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□yugo04 http://recipe.electro.xx
あのときシギは、自分の最後を予感していたのだとユーゴは後に知った。そのために、新たな担当を育て上げようとしていたのだ。
新たな職場は、とても居心地のいいものだった。誰もが痛みを知っているような、柔らかな雰囲気が、疲弊したユーゴを癒してくれた。仕事に関しては、容赦はない。だが、バイではあっても女より男がいいという性癖を隠さなくてもいいだけでも、ユーゴにはありがたかった。
でも、あれ以来、ユーゴは怖くて恋をしていない。誰かを好きになったかもしれない、そう思うだけで、それ以上進むことを避け続けた。それなのに、ユーゴはいつも寂しさを抱えていた。そしていつも、誰かを探してしまうのだ。だからハマナに、「また」などと言われてしまった。
そう、また。
幸野に惹かれているかもしれない。これは、恋なのかもしれない。
答えはわかっているのに、ユーゴはそう思うだけにしている。今また恋に破れたら、ユーゴはどうしていいかわからないからだ。もう、あの温かい食事を作ってくれるシギはいない。
ユーゴがweb electroに入ってから一年後、シギはベッドの上で永遠の眠りについた。とても幸せそうな顔をして、二度と起きてこなかった。いつも遅刻などしないシギが出勤してこないことを不審に思ったユーゴが迎えに行ったときには、もう、シギは静かに目を閉じていた。柔らかな朝の光が部屋中に満ちていて、ユーゴは静かに泣いた。哀しいとか淋しいとかではなく、ただ、涙が流れた。
今思い出しても、心静かになる。シギは、その死を持ってさえ、ユーゴに何かを教えてくれる、とても稀有な人物だった。
いつもながら暇なユーゴは、そんな風にぼんやりと過去を思い出していた。そこに携帯が鳴って、はっとする。
「……幸野さん?」
画面のお客様番号は、ここ最近ですっかり見慣れたものだった。だが、こんなに遅くに呼び出しが掛かったことはなかった。ユーゴは慌ててブースに向かう。途中で見えた時計は、真夜中十二時を少しばかり、過ぎていた。
「ご利用ありが……幸野さん?」
いつもの挨拶を言わないうちに、ユーゴは目の前の幸野に目を見開いた。幸野は、どんなときでもきちんとしている。服は楽なものに着替えているが、それで外に出ても少しもおかしくない格好で、部屋もいつも整っている。だからユーゴは、誰か女の人の存在をぼんやりと思い浮かべていたほどだった。それなのに。
今晩の幸野は、コートも着たままで、部屋にぼんやりと突っ立っていた。パソコンの横で、ただ、真っ直ぐに。その幸野が濡れていることに気付いたユーゴは、慌てて近寄った。
「幸野さん、一体どうし……」
近寄ったユーゴを幸野が抱き締めて、言葉はまた宙に浮かんだ。まるで縋るように、子供が親に抱かれるように、幸野は頭をユーゴの肩口に押し付けた。
髪が濡れている。そして、幸野は冷たかった。
外は、大分雨が降っているのだろう。幸野の部屋もweb electroも快適な温度が保たれていることが多いから、その冷たさがユーゴはわからなかった。でも、幸野の身体は芯まで冷えていそうだ。
肩口から、回された腕から、じんわりと冷たさが染み込んでくる。ユーゴは、開きかけた口を閉じ、ただされるがままに抱き締められていた。
どんなことがあって、どんな理由があるのかはわからないが、こんな風に誰かの温もりを求めたくなる夜があることを、ユーゴは知っていた。
与えられるなら、与えたかった。この温もりでいいのなら。
視界の隅に映る窓を、雨が打っていた。割と広いベランダがあるはずだから、風が強いのかもしれない。
「すまなかった」
ふと身体が離れて、ユーゴは小さく身震いをした。いつもは暖かい部屋が、今晩は冷え切っていた。エアコンがついていないのだ。
「スーツが濡れてしまったな」
呟きは、とても低い。いつももそれほど高い声ではないが、もう少し快活な印象がある。
「いえ、構いません。それより、幸野さんの方がびっしょりですよ。着替えないと、風邪をひいてしまいます」
ユーゴの心配そうな声に、幸野は「ああ」と答えて、コートを脱いだ。幸野は傘を差してこなかったのか、襟元から肩まで、雨が染み込んでいた。
「どうぞお風呂に入ってきて下さい。それでは本当に病気になってしまう。その間に、何か暖かいものを作りますから」
幸野はコートを手にしたまま、じっとユーゴを見ていた。それから、何か口の中で呟いた。
「え?」
「頼むから、帰らないでくれないか」
ユーゴが聞いたことがないくらい、弱々しい声だった。だから、もちろん、とユーゴは微笑んだ。
「私のことは気にせず、ゆっくりしてきて下さい。温まったら、一緒に食事をしましょう」
幸野はそれを聞いてもしばらくユーゴを見ていたが、穏やかに、安心させるように微笑むその顔を見て、ようやく納得したのか、バスルームに消えていった。
思わず、ため息が零れる。幸野が、なぜユーゴを呼んだのかなどわからない。でも、今すぐにでも追いかけて抱き締めたい思いに駆られて、ユーゴは泣きそうになった。それを、許されていないわが身に。
ユーゴはその思いを振り切るように、キッチンに向かった。最近は、幸野も少しは野菜などを買うようになったようだが、仕事が忙しいのだろう。毎日料理をしている風ではない。
ただ、誰かのために。
幸野は、料理を習っている。
冷蔵庫の中に、トマトと卵を見つけて、ユーゴはそれでスープを作ることにした。幸野は、食欲がありそうな雰囲気ではなかった。必要なのは、優しくて温かい食事だ。そう、あのときの自分が欲していたように。
トマトを丸ごと一つ使って、ユーゴはスープを作った。ユーゴ自身もお腹がすいていたわけではなかったが、一緒に食べようと思っていた。温かくて優しくても、一人でする食事は切ない。
シャワーを浴びた幸野は、温まった所為か顔色は戻っていたが、冴えない表情は相変わらずだった。だが、その理由は、何も語らなかった。
ただ、こんな風に呼び立てたのは、ルール違反だな、と謝られた。ユーゴはそんなことはないと、何度も首を横に振った。実際、呼び出す理由などなんでもいいのだ。ある程度の仕事をしていれば、本部からは何も言って来ない。
それでも悪かった、と言ったときの幸野の切なげな瞳と、トマトと卵のスープを美味しいと微かに笑ってくれたその顔が、ユーゴの胸をいたく軋ませた。
それから一週間ほど、幸野からの呼び出しはなかった。ユーゴはやはり体調を崩したのではないか、と心配になったが、自分からはアクションを起こせないのがweb electroの世界だ。心配ながら、何も出来ない日々が続いた。
「そう言えばユーゴ、幸野さんに料理教えてるんだって?」
雑誌担当のタチバナに声を掛けられたのは、そんなときだった。実は彼の姿を見かけるたびに、幸野のことを聞いてみたいと思っていたユーゴは、必要以上に驚いて、頷くのが精一杯だった。タチバナはそんなユーゴの様子に小さく首を傾げてから、すぐににっこりと笑顔になった。
「かっこいいよな、幸野さん」
それはどう答えるべきなのか。ユーゴは耳の先が熱くなっているのを自覚しながら、また頷いた。客観的に見ても、彼はかっこいい。
タチバナは抱えていた雑誌をテーブルにどさりと置いて、柔らかいクッションが評判の椅子にゆったりと坐った。
「あ、あの、最近、呼び出しあった?」
「あったよ?えーと、ああ、二日前」
「あの、元気だった?」
思わず勢いづいて、ユーゴはテーブルに乗り出した。タチバナはそれを面白そうに見てから、元気だったよ、と答えた。
「良かった」
ほっと息を吐いて、ユーゴは椅子に坐る。だが、タチバナが続けた言葉に、また腰を浮かせてしまった。
「でも、なんか二三日寝込んだみたいなこと言ってたけどね」
「え?本当に?」
「うん。なんか風邪ひいたって」
ああやっぱり、とユーゴは表情を曇らせた。あれだけ冷たくなっていたのだ。あのとき、引き止められるままにスープを飲み、お酒にも付き合ったが、それより幸野は、早く寝るべきだったのだ。
自分はいつまで経っても、シギのようにはなれない。あんな風に、絶妙なタイミングで手を差し伸べたり、言葉を与えたり出来たらいいと、ずっと思っている。でも、少しも届かないのだ。
「……何?何かあった?」
興味津々、といった顔で尋ねられて、ユーゴは「な、何も」と首を振った。
「ふーん。なんかさ、幸野さんもユーゴのこと気にしてて。なんか突然呼び出したとか、無理なお願い聞いてもらったとか……」
俺だっていつも突然だし無理なお願い聞いてるっつーの、とタチバナは不満げな口調で言ったが、顔は笑っていた。
「無理なって……別に、そんなことなかったと思うけど……それに、突然なんて、仕事だし」
「そうなんだよな。でも、いつも約束してるからって言ってさ。まあ、普通は約束なんてしないし、そう言う仕事だって言ったらなんか納得してたけど」
今更だよ、とタチバナは可笑しそうに笑う。
そう、仕事なのだ。あくまでも、幸野は客でありユーゴは担当なのだ。
あのとき、幸野はきっと、誰でも良かったのではないか、とユーゴは思う。温もりを与えることが出来たなら、誰でも。ユーゴはそう言うときに呼び出されることが良くあった。人肌寂しいときなどに、女ほど面倒がなく、でも女と同じことが出来る――料理などは、女以上に出来る――ユーゴを重宝がる男は、確かにいた。
それと幸野を同列に並べるには抵抗があったが、ユーゴは自分自身がそう言った雰囲気を持っているらしいと、自覚していた。それを嬉しいと思ったときもある。そして、寂しいと思ったときも、ある。
「あの人さ、見かけに寄らず不器用だろう?料理、大丈夫なの?」
組んでいた足を解いて、タチバナは少し前屈みになって聞いてきた。綺麗に染められた銀色の髪が、さらりと揺れた。
「まあ、ユーゴが手取り足取り教えてるなら、大丈夫か」
答えないうちに一人納得されて、ユーゴは開きかけた口を閉じた。
「ん?」
タチバナはでも、そんなユーゴの様子をきちんと見ていて、言い掛けの言葉を促してくれる。サービス担当たちは、基本的に人の話を聞くのが上手い、とユーゴは自分を振り返って反省してしまう。
「え、うん。幸野さん、別に不器用じゃないと思うんだけど」
「そう?」
「う……」
確認されてしまうと、強くは言えない。確かに、幸野の手先はあまり器用とは言えないかもしれない。それでも一生懸命で、ユーゴは切なくなるのだ。そうして作られた食事の、なんと美味しいことか。
――一番は、食べてくれる人のことを考えて作ること。自分だったら、自分のことを、ね。
シギはよく、料理の極意を、まるでもの凄い秘密を言うかのように、大切そうに、そう言っていた。ユーゴもそれを、信じている。
「ユーゴのことをね、すごく誉めてたよ。あんなに器用になんでも作って、魔法みたいだってね」
くすくすと笑って言うタチバナに、ユーゴはほんのり赤くなる。
「そんなに大したものなんて作ってないのに……。それに、タチバナのこともスカウトしたい位だって、誉めてた」
「はは、そうなの?今や俺たち、議論戦わせたりして、競い合ってる感じだからなあ。ふーん。一応少しは認めてくれてるんだ……」
少し伏目がちにそう言ったタチバナはどこかくすぐったそうで、ユーゴはそれを羨ましそうに眺めた。彼とライバルだなんて、そんな対等な立場に立てるタチバナはやはりすごい。
「まあ、幸野さんはすごい人だよ。あの人、輸入家具会社やってる人でさ。今ではインテリアコーディネーターとかもしてて、その業界では結構知られてるんだ」
「タチバナ……」
客のことをぺらぺら喋るなんて、担当失格だ。タチバナはぺろりと舌を出して、知らなかった?と言った。ちくりと、胸が痛む。
「インテリア関係だってだけ……仕事の話は、あまりしないんだ」
深入りしないように、とユーゴは幸野に関する好奇心は押さえ込んでいる。だから、色々聞きたいことはあっても、自分から尋ねることはしない。
会社をやってる――つまり、社長なのか、とユーゴは幸野の佇まいやシンプルながら瀟洒なマンションの部屋を思い浮かべた。
「そっか。まあ、すごい忙しい人だから、それもいいのかもな。俺と会っているときだって、仕事の一環なわけだし」
タチバナはそう肩を竦めて、これは本当にトップシークレットなんだけど、とユーゴを手招いた。首を傾げながら耳を貸したユーゴは、タチバナの言葉に、大きく目を見開いた。
「あの人、実はSランクなんだよ」
遠いと思った人との距離が、とてつもないものだったのだと、ユーゴはそのとき知った。
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