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「東……どうにかならないのか、これは」
矢野が部屋に入ってくるなり、ため息を吐いた。散乱する空缶や空瓶、テーブルの上のいくつもの煙草の吸殻に、呆れ果てているのだろう。
以前は、俺はマンションの部屋までマネージャーを上げることはなかった。いつも玄関でおろしてもらって、ここは完全なプライベート空間にしていたのだ。
だが、さすがはマネージャーだ。イズルがいなくなってからも仕事はこなしていたのだが、様子がおかしいと言って、部屋まで上がってきたのだ。以前も、俺はこうして際限なく飲むような行為を繰り返したことがある。それを覚えているに違いなかった。
俺はもう、どうでもいい気分だった。仕事はしているのだから、文句を言って欲しくなかった。
「ここまでひどいとは思わなかったな。ったく、何やってんだ」
矢野はそう言って、ゴミを片付け始めた。俺はいいから話、と促す。もちろん、手にはビールを持っていた。矢野にもそれを投げたが、矢野は車だからとそれを開けることはなかった。
「話はこのことも含まれてるんだよ。こんな汚いところで寝起きするな。おまえ、少し痩せただろ」
「……引き締まったって言って欲しいね」
俺の言い様に、矢野がまた小さくため息を吐いた。それがひどく、癪に障る。
離したくなかったのに。
いてくれなければ駄目なのに。
それを取り上げたのは、一体誰なのだ。
「仕事をきちんとこなしていることは、誉めてやる。だがこれじゃあ、もたなくなるぞ」
矢野の言葉に、俺はビールを煽って何も答えなかった。早かれ遅かれ、俺はきっともたなくなる。体力じゃない、精神的にだ。
イズルがいない。
イズルを抱き締められない。
抱き締めて、もらえない。
たぶん俺は、矢野や社長が思っているよりずっと、イズルに凭れかかっている。そしてそれを、イズル自身はわかっていない。
ビールの缶を開けようとしない矢野に、しかたなく俺はコーヒーを入れた。イズルが来ないから、キッチンは使われていないぶん綺麗な方だ。
「相変わらず、俺にまで気を使うなよ」
「別に。そう言うつもりじゃないけど」
ありがとうと言って、矢野はコーヒーを受け取ると、ソファーに坐った。俺もその前にビールを持ったまま坐る。
「結局、連絡は取れなかったのか」
黙って、頷く。今更だ。今になってそんなことでため息を吐かれても、仕方がない。
俺は、イズルが誤解することが怖かったわけじゃない。そうやって傷つけることも嫌だったが、本音は、イズルが気付くことが怖かった。
俺と付き合うことは、「藤原東」という芸能人と付き合うことだということに。
そんなことは、とっくにわかっていたことだ。でも、俺たちは「素のまま」だの「外面」だのと言って、その部分を敢えて避けていたところがあった。
避けられることではない。それなのに、見ない振りを続けた。
それが、俺にとっては心地よいことであったのも確かだ。俺を俺としてみてくれる、イズルのあの目。それが、必要で。
イズルはそのことをわかっていた。それに、俺が甘えたのだ。
「東。きついことを言うが、あれ位で壊れるなら、そう長くもつ関係じゃなかったと考えるべきじゃないのか」
「壊れたわけじゃない」
俺の言葉に、矢野があからさまに眉根を寄せた。
「東……」
「矢野さんはわかってない。イズルがどれだけ人のことを考えて、自分を犠牲にするか、わかっていない。俺たちがどれだけ、必要としあっていたのか、わかっていない」
矢野にイズルを会わせたことはないから、それも仕方がないのかもしれなかった。大体、俺が今まで付き合ってきた人間とイズルは違いすぎる。
「イズルは、俳優である「藤原東」のステータスを必要としない人間なんだ。俺に、何も望まない。こっちが、苛々するぐらい、あいつは何も望んでこない」
今までの人間は、俺に愛されていると言う証拠を欲しがった。それも、他人から見てもわかるようなものを、だ。自分は「藤原東」の恋人なのだと言う、その証拠を。
でも、イズルはただ隣にいるだけだった。それだけで――もしかしたらそれすらも要らなかったのかも知れない――満足のように。
ただひたすら、俺が生きやすいようにと、祈ってくれていた。そんなことは一言も言ったことはないが、あの遠い視線は、そんなものだった気がする。
「俺が息のしやすいように。現実の、それと俳優としての藤原東として、生きていけるように、イズルはたぶんそんなことしか考えてなかったんだよ。だから、俺と一緒にいた」
そこに、イズルの生きやすさがあったのかどうか、俺にはわからない。そうであって欲しいと、願うだけだ。
そういう存在をなくして、俺にこれからどうやって生きていけと言うのだ。
そう言うと、矢野は驚いたような目をして、俺を見つめた。いつも一人突っ張っていた俺が、こんな弱音を吐くとは思っていなかったのだろう。
バランスが崩れてきているのだ。イズルに負うところの多かった部分が、重くなりすぎて。
あれ位の事、と矢野は言った。でも、俺たちにはまだ、大きすぎた事件だった。まだ不安定なままの、俺たちの関係には。
「こんなことになる前に、会っておきたかったな」
矢野はそう言って、立ち上がった。そうしたら、何か変わったと言うのだろうか。
変わったのかも知れない。矢野のことだから、上手くやってくれたかもしれない。
俺も信用がないもんだ、と苦笑した矢野に、俺は何も言えなかった。珍しく、寂しそうなその表情に。
矢野は一度も、反対していない。こんなスキャンダラスな関係について、説教さえしていない。そのことの意味を、俺はすっかり失念していた。
「今度……紹介する」
俺は矢野を玄関まで送って、そう呟いた。
ふうん、と矢野が目を細める。
諦めるつもりはない。今、そう決めたのだ。
あのときは、イズルが手を掴んでくれた。それなら今回は。
俺から、イズルを捕まえに、行こうと。
「無茶はしてくれるなよ。出来ることはするから、俺の首が飛ぶようなことはしてくれるな」
矢野の言葉に、俺は笑って頷いた。
捕まえると決めてみても、俺が出来ることはたかが知れていた。今はあまり派手に動くことも出来なかった。
ただ、イズルが心配しないように、仕事だけはきちんとこなそうと思っていた。無責任なことはしたくなかったし、もちろん、この仕事を辞めたくないと思っていることもあった。
今俺は、舞台の稽古に励んでいた。
小劇団から有名になった演出家の舞台で、「誰でもない人」というタイトルがついたものだった。台本を読んで、正直、きつい仕事だと思った。まるで、俺やイズルのことを言っているような話だったのだ。
名もない「男」は、そのときどき会う人間ごとに役柄をつけて貰う。そうしなければ、上手く話すことも行動することも出来ないからだ。じゃあ恋人ね、と言われて、女を甘やかしてみたり、息子にだと言われて親孝行をしてみたり、部下だと言われれば上司の理不尽な言動に振り回されてみたり。揚句の果てにペットだ犬だと言われて、ワンワンと吠えるだけの動物になったり。
そんなことを繰り返しているうちに、男は自分が誰なのか、わからなくなっていく。一体そこに自分と言うものが在るのか、「そこに立つ自分」は一体何者なのか。それぞれ役柄をつけてくれた人間が一同に会したとき、男は、途方にくれる。
どうにも身につまされるような話で、俺は台本を読みながら苦笑した。
イズルと会う前だったら。
俺はこの仕事は受けられなかったかもしれない。ひとごとにはとても思えず、怖くてこんな舞台など立てなかっただろう。実際、イズルにこの話をしたら、良くやるな、と言われたほどだった。
この舞台を、イズルに見て欲しかった。演出家の設楽は容赦のないことで有名で、俺にも逃げを許さなかった。身につまされたその思いを隠すことを、許されなかったのだ。
そこから、どうやって俺はこの「男」を作り上げたか。多分誰よりもイズルに、見て欲しかったのだ。
でも、最近はイズルがいなくなったことに対する俺の気持ちの揺れのようなものが、稽古中にも出てきていた。普段ならばそんなヘマはしないが、相手が設楽では分が悪い。その揺れを無理やりにでも引きずり出そうとしてくる。
俺はイズルがいなければ、完璧な仮面を被ることも出来なくなったのだ。
イズルは、どうやら学校にも行っていないらしい。こっそり見に行ったアパートには、帰ってきている様子が全くなかった。玄関口のポストには、広告やらダイレクトメールが溢れていた。
こんな風な突然の別れを、俺は少しも予想したことはない。いつかこんな日がきても、もっと足掻けると思っていた。でも相手がいなければ、そんなことも出来ない。
「東っ。集中してない」
設楽の怒声が響いて、はっと舞台上の役者達が動きを止めた。俺は上司役の役者と一緒にコントのような噛み合わない会話をしている最中で、身振り手振りの大きい場面のために息を荒くしていた。
設楽とやると、身包みはがされる感じがして怖い、と聞いたことがあるが、それが決して誇張ではないことを身を持って知った。今だって、周りからちょっと笑いが洩れるくらい、コミカルな掛け合いが出来ていたのだ。それを集中していないと喝破されたら、憤るより空恐ろしくなる。
少し休憩にしよう、と設楽が言って、場の雰囲気が途端に緩んだ。俺はただ息を吐いて、そろりと舞台から降りた。
「おもしろくなってきた、と言いたいところだが。集中してくれないのは困る」
設楽が煙草を吸いながら寄って来た。役者の喉を守ろうと言う気はないらしい。
面白くなってきた、と設楽が言ったのは、俺が揺れ始めたことだろう。何しろ、最初の頃に以前の俺の方が面白い役が出来ただろうに、と残念そうに言った人間だ。俺が少なからず藤原東と言う人物を作っていることに、気付いていたに違いない。
「すみません」
俺が素直に頭を下げると、面白くなさそうに鼻を鳴らされた。俺は荷物置き場になっている椅子からタオルを取ると、顔の汗を拭った。
俺はここで、素になるつもりはない。それはほとんど無意識のことで、それを設楽が面白がっていることもわかっていた。
「なあ、一度聞いてみたかったんだが」
設楽が近くの椅子に座って、俺を見上げた。見上げているくせに、馬鹿にされているような気がしてくるのは、設楽の性格の所為だろう。
俺は断ってから椅子に座って、水を飲み、なんでしょう、と聞いた。
「おまえが自分を曝け出す相手っていうのは、どんな奴だ?」
質問に、俺はふっと顔を綻ばせる。だが、今はそれは辛い記憶を思い出すような感覚で、俺は僅かに目を伏せた。
思い出なんかに、したつもりはない。でも、現実に今、イズルはいないのだ。
あの声さえ、聞けないのだ。
「設楽さんには、隠しているところなんてない気がしますけれどね」
「自分の意志かそうじゃないか。それは随分違うだろう。それに、俺はさんざんおまえを真っ裸にさせてやろうとしてきたが……入り子の箱かロシア人形か、はたまた玉葱か金太郎飴か。剥がれ落ちた気がしても、結局ふとみるといつもの藤原東だ。ちっとも懐かない」
にやり、と設楽が笑って、俺は「そうですか?」と笑い返した。
懐かないと言うなら、イズルだ。あいつはいつまでたっても、甘えた顔を見せたりしない。
「でも、少なくともその元の部分を揺さぶる誰かがいる……それが誰でもない男の、心も揺さぶる……あの写真の姉ちゃんじゃないだろ?」
舞台があるというのにスキャンダルを起こした俺は、最初にみんなに謝っておいた。だがさすがは同じ世界で飯を食う者同士、あれが何か含むものだと気付いていた人間も多いようだった。設楽も怒ることなく、面白そうに笑っただけだった。
「それについては、ノーコメントで。すみません」
勘弁してくださいとばかりに頭を下げると、その頭をぐしゃりとかき混ぜられた。素だったら怒るところだが、外面でいると、そういうときでも怒りは簡単に治まるのだから面白い。
だいたい、素だったらこんな風に真面目腐った頭の下げ方をしないかもしれない。
素だったら。
外面じゃなかったら。
最近は、そんなことばかり考えている。俺の中で、もう一人の俺を見ているような感じだ。それは多分――。
「まったく、可愛くないな、おまえは」
「可愛いなんて、言われたことないですよ」
東ってときどき可愛いのな、と可笑しそうに言ったのはイズルだ。俺が拗ねたりすると、そう言って笑う。
そのイズルがいない。
だから俺は、素の自分をどこか遠くで見ている。
そこに、イズルがいないから。
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