春の夜を疾走し 04
春の夜を疾走し
04
寝心地の悪さにもぞりと身体を動かしたところで、ぼんやりと意識がのぼってきた。ああまた眠ってしまったのだ、と思い出す。
小さくため息を吐いて目を開ける。まるで蓑虫みたいに布団に包まったまま、高居は窓から見える空を眺めた。雪でも降りそうな、白く曇った空だった。
冬場にこんなところで寝たら風邪をひいてもおかしくないのに、今まで平気だったのは、いつも梅野が布団を掛けてくれるからだ。夜中の一時ごろまで起きていることもあるから、梅野はその後様子を見てくれていることになる。毎回のことながら、放っておいて欲しいと思うと共に、布団の温かさに縋るような自分もいる。こんな日の朝は、高居は少しもわからない自分の気持ちを持て余す。
高居が寝るには少し小さいソファーから身を起こして、冷蔵庫から出したミネラルウオーターを飲む。そうやって身体を伸ばすようにすると、無理な体勢で寝た所為で、身体のあちこちが痛い。
時計の針は、六時半を指していた。よほどの事がない限り、この時間に目が覚めるのは、数年来の習慣だった。
高居はジャージに着替えて、いつものように走りに出た。ゆっくり、心臓にあまり負担がかからないように走る。ときには歩くときもある。
朝のランニングだけは、止められなかった。起きてからの一連の動作は、止めるには高居に馴染みすぎている。それに、この時間が高居は好きだった。
校庭の周りの遊歩道を半周して、教職員用の駐車場から第二グラウンドへ向かう。朝練をしているラグビー部を眺めながらグラウンド周りを一周して、車用の校門まで走る。そこは時間にならないと開かないので、Uターンをして学校へ戻る。すっかり葉の落ちた木々は寒々しく、吐き出される息は真っ白だった。
ゆっくり、でも身体が温まるように走る。外に出たときには震えるほどの寒さを感じなくなって、冷たい空気が気持ちよく感じるようになるのが高居は好きだった。
「おはよーございます」
「はよー」
他の陸上部員や運動部員が短い挨拶を交わしていく。ひどく静かな時間だ。みんな淡々と、地味な練習をしている。
俺にとっては何の練習にもならないのに――。
高居は自分の足音を聞きながら、目の前のアスファルトをじっと見つめた。こうして冬の間走っても、春に成果を期待してタイムを計ることは出来ないのだ。
こうして走っていても、ときどき思い切り駆け出したくなる。本当はなんでもないんじゃないか、と思ってしまう。
自分はまだ、認めたくないのだ。走れないなんて、信じられない。外見上は変わらないから、実際誰も気付いていない。タイムを計らないのは、スランプのせいだと思われているし、中学のときから記録を持っていた高居は、一人で練習することも多かったから、みんな見守っている。だから、日中は平気でクラスメートや部活仲間と過ごせるのだ。何も変わっていない。前と同じじゃないか、と。
それが夜になると、途端に不安になる。眠れずに、これからどうしたらいいのかと考えてしまう。そして、馬鹿なことに酒や煙草でその気持ちを誤魔化そうとする。
馬鹿なことをしている。高居はそうわかっていても、止められずにいた。
梅野はあれから、何も言わなくなった。ただ黙って、布団を掛けてくれる。その梅野に、甘えているのかもしれない。
同室者の室内での喫煙や飲酒を見逃した場合、その生徒も厳重注意を受ける。九重では部活動以外で連帯責任を取らせることは少ないが、この二つに関しては、どれだけ厳しくしても違反者が減らないために、ことさら厳しい処分になっている。
確かに、喫煙や飲酒は、密やかに行われている。そう言ったものに関心がある年代でもあるし、先輩たちからどうやって持ち込むかなどをこっそりと受け継いでいたりもするからだ。教師達が言うところの「悪しき伝統」の一つである。
だから、このことに関して教師に告げ口をされても、文句は言えない。特に高居は一度止めろと言われているし、量も頻度も半端ではない。
それなのに、梅野はただ黙って、布団など掛けてくれるのだ。
グラウンドについて、高居はストレッチを始めた。考えごとをしていた所為か、上手くペースを押さえられなかったらしく、いつもより鼓動が速い。高居にしてみれば歩きにも近いペースだったのに、額に汗も吹き出ていた。以前ならば、考えられないことだ。
高居は汗を拭って、ストレッチを続けた。何も考えたくなかった。
部屋に帰ってシャワーを軽く浴びたところで、梅野が起きてきた。朝に弱いのか、いつもぼんやりしているが、最近は特に顔色が悪い。
「あ、ごめん」
着替えている途中で、まだ下着一枚でいる高居を見て、洗面室に入ってきた梅野が謝った。
「ああ、いいよ別に」
二年近く寮生活をしていれば、これくらいのことは慣れてくる。特に運動部ならば、みんな平気で着替えるから、他人の裸も珍しくない。
そう言えば、朝は梅野とかち合うことが少なかった。高居はそう思って、自分が朝練を短く切り上げているからだと気付いた。小さなため息が零れる。
梅野はパジャマ姿で、歯磨きを始めた。
随分と眠そうだ、と高居は思った。今にも目が閉じてしまいそうで、思わず観察してしまう。
なんとか手は動いているようだが、ときどき止まってはまた動き始める。その様はいつもの梅野から想像出来なくて、高居はおかしくなってきてしまった。
梅野はいつも、無表情に近い。感情を表さないと言うより、気持ちを揺るがせることが少ない印象だ。ただ、そう言った安定感のようなものが、雰囲気となって表われていた。それが今は、随分と危なっかしい。
ついに手も止まって目も閉じてしまって、高居は呆れた。それでも笑いながら「梅野」と声をかけると、ゆっくりと瞼が持ち上がった。
「すげえ眠い?」
訊いても、考えるような顔をして答えなかった。視線は高居を見ていたが、少しも頭が回っているようには見えない。
「もう少し、寝たら? パンでいいなら、飯は取ってきてやるから」
今にも眠るんじゃないかと思って、高居がそっと背中を支えると、梅野はまた目を閉じた。
「手……」
「何?」
「支え、あったら、寝る……」
どうやら離せと言うことらしい。高居はつくづくと呆れながら、だから寝ろって、と梅野の手首を掴んで口から歯ブラシを抜かせた。
「んー、でも」
「……昨日も布団掛けてくれただろ。その借りを返すって言うか」
梅野がそのために起きていたとは思えないが、何となくタイミングを外して礼を言えないままだった高居は、ちょうど良いと思った。
梅野はようやく少ししっかりとした視線で、高居を見た。
「別にあれは……。ちょうど、帰ってきたら寝てたから……」
ああ、と高居は思った。また、夜中にどこかに行っていたのだ。部活? と訊いて見ようと思ってでも、高居はふいに口を閉じた。
パジャマの襟元から、梅野の白い肌が見えた。その鎖骨辺りに、赤い鬱血があった。
気付かないほうがどうかしている。梅野と古柴の関係はわからないが、自分も悪い、と梅野は言っていた。古柴の言葉を思い出しても、二人は少なくともそういった関係を持ったことがあるとわかる。
高居はそっと背中から手を離した。自分は考えたことはないが、男同士でありながらそういった関係を持つ生徒がいることは聞いている。
「――まあそうだとしても。飯、持って来ようか?」
高居はなんとなく梅野から視線を逸らしながら訊いた。
「んー。そんなことしてもらったら甘えるようになる気がするから遠慮しとく。ありがと」
梅野は再び歯ブラシを口に入れた。先刻よりは、しっかりとしている。
高居は「そうか」とだけ言って、洗面所を出て行った。
梅野が夜中に出て行く割合を、高居は知らない。気付くときもあれば、気付かないときもある。一学期の間は高居もまだ部活に力を入れていたから、夜更かしをすることも少なく、数度気付いただけだった。
梅野は天文部だと聞いていたから、ずっと、部活の用事なのだと思っていた。関心を向けなかったこともあって、高居はそれ以上気にしていなかった。あの、赤い痕を見るまでは。
あれからしばらく、梅野の白い肌に印された鬱血が、高居の頭の中でちらついていた。鏡に映るぼんやりとした顔も、眠そうな、澄み切った目も。今までは一切気にしていなかったのに、洗面所で鉢合わせしそうになると、つい逃げてしまう。
――細い首だった。陸上をしている自分とは正反対の、白い滑らかそうな肌だった。
ふいに浮かんできた梅野の横顔に、高居は頭を軽く振った。
体育館へ向かう道の途中、立ち止まって校舎の隙間から見える山に目を凝らす。雨に煙る中、寒々しい冬山の姿が見えた。
高居は雨の所為で体育館で行われるはずの他の部活との合同練習に出るのをやめて、部屋に帰ることにした。激しい運動が出来ないのだ。出ても仕方がない。
傘を差して、寮まで歩く。いつもの放課後と違って、校庭は静まっていた。さすがのサッカー部も、この寒い冬の雨の日は、外で活動はしないらしい。
反対に、寮の中はいつもより賑やかな感じがした。高居は階段で部屋まで行く。エレベータを使わないのも、陸上のための習慣だった。
鍵を開けて、部屋に入る。ドアの鍵を閉めない部屋も多いが、梅野は必ず鍵をかける。高居はどちらでも構わないから、その点は梅野に合わせていた。
がたがたと音がして、高居は靴を脱ぎながら顔を上げた。
「やだって、言ってる、だろっ」
「今更清純ぶっても仕方ないだろ」
「だからって、こんな――やめろよっ」
梅野と古柴の声だった。また揉めているのか。高居は自分の帰宅を知らせるために、梅野の名を呼んでみた。一瞬の静寂の後、何かが割れるような音がした。
いくら無関心でいると言っても、全てを放って置けるわけではない。高居は鞄を持ったまま、梅野のスペースを覗いた。
想像通り、梅野はベッドに裸で、横になって丸まっていた。その上、手を頭の上で繋がれている。古柴がゆっくりと、その上から身を起こした。
「またおまえか」
「ここ、俺の部屋でもあるんだけど」
高居がちらりと床を見ると、コップの破片が散らばっていた。アルコールの甘いような匂いが香った。
「部活、どうしたんだよ」
「雨だから」
古柴はちっと舌打ちをした。
「悪いけどさあ、ちょっと外しててくれねえ?」
ベッドの上の梅野は、震えているようだった。先刻から一言も声を発しないし、裸であることを隠そうともせず、ただ腕に顔を埋めて、丸まっている。それに、高居の眉根が寄った。どう見ても、様子がおかしかった。
「俺の方が出て行かないとならないのは納得できねえな」
「……まあいいけど。知らねえよ? 辛いのは梅野だと思うんだけど」
古柴はにやにやと笑いながら、手に持っていた携帯電話を軽く弾ませた。
寮内の騒ぎはあっという間に広まってしまう。ほとんどを自治管理に任されていることもあって、暴力事はすぐに寮長に報告されて、面倒なことになる。古柴もそのことは良くわかっているのか、しつこく食い下がる気はないようだった。
「可哀想になあ、梅野。こんな状態で放って置かれて。恨むなら、高居を恨めよ」
古柴は梅野の耳元でそう笑った。梅野は震えているだけで、目を開くこともしなかった。
ばたんっと大きな音を立てて、古柴は部屋を出て行った。高居はふっと吐息を吐いて、ベッド横に近寄った。
梅野はぴくり、と身体を震わせては何度か荒い息を吐き出していた。額には汗を掻いている。
高居は平静を装って、手首を縛っているネクタイを取ろうと手を伸ばした。途端、梅野が「触るなっ」と叫んだ。
「でも、これを外さないと駄目だろ。梅野? 具合悪い?」
そっと結び目を外していく。その間、梅野はいっそう身を縮めて、震えていた。引っ張ったのか、かなり固い結び目で、なかなか外れない。ようやく外したら、手首は真っ赤になっていた。その痛々しさに、高居は思わずそれをすっと撫でた。
「ひっ」と息を呑むような声が梅野の口から漏れた。ぴくぴくと、何度か身体が痙攣した。高居は目を眇めた。
「梅野……? おまえ、何されて――」
はっと高居は隣の机を振り返った。小さなプラスチックボトルが置いてある。手にとって見ると、性感ジェルの字が見えた。
あいつ――。
古柴のにやにやとした笑いを思い出す。ボトルの中の液体は半分ほどなくなっていた。外装の箱も転がっているから、開けたばかりなのだろう。ざっと目を通した使用上の注意には、少量を塗り、と書いてあった。
適量を守っていないのは確実だろう。その上、アルコールも入れているに違いない。一体何をしているのか、と高居は古柴に対して怒りにも似た気持ちが湧き上がった。まさか二人でこの状況を楽しんでいたわけではないだろう。
「梅野――」
どうするべきかと戸惑いつつも声をかけると、「出て行ってくれないか」と途切れ途切れに言われた。
「わかった。今日はどっかに泊まってくるから」
高居はボトルを置くと、間仕切り代わりの本棚に向かった。そこで、どうしても気になって、ふと振り返った。
梅野が、じっと見ていた。まるで泣きそうな目だった。唇をぐっと噛み締めて、でも、どこか縋るような視線だった。
――いや、そう思いたいだけなのかもしれない。
一瞬過ぎった考えはでも、それ以上留まらなかった。
高居はふらりとベッドに近寄り、そっと梅野を覗き込むように手をついた。
「忘れるから」
呟くように言う。梅野も高居も、目を逸らさなかった。逸らせなかった。梅野の口から、何度も息が洩れる。
「忘れるから、みんな夢にするから」
梅野の手がゆっくりと動いて、高居の手首を掴んだ。
あまりに辛そうで、気になって仕方なかった顔をそっと撫でる。それから肩口に唇を寄せて、高居はゆっくりと丸まっていた梅野の身体を開かせた。とにかく楽にさせたいと中心部に手を伸ばすと、そこは既に濡れて立ち上がっていた。ジェルをここにも使われたのかもしれない。可哀想に、と思ってしまうのは、同じ男だからか。高居はそっとそれを包み込んだ。
梅野が悲鳴のような声を上げる。何度か擦り上げただけで、あっけなく白い液体を放った。だが、それはすぐに持ち上がってくる。
高居は何度も上下する薄い胸板に口付けを落とした。白い肌に目立つ赤い胸の突起を舐めると、梅野が「んっ……」と快感に耐えるように目を閉じた。執拗に責めると、足が絡まってきた。ほっそりとしているが、筋肉質な自分とは違う、柔らかい感触が気持ちがいい。絡まり合ったところで、二人の熱が重なる。それに、自分のものがどくりと反応したのがわかった。高居は梅野に引き摺られるように、少しずつ理性を手放していった。
二人のものを両手で包んで、擦り合わせる。梅野は声も抑えずに喘いでいる。
「欲し……っ」
頬を上気させた梅野にそう請われたとき、高居は最初の目的など忘れていた。耐えて辛そうだから、そこから早く解放させられたらと思っていた。だから、挿れることは考えてなかった。そもそも高居は、男との経験はもちろん、性経験そのものが乏しい。
それなのに、梅野の焦点が合っていないような、でも懇願するような目で見られて、高居は我慢できなかった。何度もその周囲に高居のものを擦り付けるように腰を動かされて、その卑猥な光景に気が遠くなるような気がした。
焦るような気持ちで、でも一気に貫いてしまいたいのを耐えながら、ゆっくり挿入する。慣らしていなくても平気だったのは、古柴が既にジェルを使って広げていたからだろう。そう思ったら、高居は我慢できなくなった。凶暴な気持ちになって、乱暴に腰を動かした。梅野が悲鳴を上げる。ベッドがぎしぎしと鳴った。
強烈なまでの快感に頭が真っ白になって達したときには、梅野も白濁した精を迸らせていた。