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琥珀に沈む月
05

 俺は早速翌週、土日に休みを取った。
 土曜日の朝は、すっきりと晴れた。俺は嬉しくて、電車の窓から空ばかり見ていた。子供みたいですよね、と朗は微笑んだ。まるで、自分が本当に子供になったかと思ってしまう、安心させるような笑顔。向かい合って坐った膝が、ときどきぶつかった。
 途中の駅で、立ち食い蕎麦――俺は天ぷらで朗は月見そばだった――を食べて、また電車に乗る。お腹が一杯になった俺は、今度はうとうととした。
 朗と、手を繋いで歩いている夢を見た。
 たぶん雲の上で、下を見ては、俺はやっぱりはしゃいでいた。ほら、あそこに朗の家が見える。まだ見たことがないのに、俺は懸命に指差して、朗に教えようとしていた。違うよ、もっと右だよ。そうだよ、あの赤い屋根の家の隣、青い屋根の家――。
 ひどく、幸福な夢を見た気分だった。
「なあ、朗の家って青い屋根?」
 突然訊ねた俺に、朗はわずかに首を傾げた。
「いえ、黒い瓦屋根ですけど」
「隣の家の屋根は赤い?」
「……確か、茶色と青だった気が」
 なんだ、夢は何一つ当たっていないらしい。
「どうしてですか?」
「いや、ちょっと知りたくなったんだ」
 電車は緑の中を走っていく。いつの間にか、山の中にいるようだった。
 降り立った駅は、小さくてがらんとした駅舎だった。改札が一つしかない。駅舎の中の壁に、不釣合いなほど新しい防犯ポスターが張ってあった。
 迎えが来ているはずです、と朗は言った。きょろきょろと駅前の道を見て、ふいに顔を綻ばせる。視線の先には、一台の小さなワゴン車が停まっていた。その後ろの扉ががらがらと開いて、二本の三編みを下げた女の子が走ってきた。小学生だろうか。一直線に朗に向かって来たその子は、飛び込むように朗の腰に抱きついた。朗が笑いながら、その頭を大きな手で撫でる。
「ただいま」
 そう言った朗の声は、とても柔らかく優しかった。その一言で、彼がこの女の子をとても大切にしているとわかる、声だった。
「隆(たか)は? 家?」
「うん、中兄ちゃんはお留守番」
 彼女は、「ちゅうにいちゃん」と可愛らしい声で言った。
 それから朗は、車に向かいながら、俺を彼女に紹介してくれた。妹の直(なお)。小学校三年生。
「違うよー。この間四年になったもの」
 そう言えば、学校は新学年を迎えている。朗が「そうだった」とぺろりと舌を出して、笑った。そんな顔もするんだと、俺は驚いた。
 車に乗り込むと、朗は祖父を紹介してくれた。お祖母さんは、昼食の用意をしてくれているとのことだった。朗よりずっと小柄なお祖父さんは、よく来たよく来た、と俺を朗と同じにばんばんと叩いた。
 朗の家は、確かに瓦屋根だった。古い農家で、大きな家だった。俺は土間と言うものを初めて見た。ぽけっと家を見上げた俺を、朗が笑う。口、開いてますよ、と言われて、慌てて閉じた。
 弟の隆くんは、中学生三年生だった。朗によく似た、長身の男前だった。俺を見て、少しだけ驚いたような顔をした。直ちゃんも、車の中でちらちらと俺を見ていた。思い当たることはあるから、俺は苦笑した。
 髪はアッシュグレーで、耳には左右合計五つのピアスをつけている。服は一応おとなし目のものを持ってきたが、この山間の風景には全く似合わない、格好だった。だが、朗のお祖父さんもお祖母さんも、にこやかに俺を迎えてくれた。ああ、この人たちに朗は育てられたのだと、納得した。直ちゃんも、見慣れたのか、もう気にしていないようだった。
 両親のことは、訊かなくてもわかった。朗は帰るとまず最初に、仏壇の前に正座して、線香をあげた。
「俺も、あげさせてもらっていいかな」
 朗が振り返ったところでそう言うと、朗がゆっくりと笑った。「ありがとうございます」と、とても丁寧に頭を下げる。
 朗を生んでくれて、ありがとうございます。
 俺はそれだけを伝えたかった。手を合わせて、目を閉じて、いつも朗が話すときのように、心を込めて、声に出さずに呟いた。見上げると、穏やかな笑顔の二人の写真が目に入った。別々の写真ではなく、並んで映っている。その意味するところを、俺はなんとなく感じた。


 朗の家で過ごした日は、俺の生涯の中で、最も美しい思い出の一つだと思う。直ちゃんと学校に一輪車を乗りに行ったり――彼女が今一番「はまっている」ことなのだそうだ――隆とサッカーしたり、みんなで川釣りをしたりした。俺の今までの人生が、全て悪い夢だったのかと思うくらい、笑い転げて遊んだ。直ちゃんには「春都お兄ちゃん」と呼ばれて、柄にもなく照れた。お祖父さんとお祖母さんには、彼らと一緒くたにされて、子供のように扱われた。怒られて、隆と目を見合わせて小さく肩を竦めたりした。
 こんな生活があるんだ。
 こんな、幸福があるんだ。
 俺は、そのことをすっかり忘れていた。


 広い家は、夜になると少しだけ淋しい。直ちゃんたちは、これで朗がいないときなど、心細い思いをしているんじゃないか、と思った。でも、朗にそれを言ったら、柔らかく微笑まれた。
「あれで、あいつらも今時の子供ですから。煩いのがいなくていいと思ってるんじゃないですか」
 確かに、朗は色々口煩く言っていた。でも、二人がその愛情を間違えていることはないだろう。
 客間に朗が布団を敷いてくれたときには、もうすっかり夜も深くなっていた。とても静かだった。外は真っ暗で、ひどく静かで、これが夜なのだと改めて知った。
「淋しいのは湯野さん?」
 からかわれるように言われて、俺は朗を睨んだ。だが、反論はできない。
「静かすぎるんだよ……。昼間、あれだけみんなと一緒にいたし。そういうの、久しぶりだったから」
 東京の自分の部屋では、歪んだ息苦しい空気が沈殿しているだけだ。例え恭司がいても、お互い息苦しさに喘いでいる。
「ありがとな。すげー楽しかった」
 あの息苦しさに押しつぶされそうになっていたのだと、俺はようやく気付いた。でも、そうして喘いでいるだけなのだと、それさえわかっていないのが俺と恭司だった。
「それは良かったです」
 布団をばさりと広げながら、朗はそう微笑んだ。その横顔に、胸が軋む。泣きたいような気分になって、俺は突っ立ったまま、その朗の横顔を見つめていた。
 小さな電球の明かりが、部屋を薄黄色に照らしている。すっと流れる、朗の眉毛。男らしい、顎のライン。形のいい耳。真っ直ぐな、目。すぐ目の前にあるのに、絶対に手に入らないものを見ているようだった。
 布団を敷き終わった朗が、立ち上がった。それから、俺に何か言おうとした。でも。
 ふいっと俺を見て、朗は開きかけた口をゆっくりと閉じた。ぱちりと、瞬きをする。
 俺は、その朗から目を離せなかった。それは、まるでもの凄い美人が目の前を通ったときのような、夜中に幽霊に遭ってしまったときのような、そう言う吸引力だった。薄明かりの中の、ものすごく美人の幽霊。
 気付いたときには、朗の顔は目の前にあって、唇は重なっていた。条件反射のように、俺は目を閉じた。キスをするとき目を閉じるのは、その唇や舌の感触に集中するためだ。頭のてっ辺から足の先まで、この熱さと柔らかさを浸透させるため。
 俺は必死で舌を絡ませた。支えが欲しくて、目の前にある朗の腕のシャツを掴んだ。
 唇の熱が、ゆっくり背中を落ちていく。舌の柔らかさが、足先へ感染していく。
 がくりと足を折って膝を布団についたところで、朗にそのまま仰向けに転がされた。
 俺が何か言う前に、また口を塞がれた。髪をくしゃりとかき回されて、気持ち良さに鼻から声が抜ける。その手と唇と舌の感触を追いかけていたら、パジャマのボタンが外されていった。唇が離れて、はあっと大きく息を吸う。それと同時に、熱い唇が首筋に押し当てられた。
 朗、と名を呼ぶと、ようやく顔を上げてくれた。
「いいの? 下、みんないるんだよな」
 俺の言葉に、何を心配していたのか、朗は一瞬ほっとした顔をして、大丈夫です、と頷いた。
「もうみんな寝てる時間だし、ここは一番離れてますから」
 朗がいいなら、いい。俺もほっとして、微笑んだ。
「電気、消して欲しい」
 それからそう頼むと、なんで? という顔をされた。
「朗って、奥手で恥かしがりやなんじゃないの?」
 それなのに、電気をつけたままの明るい中でするの? そう言うと、朗は目尻と耳を赤くした。それからすっと立って、電気の紐を引っ張って、豆電球だけにした。オレンジ色の優しい光が控え目に部屋を照らす。
「白状していいですか」
 ふと訊かれて、俺は寝転がったまま、軽く首を傾げて目で先を促した。
「俺、男の人とするの、初めてなんです」
 どことなく、照れたような声。それが、俺の耳にはひどく甘く響いた。
「それは、光栄だ」
 俺が笑うと、朗もはにかむように笑った。
 ゆっくり、重みが掛かってくる。絡んだ足先が、冷たかった。
 ゆったりとした、丁寧なセックスだった。朗はいつでも、物事の正しいあり方を示してくれる気がする。セックスでさえ。
 何かを癒すかのようなセックスは、初めてだった。快楽だけではなく、胸の奥底で震えるような、そんな行為だった。
 今でも、このときのセックスを思い出すと、蕩けそうになる。
 この一度だけで、俺は、セックスとは幸福な行為なのだと断言できるようになった。


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