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la vison 第二話

04
 冗談じゃない、と周は思っていた。
 あの夕食を一緒に食べたときから、指月は自分に執拗に言い寄ってくる。もちろん、それは手馴れた指月のこと、周が突き放すほどのあからさまな態度でもなければ、だからといって気付かないほどでもない。
 なんだって、急にこんなことになってしまったのだろう、と周は思っていた。指月は、自分のことを好きなわけではない、とそれだけははっきりわかる分、余計だった。
 指月は確かに周を手に入れたいのだろう。でもそれは、「穂積のものである周」だ。
 最初は、からかいだった。それでのるようならそれでもいいと思っていたのだろう。そのあと、店を手伝わないかと言われて、その店のコンセプトややり方に周は惹かれた。自分は、穂積と並びたいという欲がある。その踏み台として、とても魅力があったのだ。
 あのとき、指月は決して本気で自分を落とそうとは思っていなかったと、周は確信している。それくらいのことは、わかっているつもりだった。それがどうして、こうなったのか。
「何がしたいんです?」
 夕食に誘われて、他の店員も一緒だったために断れなかった周は、一緒に食事はした。でも、そのあとこっそりと飲みに誘われても困るだけだ。それをどうしてわからないのだろう、と周はため息をついた。
「そんなこと言わせるんだ?」
 レストランで既に飲んだ指月が、セクシャルな響きを含ませて耳元で囁いた。酔った振りをして肩に肘を乗せるような行為を、いちいち注意するのも、周は諦めていた。
 その腕を簡単に振り払うことが出来ないのは、触れている部分から、淋しいのだと、沁み込むように伝わるからだ。そんなのはずるいと思いながら、自分もかつて同じように誰かの肌を求めたことがある周は、どうしても邪険に扱うことが出来なかった。
 やはり穂積と指月は似ているのだ、と周は思う。
 でも、穂積には仕事のパートナーとしての尋由がいて、私生活でのパートナーとして周がいる。それを指月は、羨ましいと思っているのだろう。
 自分と穂積が、そんな風に羨ましがられるほど、確実な関係を築けているのかは、二人にだってわからないというのに。
「オーナーは、もてるのに、恋人作らないんですか?」
 飲みに行くのは断って、駅までの道を歩きながら、周は聞いた。それほど酔ってないでしょう?と苦笑して、肩にかかる手は追い払った。
「あのねえ、口説いてる人間に向かってそう言うこと聞く?」
「口説いてるって……遊びでしょう?そうじゃなくて、もっとちゃんと相手を探したらいいのにって」
 言ってから、生意気なことを言った、と周は口を噤んだ。その腕を、突然きつく掴まれる。
「え?ちょっ、オーナー?」
 そのまま路地裏に引っ張られて、周は眉根を寄せた。あれだけの酒で酔う指月ではないはずだ。
「遊びじゃないよ」
 街灯も届かない暗い闇の中で、指月の声がした。目が慣れて、うっすらと真剣な顔の指月が見えた。でも、それはどこか縋るような、迷子の子供のような顔だった。そのことに、きっとこの人は気付いていないのだろう、と思う。
「遊びなんかじゃない」
 言いながら、近づいてきた顔を、周はどこかやるせない思いで見ていた。あの頃の穂積と、重なってしまう。仕事にも、恋にも、疲れていた穂積に。
「駄目ですよ」
 ゆっくりと呟かれた言葉は、静かな闇に吸い込まれるような声を伴っていた。その闇と同じくらい、揺れない瞳が真っ直ぐに指月を見ていた。
「そうやって俺を求めても、俺はあなたを救えない。……救えないんです」
 あのとき、穂積を救えなかったように。あの孤独を、見ているしかなかったように。
「そんなものはいらない」
 指月は、目を眇めて周を見た。救いなど、求めていない。そう思うのに、どうしてこれほど苛立つのか分らなかった。周の、静かな目に。穏やかな表情に。
「じゃあ、俺に何を求めてるんです?」
 何も、と言いながら、指月は掴んでいた周の腕を外した。ひどく混乱しているのが分った。笑って、そのまま口付ければ良かったのに、それすら出来ない自分がわからなかった。
「オーナーは、多分誤解している。俺は、穂積さんも、救うことは出来なかったんです」
 救われたのは、自分だ。助けを求めて、ぼろぼろになりながら縋りついたのは自分だと、周は思っていた。
 指月は、とても不思議な気分で目の前の青年を見た。真っ直ぐで、凛とした瞳は、それでもどこか悲しみを湛えていた。でも、それには負けない意志の強さも見えて、指月はくっと笑った。
 見透かされてる。
 そう思った。何もかも、自分でさえ見ないようにしていた薄汚い感情も、滑稽なほども嫉妬も、子供じみた我侭も、きっとみんな見透かされている。
「でも周、俺はおまえを手放さないよ」
 小さく吐息をついてから、ふらりと歩き始めながらそう言うと、周が苦笑した。
 その顔に、自分は誰のものでもないと、言われたようだった。


「指月の秘蔵っ子が来てるって言うから、嫌な予感がしたんだが……おまえはいつからそんなものになったんだ?」
 すっと肩に置かれた手に、周はその相手をわずかに見上げながら微笑んだ。指月はその顔に、片眉を上げる。子供っぽいとか、凛としたとか、清潔感溢れる言葉ばかりが浮かんでいた周に、一息に艶が加わった。参ったな、と内心苦笑する。いい機会だと美術関係の出版社のパーティーに連れてきたのは、もちろん周のためでもある。でも、穂積が来ることも指月は当然承知していたのだ。
「穂積さん、どこでそんな噂」
「大方どこぞのオーナーが自分で蒔いたんだろ」
 くすくすと笑う周は、確かに見たことのないような目をしていた。ようやく少し、穂積が手を出していることに納得する。そう言えば、二人が並んでいるのを見るのは初めてだったな、と指月は思った。
「いや、俺はどこかに目を付けられる前にちゃんと俺のもの宣言をして」
 指月は言い切らないうちに、口を噤んだ。目の前で、穂積が恐ろしい目で睨んでいる。
「誰が誰のものだって?」
「穂積さん……わかっててのせられなくても。オーナーも、やめてくださいね。後で俺が大変だから」
 周がさらっとそんなことを言う。にっこりと艶やかに笑う様は、猫でも被っていたのかと疑うほどだった。触れているのは肩に置かれている手だけで、二人には全くそんな雰囲気はないのに、それでもどんな関係なのかわかる。
「周って……」
「はい?」
「いや、なるほどな。穂積が手を出したくなるわけだ」
「オーナー?」
 目を眇めてみせる周とは反対に、その後ろの穂積は苦笑をしていた。どうやら指月が周のことを誤解しているらしい、というのは周から聞く話で感じていたことだった。馴れ初めを聞いたら、そしてあの苦しい日々を聞いたら、きっと驚くことだろう、と思う。
「指月、忘れるなよ。俺はやらないといった」
「恋人の座はね、諦めるよ。でも、仕事のパートナーの座は、空いている」
 だから嫌だったんだ、と穂積は隠すことなく眉根を寄せた。それに今度は周が苦笑する。
「笑い事じゃないぞ、おまえは。まったく」
「だって、俺はそこには坐らない」
 ふいに、真っ直ぐな目が指月を見た。それはどこか責められているような、哀しそうな目だった。言葉は拒否を示していたが、拒否と言うより、不可能なのだ、と言っているようだった。それに、指月が困惑する。
「周、俺はおまえを本気で育て上げようと思ってるぞ」
「ええ、わかります。ありがとうございます。でも、そこは俺の席じゃない」
「何でそんなことを言う?おまえにはその素質が十分ある」
 そこまで言ったところで、穂積が忌々しげに周の腕を取った。
「目の前で口説くなよ、指月」
「おまえは関係ないだろう。第一、おまえには出来たパートナーがいるじゃないか」
 この、周の兄の尋由を指月も知っている。穂積が、多分最も信頼する男だ。
 周が、どこか寂しそうに笑った。それから、静かな声で、穂積に腕を話すように言う。
「駄目だ。指月、悪いが周を貰っていく」
 穂積の声は険しく、指月が周を見ると、小さく吐息を吐いて「すみません」と指月に許しを乞う。指月は訳がわからないながらも、どうやら自分が何か失敗をしたらしいことだけはわかって、仕方ないと頷いた。


 沈黙が重かった。周はそれが自分の所為だとわかっていても、口を開く気になれなかった。もう諦めていることをどうやったら上手く伝えられるかわからなかった。穂積に、罪悪感など持って欲しくない。自分も、後悔はしていない。
「我侭なんだろうな、俺は」
 信号で止まった車の中で、穂積がふいに呟いた。周はそれに答えずに、信号をじっと見つめていた。ぽっかりと、丸く赤い明かり。
 穂積もそれをじっと見ていた。運転をしているから無意識だが、どこかぼんやりと見ている感じだった。
 穂積の仕事のパートナーが変わることはない。それは、仕方のないことだった。だから、穂積が周の仕事のことに口を出すべきではないのは分っていた。それなのに、自分勝手な嫉妬で、周が他人のパートナーになることを嫌がる自分に呆れた。
「俺は、誰のパートナーにもならない」
 車が動き出して、周がぽつりと言った。
「でも、指月は本気だぞ」
「そう思うんだ、穂積さんは」
 どこか引っかかる物言いに、穂積はちらりと横目で周を見た。どこか少し投げやりな感じにシートに身を任せて、周は小さく笑っていた。
「周」
「わかってる。穂積さんの嫉妬はね、嬉しいんだ」
 ぽつりぽつりと言う感じだった。でも、静かな車内にそれははっきりと音となる。
「でも、そんな心配することじゃないよ。オーナーは、パートナーが欲しいだけなんだ。俺をパートナーにしたいわけじゃない」
「でも、そのパートナーとして、おまえがいいんだろ?」
「違うよ。穂積さんが尋由のようなパートナーを持っているのが羨ましいだけ。その上俺は、尋由の弟で、穂積永人の恋人だ」
 自嘲は感じられないが、淡々としている分、穂積はどう答えたらいいのかわからなかった。周はときどき、こんな風に自分の価値を蔑むようなことを言う。そして、そうしていることを完全にわかって言っているのが、厄介だと穂積は思う。それはきっと、あのときの自分との関係で出来てしまったものなのだと穂積は思っていた。
「似てるんだ」
 ため息と一緒に吐き出された言葉に、穂積が「え?」と聞き返す。
「あの頃の穂積さんに、似てる」
 そう言った周の顔は、窓から外を眺めていてわからなかった。穂積はそれに不安に駆られる。だから、強く拒否できないと言うのだろうか。
「だから慰める、とか言わないでくれよ」
「言わないよ。だいたい、俺じゃ慰められない」
 くすっと笑いながら周が答えた。でも、周は忘れている。そうやって、穂積は周に惹かれていったのだ。どうして、そういうことを忘れてしまうのだろう、と穂積はため息を吐きたくなった。
 ふいに、周が自分の方を向いたのがわかって、穂積はちらりとまた横を見た。一瞬、その真っ直ぐな目が見える。出会った頃から、この目だけは変わらないな、と穂積は思った。
「俺は、誰のパートナーにもならない。なる気が、ない。もちろん、穂積さん、あなたのもね。でもそれは、尋由がいるからじゃない」
 周がそこで言葉を切って、はにかむように笑った。穂積はその周を見たくて、いつもなら突っ切るような黄色の信号で車をとめた。顔を横に向けると、周がまだじっと穂積を見ていた。
「隣に並びたいから。パートナーとしてではなく、ライバルとして」
 街灯の薄い明かりの中で、その目が挑むように光った気がした。穂積は一瞬息を吸って、参ったな、と一人ごちた。
 敵わないと思う。この真っ直ぐさと、強さ、貪欲さ。若さの特権と言えばそれまでかもしれないが、周は確実に何かを乗り越えて、それを手に入れているのだ。
「楽しみに、待ってるよ」
 穂積がにやりと笑ってそう言うと、周はひどく嬉しそうに笑った。
 これは、自分もおちおちしていられないな、とその顔に穂積は苦笑していた。



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