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風の匂い
04
―――なんなんだよ。
にやりと笑ったまま平気な顔をしてキッチンに向かう真己を、俺は呆然と見ていた。手が置かれた肩も、触れられた唇も、ひどく熱い。
一体、なんだというのだ。
少しも冷静にならない頭を持て余して、俺はその頭をくしゃくしゃと掻き回した。
この間から、真己の行動がわからない。
親父さんを亡くして、淋しいのだろう、とは思うが、その感情表現としてあれは変だ。
無意識に唇を親指で撫でた。しっとりと濡れたような唇の感触が蘇る。
「くそっ」
俺は小さく呟いて勢い良くズボンを脱ぐと、風呂場に飛び込んだ。それからシャワーのコックを捻ると、まだ温まらないうちからその水を頭から被った。
くすりと笑った真己の声が耳から離れない。
からかわれたとわかるその声が、無性に腹立たしい。
「何考えてんだ……」
シャワーに紛れた自分の声も、情けない。ひどく動揺しているのがわかる。学校で初めて告白されたときでも、部活の後輩の新見に告白された時だって、こんなにみっともなく動揺なんてしなかったのに。
そう思ってふと、真己も九重の卒業生だったことを思い出した。
―――そうか。
もしかしたら、真己にとっては男とキスすることなどなんでもないのかもしれない。顔の造作は悪くないのだから、もしかしたら男と付き合ったこともあるのかもしれない。
そう思ったら思ったで、俺はそれにも無性に腹が立った。
熱くなったシャワーを止めながら、ため息を零す。
一番わからないのは、そうやって怒る自分だ。
キスされたことより、からかわれたことに腹を立てる、自分自身だ。この間から、そうやってぐるぐると考えている自分が、一番厄介だった。
髪の毛を拭きながらリビングに顔を出すと、真己は自分の分のケーキとコーヒーを用意して、テレビを見ていた。
「ケーキなんて久しぶりに食べたけど、うまいなこれ」
なんでもない顔をして、そう笑う。シナモンと大きめに切った林檎をたっぷり入れたケーキは、俺の母親が真己のために焼いたものだ。一人淋しいだろうと、すごく心配している。でかくなって愛想もない俺より真己のほうが可愛いのだろう。実際そんなようなことを言ったこともある。俺としても構われない方が良いから、それは大歓迎だ。
「おふくろに言ってやれよ。大喜びする」
どうしてそんな普通の顔で、普通に会話をできるのだろう。俺は自分の今の表情に自信がない。
からかっただけなら、当たり前か。
ため息を聞かれたくなくて、キッチンに行って真己のおとしてくれたコーヒーをカップに入れる。ケーキは食べる気が起きなくて、切らなかった。
「いつ寮に帰るんだ?」
梅雨も近い六月の晴れた日曜日。なんとなく息苦しくて、俺は窓を少し開けた。
「今日の夕方。駅からの最終バスが八時だから」
家から学校まで、二時間の道のりだ。バスは日曜のみ、夜の八時のバスがある。麓から学校までは、利用者が居ないと引き返されてしまう。だから、学校から街まで乗りたい場合、事前に知らせておくのだ。
おそろしく厄介な場所に学校はある。
そうか、と真己は言ったきり、またケーキを食べ始めた。俺はゆっくりとコーヒーを飲む。
「送っていこうか?」
ふいに言われて、俺は首を傾げた。
「時間、中途半端だろ。夕食にしてもさ。車なら一時間ぐらいで着く」
確かに、ここから駅に出て、電車に乗って、その後バスで行くよりは、実は車で一直線に向かった方が早い。その面倒さもあって、俺は滅多に家に帰ってくることはなかった。
それがここのところ頻繁に帰るから、宮古には勘ぐられてる。
正直、俺にだってわからない。
ただ、真己の淋しそうな顔が浮かぶ。
縁側で、ぼんやりと坐っていた姿とか。
一人、あの広い家で食事をしている真己とか。
そんなものがふいに浮かんできて、週末の部活を終えると、俺は家に帰ってきてしまう。
だからと言って、真己と遊ぶ約束をしているわけでもない。たまたま家に居るようなら、声を掛ける程度だ。
「でも、往復二時間だぞ?」
「いいドライブになるじゃん」
事も無げに真己は言うが。親父だって嫌がるのだ。最後は山道だし。
「門限十時だっけ?それなら八時半に出ればいいか」
夕飯食べていけるな、と笑う。もう決まってしまったのだ。
笑った顔が嬉しそうで、俺はそれ以上断るのを止めた。
ただ、なんとなく気まずさを感じているのは自分だけなのだと思うと、少しばかり悔しかった。
結局、真己が送ってくれると言う話を母親にしたら、それなら夕食は一緒に食べようということになった。いそいそと、真己が好きな魚の煮つけを作っている。俺が電車で帰るときは、途中で何か食べなさい、とお金を渡されることを考えると待遇が違う。まあ、時間的な問題もあるにしろ。
誘っても、なかなか家に来てくれないのよねえ、と言った母親の言葉を思い出す。確かに、いくらお隣さんが長いとはいえ、気を使うだろう。それでもおじさんがいるときは、一緒に飲んだりしていたみたいだが。
結局、再婚しなかったおじさん。
真己が九重を選んだのは、少しおじさんのことを考えたからだと親父から聞いたことがある。大きな息子一人抱えて、再婚なんて出来ないだろうと、真己は思ったのだ。それは結局、真己の思い違いだとわかって、真己は今度は家から出ないように、大学に入っても一人暮らしはせずに片道二時間近い道を大学まで通っていたし、就職も近所にした。
真己から直接、そう言った話を聞いたわけじゃない。でも、親父の言うことは合っていると俺は思っていた。おじさんも真己も、互いを大切な家族と思っていたのは、見ていればわかることだった。
「そう言えばさ、おまえ香奈ちゃん覚えてる?」
真己は危なげない運転で夜の街を走っていた。そう言えば、真己の車なんて初めて乗せてもらった。
「覚えてるよ。角のコンビニの香奈ちゃんだろ?」
コンビニは、元々酒屋だった。少し古めかしいその家が俺は好きだったが、時代の流れで、今は明るいコンビニになっている。香奈ちゃんはそこの二番目の女の子で、俺より確か五つ上だった。
彼女には弟がいて、その弟の信司が俺と同級生だった。信司は香奈ちゃんをそれはもう大切にしていて、でも、それも頷けるほど、香奈ちゃんは可愛かった。
顔が、というだけではなくて、性格も。
綺麗なものとか可愛いものが大好きで、そういうものを見ているときのキラキラした目は、それこそ綺麗だった。それに、とても優しかった。動物好きで、捨てられている子猫や子犬を、絶対に放っておくことができない人だった。
あまりに拾ってくるので、一応食べ物を扱っている家では、歓迎されていないようだった。それで怒られても、香奈ちゃんは決して子猫や子犬を離さなかった。うちに居る虎太郎は、その中の一匹だ。
「香奈ちゃんが何?結婚でもした?」
ちょっと早いがそれでもおかしくないな、と思って言ったら、真己が驚いた顔でこっちを見た。
「何びっくりしてんの?前見てください、運転手さん」
くすくすと笑う。でも真己は、前を向きながらも驚いたままだった。
「いや、知ってたのか」
「知らないよ。ふーん、やっぱりそうなのか」
五つ上ということは二十三歳。別にそれほど驚くことじゃないと思う。
そう言うと、真己はでも、と言葉を濁した。
「なんだよ?」
「え、おまえ、香奈ちゃんのこと好きだったんじゃなかったかなあ、と思って」
僅かながら気を使った物言いに、俺は噴き出した。
確かに、可愛いと思っていたし、たぶん、初恋だったのだろう。でも。
「いつの話だよそれ。信司ならともかく」
信司は、中学になってもシスコンは治らなかった。きっと今でも、治っていないだろう。香奈ちゃんの旦那さんも大変だ。
「ああ、信司な……泣いて大変だったらしいぞ、結婚式」
俺はそれが容易に想像できて笑った。
「まあでも、今は甥っ子を異様に可愛がってるけどな」
「甥っ子?」
さすがにそれにはびっくりした。香奈ちゃんに子供。
「ああ、ウチの保育園で預かってる。まだ一歳未満児だけど」
ゼロ歳ってことか……それにしても、香奈ちゃんに子供ねえ。
「……やっぱり、ショックか?」
真己はどうも誤解をしたままらしい。恐る恐ると言った風に聞いてきた。
「だからさあ、それは昔の話だって。好きって言ったって、子供の感情だよ?今はなんとも思ってない」
どうしてそんなことを思うのか、その方が俺には不思議だった。香奈ちゃんとは、彼女が高校に入ってからほとんど遊んでもいない。ときどきすれ違って、話をする程度だった。
そのときもまだ、あの可愛らしい香奈ちゃんは変わっていなかったけれど。
それは別に恋愛感情だったわけではない。
「たださ、香奈ちゃんって結構子供っぽいまま成長しただろ?それが子供を産んだってなんかこう、しっくりこないというか、子供が子供を産んだみたいな感じでさ」
そう、香奈ちゃんは俺の中ではいつまでもあの小さい香奈ちゃんの印象が強かった。自分より年上なのに、そんな感じがなかった。
真己はようやく納得したのか、ああ、と言ってシートに身を沈ませた。もうすぐ道は、山道に入る。
「あれで結構お母さんの顔してるけどな」
「へえ、そうなんだ。香奈ちゃんの子供かあ。可愛いだろ」
「子供はみんな可愛いさ」
真己が、なんだか似合わないことを言う。そもそも、真己が保父というのもどうも違和感があるのだ、俺には。
「俺には真己が保父になるって聞いたときもびっくりだったけど」
「なんで?俺、園内で人気もんだぞ」
ふーん、と十分疑った返事を返すと、真己が笑った。その意地悪そうな顔は、絶対保父になんて向いてないと思う。
「大体さ、おまえが一番懐いてたくせに」
くすくすと笑う真己に、俺は少し恥ずかしくなって外を見た。木々が濃くなって、街の明かりが所々にしか見えない。わりと急な坂道も、真己はそう大変そうでもなく、運転している。
確かに、俺は真己にものすごく懐いていた。どうしてなのか、自分でもわからない。ただ、あの頃は真己の傍にいることだけが嬉しくて堪らなかった。真己の綺麗な顔が、にっこりと笑いかけてくれるのが、嬉しくて嬉しくて。その優しい目が、好きだった。
―――好きだった。
俺は外の真っ暗な景色を見ながら、無意識に、唇を触った。
どきり、と心臓がなる。
あのキスは、一体どんな意味があるというのだろう。
近づく顔の表情は切なげで、でも触れる一瞬、柔らかくなる目。
あの頃と、変わらない、あの目。
ありがとう、と言って車を降りた。気をつけて帰れよ、と言うと苦笑された。
それから、真己は何か言いたそうに口を開いたが、結局、そこからは何も聞こえてこなかった。
またな、と言った目はやっぱり優しくて。
あのキスは、一体どうして。
その問いは、やはり俺の口から漏れることはなかった。
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