home モドル 01 02 03 * 05
花の咲く頃
04
その日は結局、二人に挟まれて眠ると言う、非常に貴重な体験をしてしまった。家に帰ったほうがいいというカイ兄ちゃんに、ホン兄ちゃんが反対したのだ。考えていたのと正反対の反応をした二人に、俺は正直驚いていた。と言っても、ホン兄ちゃんの言い分は全然優しいものじゃなかったけど。
「敵は見えていないだけで隠れてるだけかもしれないだろ?こいつが出て行って捕まってみろ。おまえは絶対見逃せない。それでこいつのために骨を折るのは嫌だね」
「でもここだって安全じゃないだろ?」
「仕方ないから、一緒に寝るんだな。どうせ俺もこの腕じゃおまえを抱けやしない」
何が残念って、それが一番残念そうに聞こえたのは俺の気のせいだろうか。どっちにしろ、二人は俺に意見を求めてくれなかった。いつもは絶対訊くのに、それだけやばいのかな、と思う。でもなんとなく、二人がいれば平気かな、と俺は呑気に思っていたんだけどね。
「俺泊まりたい!」
言い合ってる二人に無理やり割り込むと、カイ兄ちゃんが仕方ないという顔をした。俺にちょっと甘いんだよね、カイ兄ちゃんは。だいたい、あのホン兄ちゃんの傷を見て少しパニックと言うか興奮している俺は、一人でゆっくり眠るなんて出来そうになかった。ちょっとだけ、甘えさせて欲しかったんだ。
俺は人の体温を感じて眠るのはとても久しぶりで、なんとなく落ち着かなかった。安心していたけど、どきどきしていたんだ。大好きな兄ちゃんと一緒に眠っていたから。寝室が立ち入り禁止だったから余計なのかもしれない。その上、二人はすごく緊張していたと思う。
それでも興奮した所為か、だんだん温かさに気持ちよくなって眠り始めた頃だった。俺の右隣で眠っていたカイ兄ちゃんが、そっと起き上がったのが分った。(ベッドはとてもとても大きかった。一つなのに、二つ分ある感じだ)。ホン兄ちゃんはすっかり眠っている。たぶん、睡眠薬を飲ませたんだろう。
カイ兄ちゃんはベッドヘッドに身体を預けて、じっとホン兄ちゃんを見ていた。俺はうっすらと目を開けて、そのカイ兄ちゃんの顔を盗み見ていた。
とてもとても、ホン兄ちゃんの目よりももっと、切なそうな目だった。愛しくて、大切で、でもだからこそ、哀しいというような。そういう気持ちを知らない俺は、ただそれを見ていた。
大人になるって、ああいう目をすることを知ることだろうか。
愛しいとか、大切とか、そんな気持ちだけじゃ駄目なんだろうか。
カイ兄ちゃんの目を見ているうちに、俺はなぜかすごく泣きたくなって、目を閉じたのだった。
ホン兄ちゃんは驚くほどの回復力を見せて、翌日の朝でさえ、端から見たらいつもと変わらないように見えた。それから一週間後には、普通に腕を動かしていた。俺は何も言われなかったけれど、その夜のことは、母さんにも話さなかった。そして、それを忘れそうになるほどのことが、俺の身にも降りかかってきた。
「え?クビ……?」
レースが近づいた日の朝、俺は突然社長に呼ばれて、もう来なくていい、と言われた。本当に突然で、俺は驚くしかなかった。
「なんでですか?」
「とにかくね、悪いけど、明日から来なくていいから」
社長は俺を見ようとしなかった。理由が、全然分らなかった。失敗はしていないと思うし、それなら社長は言うだろう。ただ、少し俺を哀れむような、苦虫を潰したような顔をしていた。
「理由も教えてくれないんですか?」
「聞いても何も変わらないんだ。聞いてどうする」
社長たちはいつもそうだ。言ったってわからないだろう?と俺を子ども扱いする。ここで何を言っても、結局クビなのは変わらない。俺はそのまま家に帰った。そして、家に帰ったら俺がクビになった理由がわかった。
母さんがいるのはわかっていた。仕事は夕方からのことが多いからだ。でも、キッチンで酔っ払っていた。
母さんは滅多に酒を飲まない。仕事で飲むこともあるだろうし、家でもときどきは飲むけれど、昼間からこれほど酔っている姿を見たことはなかった。母さんは俺が帰ってきたことにも気付かないかのように、ぼんやりと小さな窓から外を見ていた。飲んでいるはずなのに少し白くなった頬には、涙の跡があった。だから、何も言わないうちに、俺は自分の運命を知ったんだ。
「母さん……こんな飲み方、身体に良くないよ」
母さんはゆっくりと俺のほうを見た。その目から、一筋の涙が落ちた。俺はそれを、そっと拭う。
ごめんね、と母さんの唇が動いた。
「俺が店に出ればいいんだね」
知っていた。
母さんの店のオーナーが、俺を欲しがっていること。
だから、母さんはそれを阻止するために、無理して働いていること。
みんな、俺は知っていたんだ。
母さんは両手で顔を覆うと、泣き崩れた。
俺はその身体を抱きしめた。
家で客をとっていることを責められたと、後で聞いた。でも、数人ならそれは許されているはずだ。もっと露骨にやっている従業員だっているし、それで母さんは店を休んだこともない。それで責められる謂れなどなかった。
ただ、俺を店に出したかったんだ。オーナーは俺のことも知っている。俺ぐらいの年の少年は、高く売れるのだと聞いた頃もある。実際、そうやって稼いでいるやつらを俺だって知っている。
それでも。
母さんの願いを叶えたかった。
初めは好きな人と。そして、できれば自分とは違う道を歩んで欲しいと思っていること。その願い。
俺は、それだけだったんだ。
その日の夜に、俺は隣の家を訪ねた。あのホン兄ちゃんが襲われて以来、あまり来るなと言われていたのだけれど、時間がなかった。
「なんだって?」
ホン兄ちゃんが家に帰ってきたのはわかっていた。カイ兄ちゃんは仕事をしているとかで、部屋に篭っていて、俺には都合が良かった。
「だからね、抱いて欲しいんだ」
俺の言葉に、ホン兄ちゃんが固まっていた。とっても珍しい光景だ。
「なんで急に」
「初めはね、好きな人に抱いてもらいなさいって言うのが母さんの口癖なんだ」
「俺が好きだって言うのか」
ホン兄ちゃんが大きな手で顔を撫でる。それ以上突っ込んでこないのは、分ってくれたのだろうか。俺の、今の状況を。
「大体、なんで俺なんだ?」
「だって!ホン兄ちゃんの方が上手そうでしょう?」
俺は必死だった。母さんの願いの一つでも、叶えたくて。
「それはまた……反論できないのがきついよな」
突っ立ったままの俺の背後から、ちょっと怒ったような声がした。思わず振り返ると、カイ兄ちゃんが困ったような顔をして俺を見ていた。
「でもね、ホンにたっぷり愛されてるので、同じように抱く自信はあるよ?」
にっこりとそう笑われてしまうと、俺は赤くなってしまう。綺麗なカイ兄ちゃんが艶をのせた顔をするのは、絶対目の毒だ。
「好きだって言うなら、絶対カイのことだと俺は思ってたけどな」
「そりゃあカイ兄ちゃんも好きだよ。俺はどっちも好きなの」
「それじゃあ、セックスをする好きとは違う」
ホン兄ちゃんが呆れたように言う。
好きの種類なんて、俺には今更どうでもいいんだ。
客と比べたら、二人の方が絶対好きだから。
「二人でもいい。ね?」
俺が縋るように目を向けると、二人とも顔を見合わせた。それから、ホン兄ちゃんが小さくため息を吐いた。
「悪いが、俺はカイ以外には役に立たないんだ」
知ってる。それは母さんから聞いたよ。でもね、
「嘘だよね」
俺が断言すると、カイ兄ちゃんがくっと笑った。それを非難するような目で、ホン兄ちゃんが睨んだ。
「試してもいいけどな。そういう態度を取るならおまえが抱いてやれ」
「へえ。ホンはいいわけ?俺が他の人と寝ても」
「おまえだって役に立たないさ」
にやり、とホン兄ちゃんが笑う。それにカイ兄ちゃんは絶句した。それから悔しそうに、「そりゃあおまえは上手いけど!」と顔を顰めた。
「もう、どっちでもいいから!」
俺は必死だった。だから思わず叫んだら、カイ兄ちゃんがふわりと抱きしめてくれた。
「ごめん。ちゃかすつもりがあったわけじゃないんだ。でもね、ホンの言う通りだよ?キイの好きは、恋愛の好きじゃない」
「そんなの知らない!なんでもいいじゃないか。好きなら、それで」
知らない、嫌な相手にされるより。
今になって、俺は自分が怖がっているのだと気付いた。
誰も知らない相手に、身体を開かれること。
母さんや同じ年の友達のことを知っていて、俺は強がっていただけだったんだ。
「泣くな……子供に泣かれるのは苦手なんだ」
ホン兄ちゃんの大きな手が、頭を撫でた。そんなことをしたら、余計に涙なんて止まらないよ。
「やだよ。俺、怖い……」
呟きに、カイ兄ちゃんが「そうだね」と囁くように言った。何度も、何度も。
「大丈夫。絶対キイは好きな人と初めてセックスできる。だから、俺たちを信用して?待ってて?」
カイ兄ちゃんは、そんな不思議な言葉を言った。
まるで、俺のこれからのことを知らないかのようで、でもそれを知った上で言っているようで。
俺はただ、泣きながら、頷くしかなかったんだ。
翌日には、店のオーナーが迎えに来た。俺はそのときには覚悟を決めて、母さんを悲しませたくない所為もあって、勤めて平然と車に乗った。
ふわりと車が浮き上がる感触に、車に乗るのも初めてだな、と思った。
しばらく店にいることになるだろう、とオーナーは言っていた。商品にするために、教育したり検査したりするらしい。母さんはただ何も言えずに、俺をじっと見ていた。そこで目を逸らさない母さんの強さが好きだ。
母さんとは、昨日の夜に散々話をした。逃げようと言う母さんに、首を振ったのは俺だ。少なくとも、ここでは母さんは身体を壊さずに働いている。オーナーはずるい奴だけど、もっと酷い店だってあることを俺は聞き知っていた。
それに、ここは母さんが父さんと出会った街なのだということも、俺は知っていた。だから母さんは、それに縋っているんだ。父さんがいた頃を思い出して。その空気を、吸って。
店に入ると、すぐに全裸にされた。覚悟をしていても、泣かないために俺は唇を噛み締めることを止められなかった。すみずみチェックをされて、血液検査やレントゲンや尿検査に至るまで、ありとあらゆる検査もされた。まるで病院に来たのかと勘違いしそうだった。
かなり細かく検査をするのか、結果が出るまで三日間は客を取らせないと言われた。ただ、その間に客を取る前の事前の準備とか、その後の後始末の仕方を教えられた。
その頃には、もうどうでも良くなってきていた。服など与えてもらえず、裸で生活を強いられ、オーナーも調教役の男も舐めるようにその俺の裸を見るのだ。唯一眠るときのために与えられたシーツを被っても、それを取り上げるのを楽しまれて、俺は早々に諦めた。
諦めることなんて、いつものことじゃないか、と思う。
コンクリートで囲まれた部屋で、頼りないパイプのベッドに寝転がりながら、じっと天井を見つづけた。そう、諦めるなんて簡単だ。
父さんがいないことも。
母さんが、あんな風にしか仕事が出来ないことも。
俺が、ここで働くことも。
願いなんて、叶わないことも。
home モドル 01 02 03 * 05