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papillons
6.思い出づくり
「暑いなぁ……」
哲(さとし)はそう言って立ち止まり、額に手をかざして空を仰ぎ見た。真夏に似合いすぎるほどの入道雲が見えて、小さく息を吐いた。一緒に歩いていた明良は止まらず、追い越して目の前を歩いている。白いシャツが背に張り付いて、その細い骨格を浮かび上がらせていた。
図書館に行こうと言い出したのは明良で、家の中では少しも進まない宿題を写し合うことを期待して、哲はそれを承知した。明良は何故か、互いの家に行くことには気が進まないようだった。去年の夏休みは、わりと二人の家を行ったり来たりして宿題を手分けしたりしていたのに、今年は明良が何かと外に出たがって、図書館やファーストフード店やファミリーレストランに行くことが多かった。
「なぁ……海、行こうか」
「え?」
ずいぶんと前に行ってしまった明良の声が聞こえずに、哲は仕方なく歩を早めた。
「海って言った?野郎二人で?」
「先生誘えばいいじゃん」
「それもなぁ……保護者付きみたいで」
哲のその答えに、明良は鼻で笑う。どうしてそこですぐに保護者、となるのだろう。明良は少なくとも「親しい」と言う含みをこめたのに、当の本人はそれを微塵にも感じないとは。
明良は西里和巳――と、渡された名刺に書いてあった――を不憫に思う。哲がこんな風であるのと同時に、和巳の妻である杏子も、哲を生徒のような、弟のような風に見ている節がある。なんて「危ない」関係なんだろう。明良はふとそのことに気づく。それはなんて、汚らわしく、危険な関係だろう。
それでも、二人は許される。二人の中で、二人の関係は、許されている。いとも、簡単に。
「蛙が殺された
子供がまるくなつて手をあげた、
みんないつしよに、
かわゆらしい、
血だらけの手をあげた、」
明良は立ち止まって、空を見た。あまりの眩しさにかかげた手は、白く鈍く、強すぎる日の光を受けていた。
「明良からの呼び出しは初めてだな」
博紀(ひろのり)がそう言うのに、明良はそうだった?とそっけなく答えた。ただ、誰かに抱かれたかったのだ。今の明良には、思考を奪ってくれるものは、こんなことしか思いつかなかった。
博紀が明良を明良と呼ぶようになったのは、いつからだっただろう。最初は、君、とかそんな風に呼んでいただけで、名前など呼んでいなかった。そして名前を呼ぶときの博紀の声はあまりに親しげで、明良を辟易させた。
愛しげに、という形容が似合う指の動きにイライラして、明良はいいからさ、とため息をつく。
「いいからさ、早くいれなよ」
そう言うと、博紀がゆっくりと微笑むのが見えた。前髪を掻き揚げられ、煩そうに明良は首を横に振る。
「そんなに欲しいなら、自分でいれれば?」
苦笑しながらそう言うと、博紀は明良を起こして、自分が仰向けに寝転がった。明良は笑いもせずに冷たくちらりと博紀を見ると、まるで玩具のように博紀を掴むと、そこに身を沈めた。その視線に、博紀はぞっとする。なんて、なんて艶やかな目をするのだろう。
空調の音が響いていた。その中に、湿った音と声が混じって、それは博紀の思考を少しづつ冷めたものにした。今までだって見えていたのに、確信することを避けつづけていた物が、はっきりと目の前にあった。
「明良」
「うるさい」
「明良」
「うる、さい」
博紀の声を拒否するように、明良は動きを激しくする。それが堪らず、博紀は明良の腕を掴むと起き上がって、明良を組み敷いた。明良が一瞬驚いたように博紀を見つめ、ふいと視線を逸らす。規則正しく、その胸が上下する。
まったく、分かっているのだ。明良はみんな、分かっている。
「好きな子がいるだろ」
明良は、答えない。
「その子に彼女でも出来たか」
博紀のその声は、どちらかと言うと同情的な響きを持って明良の耳に届いた。明良は博紀の腕を掴むと、まだ繋がったままだった身体を離した。
そんなことではない。
もっと汚らわしい、危険な関係を持っているのだ。
そう思っても、ずるりと男の身体から離れた感触に、自分がどれほど汚らわしくないと言うのか、明良にはわからなかった。
「愛人になれって言いなよ」
「明良?」
「お金とか要らないからさ。愛人」
お金とかね、と博紀は呟きながら立ち上がって、テーブルの上のウイスキーをとぽとぽとグラスに注ぐ。溶けかけた氷が、からりと硬い音を立てた。
「とか」のあとには、なにが続くのだろう。窓の外の林立するビルを眺めながら、博紀は苦笑する。何も、何もいらないのだろう。欲しいのは、自分の欲求を埋め、快楽を与える相手なのだ。いや、そこには温もりさえもいらないのじゃないか。
「若いって残酷だよな」
「大人はずるいだろ」
まったく悪びれない、明良の声が即答する。
「愛人はいらない。友達だな」
くいっとウイスキーを飲んで、博紀は自分の諦めの悪さを笑う。大人はずるい、確かにその通りだ。今手放して、明良をいくらでも深みから救い出すことができるのに。
でも、と博紀は思う。
そう遠くない、いつか、明良は自らこの手を離れていく。
それを分かっているから、もう少しだけ、その手を掴んでいてもいいじゃないか。
車はいつものコンビニで止まることはせずに――そこで明良だけが降りて帰るのだ――明良を家の前まで送っていった。何のつもりかと言ったら、友達だから、と笑われて、明良は呆れたようなため息を漏らした。ため息をつきながら、明良は何故阿久津博紀と長く続いているのかわかる気がした。この強引さは、ときどきひどく心地がいい。車からの降り際に、どんな子だかわからないけど、と博紀が言った。
「どんな子だかわからないけど、大事にしなよ。明良を唯一、まともにしている人間だから」
どういう意味か聞く前に、博紀はそれじゃぁまた、と言ってエンジンをかけた。――唯一、まともにしている?
その顔は、仄かな車内灯に照らされて、驚くほど優しく見えた。
ぽつりと一人で取り残されたように家の前に立って、明良は博紀の言葉を繰り返した。
――まともにしている人間?
まったく阿久津は油断がならない。いつだって、確信を持った言葉で明良を翻弄する。
そんなときは考えても仕方が無いとわかっているから、明良は暗い家へと向かった。今日も働き者の母は帰らない。それだって、働いているだけではないことは明良もわかっているのだが、わざわざ波を立てるようなことはする気はなかった。そう、何もかも、考えたって仕方がないのだ。そう思いながら顔を上げて、明良はびくりと立ち止まる。薄暗い闇の中に、じっと自分を見つめる瞳があった。
「どうしたんだ、こんな時間に」
ねっとりと暑い夏の夜の空気が殊更濃くなった気がして、明良はそれを振り払うように歩を進めた。阿久津とホテルを出たのが十一時過ぎだったから、もう真夜中に近い時刻のはずだった。
「海、行こうって言ったから」
哲は足を投げ出して、何の色ものせていない瞳をして呟いた。そこには明良が映っている。ただ、目の前の明良を映している。明良は少しだけ動揺して、その哲の目の前に立った。途方に暮れそうになる明良を、阿久津の言葉が意識を戻させる。
――明良を唯一、まともにしている人間だから。
そうだな、と明良は呟いた。
「そうだな、海、見に行こうか」
すっと差し伸ばした手を、躊躇せずに握って、哲が満足そうに笑った。
駅につくと、ぎりぎり最終らしき電車に乗って、二人は広々とした車内で六人がけの椅子の真ん中に座った。まるで、自分の家のソファーに座るがごとく。ほかに数人いる乗客は一様に疲れたように座っていて、二人は夏休み中の優越感をこっそりと味わった。
どちらともなく、なんとなく肩を寄せ合って互いに支えあうように座ってぼんやりと外を見ていたその時間を、明良は生涯忘れないだろうと思った。それほど、車内には幸福な匂いがしていた。
まるで幼い兄弟が家出を決行したように、互いに寄りかかる二人が反対の車窓に映る。外のきらびやかな街とは反対に、薄ぼんやりとした車内は、ひどく居心地が良かった。
なんとなく話すこともなくて、二人は黙ったままだった。ごとん、ごとん、と響く電車の音が幸福感を増大させる。でもそれは同時に、ひどく切なさを伴った響きだった。
人のいない車内は冷房が効きすぎて、寒いくらいだった。
触れ合う肩の温もり。
窓に映った影越しの視線。
ほの暗い灯り。
座り心地のあまり良くないイス。
その手触り。
みんな、みんな、きっと忘れないだろう。
海岸まで、たっぷり一時間近く歩いて、二人は真っ黒い海についた。そこには真昼の残骸があちらこちらに散らばっていて、ほとんど満月に近い月明かりに照らされていた。それは痛々しくもあり、誇らしげでもあった。
微かな海風が、歩いた二人に心地よく吹く。二人は海岸に降りることなく、コンクリートの防波堤に腕を乗せて、その海を見ていた。絶えることのない海のざわめきと波を、飽きることなく見つめる。
ずっと、こんな風に時が流れればいいのに、と明良は思う。二人で、波の音を聞いて、風に吹かれて。
そんな風になるには、二人が出会うには早すぎたのだ。
明良は急にそんな思いにとりつかれて、目の前の腕に顔を半分沈める。時折遠くで車の音がしていたが、近くを通る車はなく、道路に転々と設置された街燈が嘘っぽく灯りを落としていた。
「それはなつかしい、おほきな海のやうな感情である。」
「それはなつかしい、おほきな海のやうな感情である。」
明良を真似て、哲も呟きながら、もう杏子と抱き合うことはないだろうと思った。
「詩だろう?続きは?」
聞くと、明良は真っ直ぐ海を見たまま、はっきりとした威厳ある口調で続きを唱えた。
「道ばたのやせ地に生えた青樹の梢で、
ちつぽけな葉つぱがひらひらと風にひるがへつてゐた。」
ちつぽけな葉つぱが……と繰り返して呟きながら、哲は目の前の僅かに遠い白い波頭を見つめた。さっきまでの、電車の中の幸福感を思い出す。世界にまるでたった二人しかいないような錯覚をしながら、それを怖いとも思わずにいた、あの幸福感。どこまでも、永遠に続くかのように思った、あの時間。
それはきっと、この夜が明けたら目の前の真っ暗な海さえも、健康で明るさに満ちた海岸になるように、儚いものなのだろうと、わかっていた。
それでも、そんな幸福な空間と時間があったことだけは、きっと忘れないだろう。
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