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ソクラテスとソフィストの優しい関係について


04
 その日の放課後、図書委員の当番日だった雅道は、やはり最後まで残っている智を探しに二階へ上がった。その智は、珍しく机に広げたノートに何か一生懸命書いている。ちらりと見ると、数学のようだった。
 雅道が来たときっと気付いていながら、智は顔を上げない。少し切羽詰ったようなのは、なかなか解けない問題の所為だろう。
 あーあ、間違ってるよ。
 雅道はそう思いながら、初めて智と会った日のことを思い出した。あの日も、智は数学の宿題をしていた。
「智、もう閉館だ」
「うん、でもちょっと待って」
「待たない。それじゃあ解けない」
 そう言った雅道に、智がぱっと顔を上げて、ひどく残念そうな顔をした。
「なんだよー。駄目なのかあ」
 ちえっとばかりに口を尖らせた智に、雅道は苦笑しながら、とんとんっとノートの中の数式を指す。
 それを智が真剣に見る。それから、あっと言うように、笑った。
 これが見たくて、ついつい教えてしまうのだ、と雅道は自嘲した。普段は教えろと迫る同級生を、邪険にしているのに。
「うーん。雅道ってやっぱりすごい」
 智はそんなことを言いながら、ありがと、とにっこりと笑った。それから、続きをノートに書き始める。解け切るまで動かないことは雅道は知っていたから、それをじっと見ていた。それからふいに、その柔らかそうな髪に手を伸ばした。ホームルームで、圭が触っていたのを思い出してしまったのだ。
「な……に?」
 びくり、と智が顔を上げた。そこには、困惑した表情があって、雅道は手を引き込めると、思わず目をそらした。それから、圭はいいんだ、とぼそりと呟いた。
「え?何が?」
「圭には、させてただろ」
 それがあのホームルームのことだとようやく思い出して、今度は智が目を伏せた。
「だって……」
 雅道のそんな行為を、智は嫌いなわけではない。雅道は優しいし、さらりと撫で上げられる髪を、気持ちいいとも思う。
 でも、だかこそ、智は思わず身体を震わせてしまうのだ。それが、雅道だから。
 途中で言葉を切って黙ってしまった智を、雅道は唇を噛み締めながら見ていた。いい加減、自分のこんな独占欲にイライラしていた。それは、決して智を責められるものではない。自分勝手で、智には迷惑この上ない気持ちだとわかっている分、なおさら。
「ごめん」
 雅道が謝って、智がはっとして顔を上げる。そこに、酷く傷ついたような雅道の顔を見つけて、智は目を見開いた。
 謝るべきなのは、自分なのかもしれない、と智は思った。でも、何に対して謝ったら良いのか、わからなかった。
「別に、謝らなくても……」
 だから、そう言ってみたが、雅道はふっとため息を吐いた。
「いや、気持ちを押し付けてるのはわかってるから」
 雅道のこういう言葉は、智を困惑させるだけだ。智は揺れる瞳で、雅道を見た。
 答えを、欲しいと思う。それは、自分しかわからないのだと、知っていても。
「なんで……?」
「え?」
「なんで、雅道は俺なんだよ」
 呟く智に、雅道は首を振った。
「理由なんて、意味がない」
 どこがいいとか、どこが好きだとか。そんなことは、並べ立てて言うことではない、と雅道は思っていた。もっと近い関係になったなら、そう思う瞬間瞬間に、それを教えてやろうとは思うけれども。
 その答えを、雅道らしいと智は思った。言葉で何もかもを求める智に、雅道はこうして、ときどき言葉は意味がないと教えてくれる。それでも、智は今回ばかりは教えて欲しいと思った。
 もしも、と掠れた声が出る。
「もしも、俺たちがここで出会わなかったら?どこかの街の共学校で、男子校でもこんな山奥じゃなくて、すぐ隣に女子校があるようなところで出会ったら?それでも?」
 ぼそぼそとした智の声は、それでも静かな図書館に響くようだった。
「それに答えることに何の意味があるんだ?もしもの話をして、どんな意味がある。その答えも、仮定でしかない。そんな話に、どんな意味がある」
 雅道は、いつもより幾分投げやりな調子でそう言った。そうかもしれない、と智は思う。それでも、自分は説明が欲しいのだ。
「智」
 低く、穏やかな雅道の声が智を呼ぶ。そんな声は好きだ、と智は思った。そういう好きをたくさん集めたら、雅道を好きだと言えるのだろうか。
「悪かった……本当は、こんなに悩ませるつもりはなかったんだ」
 いつもと違う、雅道の声だった。いつもはもっと、自信に満ちた、低いがはっきりとした声で話す。いや、声ははっきりしている。でも、いつもと違うのは雅道が自分を見ていないからだ、と智は気付いた。斜め下をじっと見つめる、雅道の横顔を、見つめる。
「答えを、あげようか」
 雅道がふいに言った言葉の意味が、智にはすぐにわからなかった。
「答え……?」
 いつもなら、嬉しくて仕方がない言葉だ。疑問など、あっては困る智にとって。でも、何故か今は、怖かった。それを聞くのが、とてつもなく、怖かった。
 雅道はふいっと顔を上げた。
 困惑した、智の顔が見える。もう何度、そんな表情を見てきただろう、と雅道は思った。終わりに、するべきなのだ。こんな風に、智を困らせるのは、もう。
 雅道は、ゆっくりと微笑んだ。
「俺のことが好きかどうか、わからないって、智は言ったよな」
 智は、動けなかった。確かに言った記憶はあっても、頷くことさえできなかった。それを気にすることもなく、雅道は微笑んだまま言った。
「それは、俺を好きって意味だ。あくまでも、友達として。だから、わからなくなったんだよ。俺が聞いた意味と、智が思っているのと、同じ言葉なのに意味が違うから。だから、混乱した。でも、もう悩まなくってもいいよ」
 雅道は笑っているのに、ひどく切なそうだった。智はその顔を、じっと見つめることしか出来なかった。
 雅道の言った言葉の意味を理解するのに、時間がかかる。
「だからって、友達をやめようなんて言わないから。だから、安心していい。俺がわかることなら、なんでも教えてやるから。もう、考えなくていいよ。ごめんな」
 雅道が、そう言いながら、智に鞄をもたせる。それにされるがままになりながら、智は頭の中で雅道の言葉を何度も繰り返していた。
 智の好きは、友達としての好きだから、もう、悩まなくていいと雅道は言う。
 それが、答えだと、言う。
 わからない、と智は思った。
 初めて、雅道の言っていることの意味が、わからないと思った。そうなんだね、といつものように笑えなかった。
 それがどうしてなのか、それさえも、智にはわからなかった。


 それから、雅道は変わりなく智に接していた。それでも、いつも智が困惑していた、甘い目や言葉は、綺麗さっぱりなくなっていた。
「諦めたのか……?」
 遠慮がちの稜の声に、雅道は何も答えなかった。閉門近くになってやってきた稜に、雅道は不機嫌さを隠さない。表立っての用事は、いつものようにノートを貸して欲しい、というものだったが、それ以外の用事が本当の目的だと言うことぐらい、雅道にだってわかっている。
「ノート、いらないなら置いて、さっさと出てけよ」
「冷たいなあ。一応心配してるんだ」
「ありがとよ」
 それだけ言って、雅道は読んでもいない雑誌に目を落とす。まったく、そう言われたら先に続けられないとわかっていて、そう言う言葉を吐くのだから、扱いずらい、と稜はため息を吐いた。
「智に聞いても、首を横に振るだけだし……」
 わざとらしく智の名を出してみても、以前のような独占欲を見せることもしない。稜は少々むっとして、自分を無視している雅道の傍に近寄った。
「マサ」
 言いながら、雑誌を取り上げると、思い切り不機嫌な顔の雅道が睨んできた。
「おまえもしつこいな。別に心配かけることはしてないだろ。もうすぐ門も閉まるし、さっさと帰れ」
「心配かけるような雰囲気なんだよ、おまえも智も」
「そのうち収まるだろ。少し見守っていてくれ」
「おまえずるいなあ。そう言う言い方」
 稜が心底嫌そうにため息をつきつつ、雅道の隣に座り込んでがっくりと頭を下げた。
「大体さ、好きなら好きって言ってればいいんだよ。答えを求めるのはわかるけど。あんな数学とかの問題みたいに答えを求めなくたっていいだろ?」
 好きか嫌いか。まるで課題のように問い掛ける雅道も雅道だ、と稜は思っていた。
「仕方ないだろ。説明を求めるのは智だ」
 雅道が、ため息をつきつつ言う。それに、稜は頭だけ上げる。
「どうして好きなのか、理由が欲しいのは智なんだよ。言葉じゃどうにもならないものが、あったら困るんだ」
 だから雅道は、考えろといったのだ。そして、智は悩んだ。好きでも、そうではなくても。そのはっきりとした感情の説明を、智はきっとずっと探していたに違いない。
「なんか……おまえも圭もわからないと思ってたけど、智が一番複雑な気がしてきたよ、俺は」
 感情なんて、説明できなくてもいいものの一つだ、と稜は思う。好きだから好き、それで構わないではないか、と。
「そうそう簡単にわかってたまるか」
 雅道がそう呟いて、稜が「はいはい」と頷いた。
「それで?おまえは諦めたのか」
「おまえが諦めろ」
「いやですー。おまえたちがおかしいと、俺に全部とばちりが来るんだよ」
 圭も圭で、どこか不安定になっているのが稜にはわかった。自分達で精一杯な雅道や智にはわからないかもしれないが。自分も損な性格だと稜は思う。
「友達だろ?我慢しろ」
「事情も説明しないでなーにが友達だ。おら、吐け」
 稜はこうなって来ると、なかなか折れない。雅道や圭の嫌味や巧みな言葉も、全部流すことが出来るのが稜なのだ。だからこそ、この二人と付き合っていけるのだが。
「稜……」
「情けない声を出しても駄目ですー。大体、おまえ智の様子見てなんとも思わないわけ?」
「智の様子って……」
「嫌だねー。余裕がないからそうなるんだよ。前よりもっと悩んでるぞ、あれは」
「なんで悩むんだよ。答えを教えたのに」
「答え?」
「わからない、っていう感情に説明をつけてやったんだよ」
 しぶしぶ、という感じの雅道に、稜はゆるゆると頭を振った。
「おまえも智と変わんねーな。つけんな、そんなもんに説明を」
「でも、じゃなかったら智はずっと悩む」
「今だって悩んでるぞ?」
 稜がそう言うと、雅道も首を捻っていた。馬鹿だな、こいつら、と稜は一応の愛情を込めて内心で呟いた。
「ああもう。とにかく、どうにかしろよ」
 説明なんてつけようとするから、ややこしくなるのだ。それをわかっていない辺り、まったく馬鹿だ、と稜は深々とため息を吐いた。

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