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la vision


あの口付けが、本当だったのか、酔いの夢だったのか、周には分からなくなっていた。
でも、感触を覚えている気がする。
外気に触れて冷たくなった唇。
ビールの苦い、味…
わからない。ビールは、自分も飲んでいたはずだ。
あれから、二週間が経とうとしていた。穂積から連絡はない。周も、会社の連絡先は知っているけれど、電話してみようとは思わなかった。
キスが初めてなわけではなかった。彼女がいたこともある。でも、どうしてか頭から離れない。
あの視線だ。あの、目だ。
絡み取られた視線が、纏わりついて離れないのだ。
周囲の空気が少し動いた気がして、周は顔をカウンターから持ち上げた。
穂積が、入り口に立っていた。
いつもなら男女数人で来るのに、今日は女と二人連れだった。カウンター隅の周には気付かなかったのか、いつもの指定席に座った。そっと女の肩を抱いている。
周は、ほっとした。
からかわれていただけだ。そう、言い聞かせる。
苦い何かがその胸に広がっていく様な気もしたが、それは無視した。
夢か真か、どちらがよかったのか、周にはわからなかった。
それを確かめる術も持ち合わせていない。
だから、こんな形で納得できるなら、それが一番だった。
周はコーヒーを一口飲んで、カウンターの中の一真に話しかけた。
「なぁ、何か良いバイトないかな」
グラスを拭いていた一真は、その手を止めずに周の方を見た。
「今のは?」
「これでも一応、受験生だから。もっと割の良いのがないかと思って」
家賃はないから、かなり楽な生活だった。でも、その他もろもろの生活費を稼ぎ出すには、今のコンビニのバイトでは、到底無理だった。加えて勉強までするとなると、時間もない。
咲子たちは、お金の心配はして欲しくないと言う。でも、篠崎にその全てを任せるのは、嫌だった。苦しいときは頼むから。そう言った周に、二人は困って顔を見合わせていた。
客が来て、一真は忙しくなってきた。周は邪魔にならないように、帰ることにする。
帰りがけに、ちらりと穂積が見えた。楽しそうに笑っているのが見えて、周は無意識に視線を逸らした。
カウンターの中の一真に一声をかけてから、ドアを開ける。
木製のそのドアは、キシリと音を立てて、ゆっくりと開いた。そのドアが閉まると、中のざわめきは完全に遮断される。
外に出ると、街灯の明かりがうるさかった。
ぼんやりとした月明りだけで十分なのに、目に入るその明るい街灯は、周には煩わしかった。わざと、光りを避けて歩く。
駅まではあまり人通りのない通りを歩かなくてはならない。細い路地を出れば繁華街なのだが、周はその路地を一人歩くのが好きだった。遠く耳を澄まさなければ聞こえてこない車の音。その静けさが、周には心地よかった。
少ししっとりとした空気は、雨が来ることを予感させる。
そう思って空を見上げたとき、周の傍らに車が止まった。
気にせずに歩き出す周に、その車の窓が開く。
「送るよ」
その声に、周はすぐに振り向けなかった。一呼吸して、やっと振り向く。
「どうしたんですか」
さっきまで、楽しそうに話していたのに。
「帰るんだろう?乗っていかないか」
周は歩み寄って、首を振った。ちらりと車の中を見る。そこに、人影はなかった。
「彼女は、俺の連れじゃないんだ。相手が来るまで俺が暇つぶしをしていただけだよ」
そんなことは聞いてないのに、視線を読まれたことがわかって、周は思わず顔を赤くした。
「乗って」
微笑まれて、周はそれでも躊躇した。
「それとも、まだこれからどこかいくの」
にやりと笑う瞳が、からかうように光る。それがこの間のことを怖がっているのかと笑われた気がして、周は車のドアを開けていた。
「おねがいします」
それだけ言ってドアを閉めると、前を向く。車は、音もなく走り出した。

都会の夜は、夜ではないと周は思う。
ネオンの明るさは、偽りの昼を作り出していて、周は嫌いだった。
幼い頃に行った祖父母の家では、もっと濃い闇があった。幼い心にそれは怖かったが、だからこそ輝く星と、迎える朝に、周は心躍らせた。
夜がなかったら、朝もない。
ぼんやりと外の流れる景色を眺めながら、周はそんなことを考えていた。
「少し、付き合ってくれないか」
不意にそう言われて、周は思わず穂積を見た。ちょうど信号が青になって、穂積は顔を前に向けたままだった。
「飲み足りなくてね」
口の端が少しだけ上がる。端正な横顔に、周は惹きつけられるように目を向けていた。ネオンにときどき照らされて、見え隠れする瞳。
「いいですけど」
「また飲んで運転するのはだめって?」
からかうような口調で言われて、周は視線をずらした。
キスを、思い出す。
「じゃあ、家で飲もうか」
穂積がそう言って、周のマンションとは反対方向へ曲がる。周は、何も答えなかった。
どうしたいのか、わからない。
自分のそのはっきりとしない気持ちに、イライラしていた。
外の景色が、水の流れのように現れては消えて行く。周の目は、その早さについていけない。
流されたくないのに、ぐいぐいと引っ張られている。それに、逆らえない。

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