことが多い。終電は出てしまっているし、毎日のようにタクシーを使うほど裕福じゃない。時にはマージャンをして、朝日を拝むこともある。
 一人の部屋に帰るのが嫌などと、センチメンタルなことを言うつもりはない。ただ、面倒なだけだ。だが、寺井はそれを信じてはいない。ことあるごとに「いい加減一人でいるのをやめたらどうか」と言うのがその証拠だ。
「心配される年じゃないけどな」
「年なんて関係ないわよ。それを言うなら、その年で心配してくれる人がいることを感謝なさい」
 鴇田の両親は、随分前に亡くなっている。それを思えば、確かに寺井は貴重な友人の一人なのかもしれなかった。
「感謝はしてる」
 たぶん、ずいぶん前から、鴇田は寺井という友人がいることに、感謝をしていた。


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