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どこかわからない遠い場所でサボテンを抱きしめる夢を見た 第二話
03
翌日、樹が一応の往診を受けてから学校へ戻ると、昼休みも間近な時間だった。寮の自室で少しのんびりしてから、あまりお腹が空いたわけでもなかったが食堂に向かった。とりあえず元気な姿を見せておかないと、後々面倒だと思ったのだ。
送り迎えをしてもらいながら、原澤に和高の足のことを樹は聞いたが、「大丈夫みたいだよ」というなんとも曖昧な言葉が返ってきた。何度聞いても、その答えしか返ってこなかった。それが少し心配で、和高の様子を見たいとも思っていた。
食堂に行くと、すぐに寮生たちや同級生に次々と声を掛けられて、「もう大丈夫」とそれだけをとにかく言いながらいつもの席につくと、千速が走り寄って来るのが見えた。
「重藤、食堂を走るなよ。危ないな」
汁物の載ったトレイを手に持っている人間もいるのだ。それでも誰にも何も言われないのは、千速だからだと本人はあまりわかっていない。
「だって深山。大丈夫?」
何がだってなんだ、と苦笑しながら頷く。心配をかけたのは事実で、それも自分の所為といえば自分の所為だ。
「軽い脳震盪だってさ。大事をとって昨日は病院に泊まったけど、なんでもないんだよ」
そう言うと、千速は明らかにほっと肩を落とした。
「おまえ、走るなって言っただろ」
その千速の後ろから、海田広がトレイを二つ手にしてため息混じりの声をかけた。千速にこうして色々言うのは、樹とこの広ぐらいだろう。
「深山は?もう食べたのか?」
基本的に、この海田という男も優しい。たぶん一番大切な千速に対しても、その優しさを間違わないのは、常々すごいと樹は思っていた。
「いや、あんまり食欲ないし。後で軽く食べる」
それでも、さっさと二人がくっついてくれれば、千速の「春姫問題」も解決する気がする、と樹は思う。自分のことでも手一杯な最近は、その頭の痛い問題を早くどうにかしたかった。寮長として、東寮の春姫継承は、放っては置けない問題だった。
執行部の面々もやってきて、一息にテーブルが注目の的になった。それを千速は嫌がるが、樹もあまり好きではない。彼らが悪いわけではなく、執行部の面々を嫌っているわけでもないから、何も言わないだけだ。
「それにしても、あの坂城の下敷きになって、よく平気だったな」
広が気持ちいいくらい豪快に次々と豚の角煮を平らげながら、にやりと笑う。
「見た目より丈夫なんだよ、俺は」
「まあな。深山がちょっとやそっとじゃくたばらないって俺たちは知ってるからいいけどな」
生徒会長の八潮の声に、樹は千速が持ってきてくれたスープを飲んでいた手を止めて、顔を上げた。
「何?何かあった?」
今回のことで、樹が一番心配したのはこれだった。どうやら和高が東寮の生徒に睨まれているということは、樹も知っていた。でも、自分がその和高を気に入っているのだ、と見せていれば、それはどうにかなるだろうと思っていたのだ。今回のようなことが、起きなければ。
「きっかけの問題だな。ほとんど言いがかり的に、坂城が恨まれてる」
なんだよそれは、と樹は深くため息をついた。
「俺が坂城にどうこう言うのだっておかしいんだ、今回のことは。なんだって部外者が坂城に難癖つけるんだ」
「だから、きっかけだって言ってるだろ?」
総総代の瓜生が、呆れたような声で言う。何か起こったときには、この瓜生が腰を上げなければいけないのだからそれに対しては少々申し訳なくも思いながら、樹は馬鹿馬鹿しさに呆れた。
そこにふと、食堂がざわついて、テーブルにいた全員が顔を上げた。「あいつら……」と瓜生が外を見ながら呟いて、立ち上がる。樹も後ろを振り返ってガラス越しに校庭を見ると、小さな人だかりが見えていた。
「坂城……?」
遠くて顔まで判別出来ないが、その立ち姿を樹は見分けられる。百メートル走のスタートラインに立っていたのは、間違いなく和高だった。
対決だ、と誰かが叫んで、生徒たちが次々に外に出て行く。それよりも早く、樹は食堂の窓を開けて外に飛び出した。まだ激しい運動は控えてください、と言った医者の言葉が頭を掠ったが、それだけだった。樹は上履きなのも構わずに、走った。
向かっている間に、スタートラインに立っていた二人が走り出した。それで慌てて、樹もゴールの方向に向かう。
「その足で何やってんだっ」
樹がそこに辿り着いたときには、二人はもうゴールをしていた。着いた途端崩れるように倒れた和高を、高居が支えて怒鳴っていた。
やはり、足をどうにかしたのだろう。
樹はひどく不安になって、高居の名を叫んだ。
「坂城、足、どうかしたのか……」
高居の肩に手を置きながら、和高は少し驚いたような顔をして樹を見た。それから、ゆっくりと微笑んだ。
「なんでもないです……それより、先輩こそそんな走ったりして平気なんですか?」
「なんでもないって、でも」
和高なら、きっとそう言うだろう、と樹は思ったのだ。だから、高居に問いかけた。でもその高居は、近寄った樹を遮るように、くるりと背を向けて和高の前に坐った。
「背中に乗れ」
「先輩?」
「早くしろっ」
高居のひどく苛立った声が、樹をますます不安にする。じっと見つめた右足が、膨らんでいるように見える。
やはり昨日、足を痛めたのだ。そして、東の生徒に対決をさせられたのだろう。
何もかも、自分の所為なのだ。
樹は負ぶられて遠ざかる和高を、呆然と見送った。
和高が帰ってきた、と聞いても、樹は会いに行く勇気が出なかった。それでも気にはなるから、同じ寮の高居の部屋を訪れた。同室者がすぐに気を使って出て行こうとしたが、高居の方から「植物園を久しぶりに見てくる」と言った。そう言えば一時期、高居をよくあの中に放り込んでいた、と樹は思い出した。
「坂城、どうだって?」
高居はコーヒーを飲まない。それを知っている樹は、後輩の御茶屋の息子からたまたま貰った緑茶を淹れながら聞いた。
「ただの捻挫だ。でも、時期が悪い」
高居は言葉が少ない。それを樹は十分承知しているから、なんとも思わずに、頷いた。
「インターハイの予選が近いんだっけ」
「ああ」
苦しそうに歪んだ和高の顔が、ふいに樹の頭に浮かんだ。あの、自分の部屋に来た夜の、つらそうな顔。
今走れないのは、きっときついだろう。
「どれぐらいで治るって?」
「全治十日。でも、すぐに全力で走らせるのは怖いからな。とりあえずこの一週間は部屋も下にして、徹底的に回復に全力をかける」
世話係もつけるしな、と高居が言って、樹は聞き返した。
「俺がついても良かったんだが、学年が違うし、俺じゃあ精神的に休めないからな。同級の西嶋に頼むことにした」
そんなことをぺらぺらと話した高居を、樹は不審に思った。だから、その世話なら自分がする、と言いたかったのを、一瞬飲み込んだ。
「何を企んでる?」
「別に。おまえには世話になっただろ」
言った高居を、樹はしばらくじっと見詰めて、諦めたように息を吐き出した。高居が何を企んでいるのかわからなかったが、たぶん、これに乗らなかったらそれはそれで別にいいのだろう。自分から言うしかないのだ。
「その一週間の坂城の面倒は俺が見るよ」
それについて、この男に許可を得なければならない辺りが面白くないのだが、樹にはわかってしまった。
怒鳴られたと言っても、素直に背負われた和高を見たときに。
陸上のことに関しては、高居には絶対に勝てないのだ。和高はその点では、高居を絶対的に信頼している。だから、その優しさからだけではなく、高居に関するやっかみにも耐えているのだ。
その信頼を勝ち取っている高居に、樹は激しく嫉妬しながらも、今は自分にはその信頼はないのだとわかっていた。
「俺は同学年の方がいいと思うんだが」
「気を使うって?それなら坂城に聞いてからでもいい」
「わかったよ。おまえに頼む」
高居はそう言って、立ち上がった。それから、部屋を出るところで、ふいに思い出したように言った。
「深山、おまえの我侭聞いたってことで一つ貸しにしておけ。後で、返してもらうかもしれない」
やはり、何か高居は思うところがあるのだ。樹は目を眇めた。
「俺の世話になったから、って言ったのは誰だ?」
「それはちゃんと俺自身で返すさ。こんな軽いことじゃなく」
「内容のわからない取り引きをする方が、よっぽど俺にはリスクがあるんだけど」
樹がそう言うと、高居は滅多に見せない笑顔を披露した。
「深山に悪いようにはしない。もちろん、坂城にもな。そのあたりは、俺はあんまり手を出したくないんだ。がらじゃないだろ?」
「確かにね。俺もおまえにそこを助けてもらいたいとは思わないけど」
「ただ、走りに関してはな……ちょっと手助けしてもらうような時がくるかもしれないってことだ」
「高居らしくない、回りくどい言い方だな」
「俺としては、あの馬鹿がさっさと気付いてくれれば良いと思ってるんだよ」
何を、とは樹は聞かなかった。どことなく、思い当たった気がした。
「馬鹿って言うなよ。確かに鈍いけど」
「だよな。どこがいいんだ、あれの」
なんだかひどく煽られている気がする、と樹は思った。または、からかわれているのか。
「そんなの、おまえだって良く知ってるだろ?全く、とことんあいつに甘えやがって」
お返しとばかりに言うと、苦笑された。
「甘えたいわけか、天下の寮長が」
「温かそうだろ、あの腕は」
臆面もなく樹が言って、高居は今度は呆れたような顔をした。
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