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シュレーディンガーの猫

05
 ぼんやりと目を開けたとき、響貴は一瞬、記憶がなかった。自分がどこにいるのかもわからず、目の前に見えているドアノブを、じっと見つめた。そっけないほど冷たく光るドアノブが、自分の部屋ではないことを認識させる。
 都住の家は、豪華な金細工のような取っ手だった。それはいつでも、響貴の自由を阻んでいた。いやらしいほどの、まばゆい輝きでもって。そのきらびやかさが、いつでも響貴に吐き気を催させていた。
 ぼんやりとドアノブを見つめながら、ふいに昨晩のことを思い出す。体中が痛い。特に、頭が。
 坂倉にされたことを、響貴は覚えている。ただ、途中から意識がない。坂倉に後ろを犯されて絶頂を迎え、倒れこんだような気はするが、そのあとは分からなかった。それでも、身体はきれいに拭かれているから、響貴はどうしたらいいかわからない。自分が、男にあんな風に抱かれるとは思わなかった。いつだって、痛みしかなかったのに。
 そこまで考えて、頭の痛みが増した。坂倉は、気付いただろうか。いや、気付かないはずがない。だいたい、写真を撮ったときに分かっているだろう。
 たやすく、男を受け入れた響貴を。
 ベッドには、自分しかいなかった。起きて動いているのは、小雪だろう。今、何時なのだろうか。
 ベッドでもう少し眠ろうと思ったが、坂倉の匂いを感じて息苦しく、響貴はずるりと床に落ちるように転がった。そこで、シーツに包まる。
 昨晩、誰のせいで絶頂へ向かったのか、響貴はわからない振りをした。最初は、確かに小雪に酔ったのに。誘われて、自分が反応して、興奮した。自分が男であることの、唯一の証だとでも言うように。それは、許されないことだった。でもそれを超えて、身体が主張する事実に。それが、坂倉に突かれながら、そればかりを感じていた。目を閉じたら、小雪を感じられなくなりそうで、必死で目の前の小雪を、睨むようにしていた。そう思うと、吐き気がする。響貴はぎゅっと目を閉じて、考えないことにした。
 坂倉が部屋をそっと開けると、響貴が床に転がって眠っていた。丸く、繭のようになっている。身体が辛いだろうに、床で眠ったらもっと痛くなるだろうと思いながら、坂倉は煙草をふかす。光の入らないようにきっちりとブラインドと雨戸まで閉められた部屋の中、白い煙だけがゆらゆらと揺れた。
 どうか、していた。
 昨晩のことをそう思ってみても、坂倉はそうやって忘れることは出来そうになかった。小雪も察しがいいから、何も言わない。苦笑したのを、楽しかった、とにこやかに言われただけだ。
 目の前で寝ている響貴の顔を、坂倉はじっと見詰めた。揺れて視界を阻む紫煙の中、少し、変わったかもしれない。今なら、坂倉は響貴と響を見分けられる気がした。
 何をしているのだろうと思う。なぜ、彼がここにいるのだろう。坂倉は煙草の灰を落としに、そっと部屋に入る。その気配に、響貴が目を開けた。前から思っていたが、眠りが浅いな、と坂倉は改めて思った。昨晩は、よほど疲れて、意識も飛ばしていたのだろう。あんな風に眠っている響貴を抱き上げることができたのは、不思議なくらいだった。
「おはよう」
 そう言うと、響貴も小さく返す。身体が痛いのか、起き上がろうとはしない。なんとなく顔を覗き込むと、哀しそうな目が見えた。
 もしかしたら、と坂倉は思っていた。だから、昨晩、響貴が男を受け入れるのが初めてではないだろうとわかったときも、やはりと言う思いが強かった。都住は、好色家だと影では有名だ。それに、あの痣。
「小雪が張り切って鳥粥を作っている。食べるか?」
 言い方はひどくそっけないが、坂倉が身体を労わってくれているのがわかる。響貴は、そう言うものに慣れていないから、どうしたらいいかわからない。
 ――昨晩の、優しさと間違えそうな、手。
「食べたくなったら来いよ。俺はもう出かけるから」
 坂倉はそう言うと、ドアを閉めた。
 響貴はそれからまた少し眠った。やっと起き上がったときには、部屋には誰もいなくて、日はだいぶ傾いていた。台所のテーブルの上には、電子レンジで温めればいいようにお粥が薬味と一緒にのっていた。きれいに、とりどりの薬味が小皿にのっている。昨晩の小雪を思い出すと、響貴は奇妙な気持ちになった。
 ――おかしくなる
 小雪が、そう叫んだのを響貴は覚えている。それは甘い誘惑で、響貴は、狂ってしまえと思った。突き上げられて、自分で動くことが出来ずに、坂倉の動きで小雪を揺らしていた。その小雪の感触より強烈だった、坂倉の存在。
 響貴は、その生々しい感触を思い出しそうになって、頭を振る。とにかく何か食べようと、お粥を電子レンジに入れた。
 そう言えば、このレンジの使い方を教えてくれたのは坂倉だった。料理をすると言ったら、頼むから怪我をしないでくれと言ったのも。それが、面倒だからと言うのはわかっている。それでも、響貴は覚えている。そう言ってくれたのを。黙って食べたのを。
 一人になりたいと思った。いつでも、佐々原の監視と、父親と姉の我侭に付き合わされて、一人になってしまいたいと思っていた。
 でも、とほんのり温かくなったお粥を口に運びながら響貴は思う。本当に孤独だったのは、あの家にいるときだったのかもしれない。

 そのことに気付いたのは、お粥も食べ終わって、どうしようかとふらりと部屋を歩き回ったときだった。そう言えばこの男の名前も知らないと、いろいろな物を探してみた。坂倉は一切自分に関するものは置いていなかったから、それは容易なことではない。ドアの外には張ってあるかもしれないと思って、無駄とわかっていながらドアを開けようとしたのだ。
 開くはずのないドアが、かちゃりと開いた。それがあまりに奇妙で、響貴はしばらくその前で突っ立っていた。見たことのない廊下の壁の色は白く、床は青いタイルだった。ほんの数センチ開いたその空間を、響貴は見つめつづけた。
 なぜ、開いているんだろう?
 そう思って、ぞっとした。いままで、坂倉が扉を閉めてきたのは、響貴が逃げられないようにだ。では、今開いていると言うことは?
 響貴は思わず、ばたんとドアを閉めた。知らなかった振りをしよう。そう思った。
 坂倉が鍵をかけ忘れると言うことはない。いつだって、神経質だった。響貴がどこにいるかさえ教えずに。それが、今なら響貴はどこにでもいける。逃げる気があるならば、逃げられるのだ。
 響貴は、なにかそこが恐ろしいところでもあるかのように後さずりをして、目を逸らした。とにかくテレビをつけ、ボリュームを上げる。意識に関係なく送り込まれるその音で、響貴は全ての思考から逃げようとした。
 締め付けられるように、胸が痛い。苦しくて、息が出来なくなりそうだった。ふらりとソファーに座って、苦しそうに喘いだ。瞬きを忘れたかのように、目は見開かれたままだ。その目が、どこか宙を見つめている。
 響貴はそのまま、そこから動かなかった。

 忘れては、いけないことがある。
 必要なのは「都住響」であること。
 儚くも永らえた、この命にも。
 坂倉にも。
 今、ここにいることでさえ。
 決して、自分なのではなく。

 坂倉は、相変わらず無表情で帰ってきた。帰ってきたというそれだけでも、響貴はほっとしているのがわかる。今日のことは、忘れてしまおう。そして二度と、あのドアには触れずにいよう。響貴はそう決めて、ドアからは視線さえも逸らしていた。
 坂倉は、少し驚いて、それでもやはりと思った。響貴が、まだここにいること。自分でどうしたら良いのか分からず、響貴に委ねるなんて、少し残酷だろうなどとまで思う。
 もう、都住から金を取ろうとは、坂倉は思っていなかった。ただ今は、響貴がここにいることが怖い。自分の、近くに。
 昨晩、小雪をそそのかしたのは自分だ。あんな狂うほどの欲望は、もうないと思っていたのに、小雪を抱きながら、隣にいるはずの響貴の目を、手を、項を思い出していた。いつでも強がっているかのような、それなのに絶望しかないような目を。
 決して泣かない響貴を、どんなことをしてでも泣かせてみたかったのかも知れない。決して声を荒げない響貴の、呼吸を聞きたかったのかもしれない。
 テーブルには、響貴が作ったのだろう、ビーフシチューがのっていた。温かな、湯気が立っている。坂倉は、それを蹴散らかしたい欲望にかられながら、それを避けるためにシャワーを浴びに行った。
 消えない。二つ並んだ、湯気の立ち上る皿。スプーンも、コップも、二つずつ。一人分には多いパン。それが、記憶から消えない。熱いシャワーを、浴びてみるのに。
「正直に言うとね」
 帰り際、一緒に部屋を出た小雪が、階段を降りながら呟いた。エレベーターを使わずに階段を使ったのは、何か話があったからだろう。一段降りるごとに、足をふらりと揺らして、それからゆっくりと足を階段につける。かん、かんと、ゆっくりしたリズムで足音が響いていた。
「なんだか怖かった。真っ暗なところに行くみたいで」
 絶望っていうのかなぁ。そう、俯いたまま言った。それが、昨晩のことを言っているのは坂倉にもわかった。坂倉は、煙草を取りだして吸い始めた。
「あぁ言うの、怖いよ」
 そう小雪が言うのに、坂倉は「あぁ」と小さく呟いただけだった。小雪が色々な経験を持っているのは知っていた。多分、自分より。小雪は、そんな狂ったように求める何かを、絵の中に見つけたのだろう。だから今は、狂わずにすんでいる。
 このままいったら、きっと壊れていくとわかっていながら、坂倉は響貴を放り出せないでいた。自分がしたことも忘れて、目的も忘れて、捨てるように追い出せなかった。だから、響貴に任せてしまったのだ。どこかへ消えてしまってくれと思ったのも、本当だ。鍵を開けておくことに、ためらいがないほどに。
 捕らえられたのは、自分かもしれない。
 坂倉はそう思いながら階段を降りたことを、シャワーを浴びながら考える。たった、数日しか一緒にいないのに、坂倉はもう、響貴を思い描けた。何度も見た、公の場で姉に扮装した響貴ではなく、台所に佇む、響貴を。ぼんやりとテレビを眺める、響貴を。
 同情だと、坂倉は言い聞かせた。長年恨んできた都住に翻弄されている響貴を見て、哀れんでいるだけだと。
 じっと、見つめる目。
 結ばれた唇。
 シーツを掴む、細い指。
 ――捕らえられたのは、自分かもしれない。


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