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壊レカケノ月 四
結局、ぐずぐずとした天気の中、いつ始まったかもわからないまま、梅雨入りになった。景一は、母に頼まれた使いごとで、久しぶりにあのアパートの前を通りかかった。
しかし、そこは廃墟のようになっていて、景一は思わず足を止めた。人の住んでいる気配が、ない。門から入って、階段を上るまで、ぬかるんだ土の上に足跡はなかった。周りの木々だけが、いやに鮮やかに、瑞々しく生い繁っていた。
左から、二番目。あの夜には見えなかった、古ぼけた戸の前に立って、景一はどうしようかと迷う。戸を叩いても、もし中に人がいたら、なんと言うつもりだろう。そんな風にぼんやり考えていると、突然、景一君じゃないか、と言う声がした。声のほうを見ると、島津が下から手を上げた。さしている傘がひどく小さく見えるのは、本人の身体が大きいからだろうか。
「何をしている」
降りて来い、と言う風に手をひらひらされて、景一は頷くと、階段をかんかんと音をさせて降りた。庇がなくなって、傘を広げる。雨は、先刻より激しくなっている気がした。
「どうしたの」
聞かれて、景一は目を伏せながらも、ちょっと通りかかって、と言った。傘を持っていないほうの手には、母親に頼まれた用事先から預かった風呂敷包みを持っていたから、島津もそうか、と呟いただけだった。それから、景一を促して歩き出す。
「今なぁ、あそこ、誰もいないんだ」
島津の身体に似合わない弱々しい声に、景一は嫌な予感がしながら、島津を盗み見た。困ったように、自分の交互に出てくる足先を見ている。
「能瀬さん、あそこに住んでいらっしゃったのかと思いました」
景一は、わざとそんな風に無邪気な振りをした。聞きたいような、聞きたくないような気分だった。
「うん。住んでいたさ。でも、この間出征した。」
島津はそれでも、言葉を濁さずにそう言った。それは、彼らにとっては特別なことでも、なんでもなかったからだ。大きな、皮肉ではあったけれども。
「そうですか……」
景一は呟きながら、そうだった、と忘れていたことを思い出す。兄も、柏木も、そしてこの島津や上江も、いつかはそんな風に行ってしまうかもしれない。いつまでも今のままなら、自分だってわからない。いや、自分はかまわない。でも、残されていくのはたまらないな、と思った。そういえば、兄の静は検査に合格しているのだろうか。別に病気をしているわけではないし、何の疑いもなく通っているだろうが、景一はそんな話を聞いたことがなかった。
言わないのだろうな、と景一は思う。また、子ども扱いをして。両親とは話しているかもしれないが、景一には、きっと言わない。ぎりぎりになって、ちょっと行ってくるから、と笑うのだろう。
堪らない。
そんな風なのは、堪らない。
島津とは、途中で別れた。大学は今やっと授業が再開されたが、またそのうちどこかの工場にでも行かされるだろう、と言うことだった。
家の近くで、柏木と会った。今日は色々な人に会う。
「濡れますよ」
傘もささずに煙草を吸っていた柏木に、景一がそう傘をさしかけると、柏木はやっと気付いたかのように、景一を見た。じっと、見つめられる。この人の瞳は、ずいぶん澄んでいると、景一は初めて気付いた。少し、怖いくらいに。
「家に行ったんだ。君がいなくてね……」
ぽつりと、呟く。髪はしっとりと濡れていて、その黒さをいっそう増していた。少し長い。
動きそうもない柏木の肩に手をのせて、景一は行きましょう、と促した。そのとき触れた肩があまりにも冷たくて、景一は驚いて急かす。
家に帰ると、両親は隣町の叔母のところへ行く、と置手紙があった。その叔母は、前から身体を弱くしていて、叔父を戦争に取られてから、小さな娘一人と住んでいた。何度か家に来るようにも行っていたようだが、叔父が帰ってくるからと、その家を離れようとはしなかった。
「まったく、あなたもわからない人だ」
湯を沸かすために火をつけて、景一がそう言いながら戻ってきた。手に持っていたタオルを柏木に差し出すが、受け取っただけで、拭こうともしない。ぼんやりと、すぐ軒下の紫陽花を見ている。雨に濡れた紫陽花は、確かに艶やかに綺麗な青色をしていた。景一は小さくため息をつき、もう一度タオルを自分の手元にとって、小言を言いながらその髪を拭いた。
「傘がないなら、何もあんなところで待っていなくてもいいでしょう?どこかの軒下とか、家の玄関……」
そこまで言って、景一の手が止まった。止まったと言うより、柏木に手首を掴まれて、動けなかった。見つめられた目が、ふらりと揺れた。二人の影が、畳の上に伸びている。小さな電球の頼りない光は、影さえもはかなく映していた。
「柏木さ……」
「うるさいな」
柏木は笑いながらそう言って、また何か言おうとした景一の唇を、塞いだ。濡れた、冷たい唇だった。ふと離れて、また触れられる。景一は敵わないと思いながら、手を動かして離れようとした。それがあっさりと受け入れられて、唇は離されたが、手首は掴まれたままだった。自然、近い距離にある柏木の顔を見られずに、景一は目を伏せて、気が済みましたか、と呟いた。
柏木は、ふっと手を緩めて、笑い出した。先刻までの憂いに溢れた雰囲気が嘘のように、腹を抱えて笑っている。景一は憮然とその場に立っていた。
「いや、ごめん。まったく、兄弟して食えないなぁ」
笑いをとめずに、柏木がそう言うので、景一はなんだか馬鹿らしくなって、柏木を置いて湯加減を見に行った。
「ごめん、怒らせたかな」
柏木が、そう言いながらついてくる。景一はそれを無視して、すたすたと廊下を歩いて、風呂場へ向かった。別に、怒っているわけではない。
「景一君」
「お湯加減良いみたいですから、どうぞ」
景一がそう言うと、何か言いかけた柏木は小さくため息をついて、ありがとう、としおらしく言って見せるのだった。
柏木が風呂に入ると、景一は台所に行って食事の用意をしようとした。両親は、今日は帰ってこないかもしれない。廊下から、ふと先刻の客間を通りかかって、景一は突然、思い出したように唇に触れて、紅くなった。軽く触れて、離されて、再び触れてきたあの柏木の唇の感触を、景一はしっかりと覚えていた。そして、冷たい指の感触も。
唇を触っている左手の手首を、右手で掴む。柏木の手はあんなに冷たかったのに、自分の手首は熱い。景一は、忘れてしまおうと、きゅっと唇を噛み締めて目をきつく閉じた。
怖かった。柏木を求める自分が、とてつもなく、怖かった。あのとき必死に抵抗したのは、そのまま流されて、自分からしがみつきそうになったからだ。
景一は、柏木は兄が好きなのだと、信じて疑っていなかった。
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