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遠景涙恋 番外――水鏡


05

「始まりは、恋文だったのです」
 恋文――真面目で、どこまでも裏方に徹する斥候には似合わない言葉だが、リーフィウはすぐに彼に宛てた手紙の仲介をしたことを思い出した。
「それは、イーナさんからの……?」
 はい、とハリーファは頷いた。
「イーナ殿が、あの手紙をリーフィウ様に預けたことで、多くの人の誤解が生まれたようです」
「誤解――」
「あの茶屋でも、彼女との仲を疑っていた者がいらしたでしょう」
「おじ様」たちのことを思い出して、リーフィウは「あれはでも……」と首を振った。
「はい。イーナ殿も誤解だとおっしゃってくださったようですし、そのうちに彼らも自分たちの勘違いに気付くでしょう。そもそも、悪意のあるものではありませんから」
 リーフィウは頷いた。大げさにするのも馬鹿馬鹿しい、当事者でなければ微笑ましい話だろう。
「彼らの誤解は、放って置いても構わないでしょう。ですが……」
 ハリーファはリーフィウをちらりと見ると、目を伏せた。
「他にも、同じような誤解をなさっている方がいらっしゃったのです」
「他にも?」
「はい。リーフィウ様、茶屋の客が話していた男、覚えていらっしゃいますか?」
 男、と呟いて、リーフィウは思い出そうと首を捻った。
「彼が言うところの、恋敵です。イーナ殿がリーフィウ様に手紙を渡したときに、見ていた男です」
 ああ、とリーフィウは頷いた。確か、ハリーファが気になるから調べると言ってくれていたはずだ。
「その男は、リーフィウ様の恋敵ではなく、イーナ殿の――と言っても勘違いですが――、彼女の恋敵だったのです」
 リーフィウが眉根を寄せて立ち止まると、ハリーファも立ち止まった。二人の目の前には、小さく質素な扉があった。
「実は、男の素性をなかなか掴めずにいたのです。彼女の周りには、該当するような男はいませんでしたし、あの後現われた様子もありませんでした。それで、リーフィウ様を狙う者がいるのでは、と心配になったのですが」
 ハリーファがふいに口を閉じてリーフィウの背後を見やった。振り返ると、廊下の端からイーザが厚い生地の外套を持って小走りにやって来るのが見えた。リーフィウが差し出された外套を着ると、ハリーファは扉横にあった松明を手にし、火打石で火を点けてから扉を開けた。外の冷たい空気が、顔を叩く。リーフィウは慌てて襟元を掻き合わせた。
「それで、男の正体はわかったのでしょうか」
 ハリーファは鍛錬している所為か、少しも寒そうではない。姿勢良く歩きながら「はい」と微笑んだ。
「とても、身近な方でした」
 二人は、王宮の壁沿いを歩いていた。行く手には、鬱蒼と繁る森の暗い輪郭が聳え立っていた。月明かりは薄く、暗闇が濃い。夜に見る森は、昼間よりずっと近くに見えた。
「身近……」
「あの日、キーファ王は北部の村々の首長と会い、色々な報告を聞く予定でした。ですが、前日の天候が悪く、首長たちが会議に間に合わなかったのです。結局、その日の会議は取り止めとなりました」
 リーフィウが「まさか」と顔を上げると、ハリーファが頷いた。そんな風にふいに時間が空くと、キーファは良くリーフィウのもとを訪れる。
「あの日も、王はリーフィウ様のもとを訪れたようです。もちろん、街に出ていていませんでしたから、部屋で会うことは叶いませんでした」
 松明の焔が風に吹かれ、二人の影が揺らめいた。あの日、本当ならばキーファに会えるはずだった。だが、あの日リーフィウが会ったのは、サミア姫だった。
「王は、リーフィウ様の後を追って、街に出たそうです」
「そこで、あの場面を見て、誤解した……」
 二人は、右へ曲がった。遠く、松明の明かりが見える。そこでようやく、リーフィウは王宮の正門がある南側へ向かっているのだとわかった。
「でもそれならば、ハリーファ殿が原因と言うのは違います」
「いえ、その手紙のことをきちんと報告するべきだったのです。ですが、私はしなかった。そのために、こんな事態になってしまったのです」
 ハリーファは、リーフィウの周りに怪しい人物がいないか、監視する任務も負っている。そのため、他人と接触したときは大概王に報告するのだが、今回はしなかったのだと言う。ことはリーフィウよりもハリーファのプライベートにずっと近い。だからこそ、リーフィウもキーファには手紙のことは話さなかった。はからずとも二人は手紙の一件を隠したことになり、キーファに疑いを抱かせた。
 でも、とリーフィウは思った。その後、自分はキーファと会っている。それなのに、キーファは何も言わなかったし、どころか抱き合ったことさえあったはずだ。その間ずっと、キーファは自分の心変わりを疑っていたのかと思うと、哀しかった。
 リーフィウの相変わらず暗い表情を見て、ハリーファは何か悟ったのか、立ち止まってじっとリーフィウの顔を見詰めてきた。
「リーフィウ様。無礼を承知で申し上げます。キーファ王が何を考え、思ったのか、直接会ってお尋ねください。ご自分が思ったことも、お伝えください。お二人は互いを思うあまり、互いをひどく――悲しませているように思います」
 すっと手が上がり、指し示された先は、厩舎だった。リーフィウは驚いてハリーファを見た。厩舎に近づいていたことはわかっていた。だが、馬に乗って外へ出るのかとは疑っていたが、そこに王がいるとは思っていなかった。ハリーファは頷くと、松明を渡した。
「王宮警備隊の連中も、本格的に白の季節が始まる前に、王にご自分の寝室に戻って頂きたい、と願っているようです。もう、夜はずい分と冷えますから」
 確かに、厩舎の前には警備がいた。厩番の小屋は別にあるのだから、彼らは臨時に警備に当たっているのだろう。
 ハリーファはその警備の間を抜け、厩舎の扉を開けると、リーフィウに中に入るようにと促した。その先について来る気はないらしく、ハリーファはそこから動かない。
 リーフィウは松明を掲げながら、麦わらの落ちている通路を歩いた。キーファの愛馬がいる場所はわかっている。何度か一緒に、遠乗りをしたことがあった。
 ぶるる、と一際大きな馬の鼻息が聞こえて横を見ると、リーフィウが何度か乗った馬がいた。鼻先をそっと撫でてやると、顔を擦り付けてきた。
 キーファの愛馬、ロシュカがいるのは、小屋の最奥の広い場所だった。もうすぐそこに辿り着く、と言う所でリーフィウは一瞬躊躇し、立ち止まった。だがふっと小さく息を吐き出すと、足を踏み出した。
 目の前に立ってみても、最初は柵しか見えなかった。松明を掲げて目を凝らすと、ようやく馬の影が奥に見えた。
「キーファ様」
 キーファのことだ、厩舎に誰か入ってきたことは気付いているはずだ。リーフィウはそれが誰なのか知らせるためにも声を掛けてみたのだが、答えはなかった。
 ここにきて先に進めなくなってしまった。どうしようかと思案していると、ロシュカが近寄ってきた。
 ロシュカは頭の良い馬だ。リーフィウの目の前に来て鼻先を差し出して挨拶を済ませると、右へ方向を変え、ゆっくりと歩いた。数歩進んだところで、リーフィウを呼ぶように小さく鳴き声をあげる。リーフィウがそこへ行くと、戸があった。
 松明を近付けてみると、錠が掛かっていない。リーフィウはロシュカに礼を言うと、そっと戸を押し開け、中に入った。
 ロシュカに先導されるようにして、ゆっくりと進む。数歩いくと、藁が積み重なった山と、そこに乗っている人の影が見えた。
「キーファ様」
 もう一度呼びかけてみる。だが、影はぴくりとも動かなかった。
 リーフィウは近寄ろうと思ったが、藁の山に松明を近付けるのは危険だ。だが消してしまえば真っ暗で、キーファの顔を見ることが出来なくなってしまう。それは嫌だと考えていると、ロシュカが壁際に移動して、こつこつと蹄を鳴らした。リーフィウが近づいてみると、壁に蝋燭台があった。
 いくつかの蝋燭に火を移すと、辺りがぼうっと明るくなった。消した松明をロシュカの水飲み場に浸けさせて貰い、リーフィウは藁の山に近づいた。キーファの影は背中を向けている。
 気付いていないはずがない。だからこれは拒否なのだと思ったが、怯むわけにはいかなかった。
「キーファ様、少しお話をさせて頂きたいと思います」
 リーフィウはそう言うと、キーファの後ろに坐った。藁はごわごわしたような感触だが、坐ってみると暖かい。
「今回のことは、皆さんが誤解だとおっしゃいます」
 何をどう話したらいいのかわからなかったリーフィウは、思いつくまま口を開いた。
「キーファ様は、私と茶屋の娘さんのことを。私は、キーファ様とサミア姫のことを誤解している、と」
 キーファの背中は微動だにしなかったが、リーフィウは構わずに続けた。
「確かに、誤解はあったのだと思います。茶屋の娘さんの手紙は、私宛てではなく、ハリーファ殿に宛てたものでしたから」
 その言葉に、ようやくキーファの背中がぴくりと動いた。
「私の方は、誤解はしていない、と思っています。キーファ様は心変わりなどしていない、と信じています。ですが、サミア姫はキーファ様が王であるために、重要な方であることにはちがいありません。ですから――」
「あなたは、決して私を王と言う立場から切り離しては見てくれないのだな」
 ふいにキーファの声がリーフィウを遮った。それは呟きに近いものだったが、リーフィウはしっかりと聞いていた。しばらく沈黙した後、リーフィウはゆっくりと口を開いた。
「私たちは、カハラム王と、ルク王子として出会いました。キーファ様が王でなかったら、私たちは出会わなかったかもしれません。今ごろ私は、生きていなかったかもしれません。ですから、私はキーファ様が王であったことに、感謝しているのです」
「リーフィウ……」
 静かな、だが力強いその口調に、キーファはようやく体を起こして、リーフィウを見た。
 やっと、名を呼んでくれた。やっと、見てくれた。リーフィウは思わず、キーファの手に自分の手を重ねた。傷痕の残る、大きな手だ。
「キーファ様が王でなくともキーファ様であるように、王であっても、あなたは、あなたです」
 キーファのもう一方の手が、リーフィウの空いている方の手を握った。二人は、互いの温もりを確かめるように、しばらく黙って触れている手を見つめていた。やがて、キーファが顔を上げて、リーフィウを見た。
「そうだな。今まで、自分が王ではなかったら、あなたがルク王子でなかったらと何度も思った。だが、今の立場でなかったら、我々は出会えなかったかも知れない」
 キーファのリーフィウの手を握る力が強くなった。それから、そっと抱き締められる。リーフィウもゆっくりと身を預けると、久しぶりの温もりに、ほっと目を閉じた。
「私も、あなたと茶屋の娘のことを本気で疑ったわけではない。ただ、このままここで閉じ込められているより、あなたにとって幸せなのではないか、と思った。あのとき、茶屋の娘と話していたあなたは、とても嬉しそうな、幸せそうな顔をしたから」
 同じようなことを、最近誰かに言われた、とリーフィウは思った。幸せそうな顔――。
 ――リーフィウさん、それに答えたとき、すごく幸せそうな顔をしてたの、知ってる?
 ふいに思い出した。イーナに言われたのだ。好きな人がいるか、と言う問いに答えた自分の顔が、どんな風だったかを。
 キーファの手が、ゆっくりとリーフィウの髪を梳いた。
「私はもう、これ以上あなたに何も出来ない。だから、あなたが少しでも彼女に惹かれているのなら――こう言う形ででも外に出て、僅かでも今より自由が手に入るのなら、そのほうがいいのではないか――。そう考えた」
 それで、リーフィウが王宮から出て行くなどと言う話になったのだ。リーフィウは目を開け、顔を上げると、小さく首を振った。キーファはわかっている、と言うように頷いた。
「あなたの気持ちを訊かずに、ことを進めようとしたのは間違いだった。正直に言えば、怖かった。もしも、ここを出て行きたいかと訊いて頷かれたら――そう思うと、面と向かって訊くことは出来なかった」
 臆病なものだな、とキーファが呟いた。
 キーファの言っていることは矛盾している。リーフィウが出て行きたいと言うことを怖れながら、一方では、出て行くための準備をさせる。だが、その矛盾こそがキーファの気持ちを如実に表している、とリーフィウは思った。キーファがどれだけリーフィウのことを考え、その幸せを祈ってくれているのか、よくわかる。
 リーフィウは微笑んでキーファを見た。ぼさぼさに近い髪には、藁がいくつかついていた。それをそっと摘んで取ると、キーファに手首を掴まれた。ゆっくりと、唇が重なる。大きな手で何度も優しく髪を撫でられてうっとりとしていると、藁の上に押し倒された。乾いた草が、一層濃く匂う。
 キーファは、何度も角度を変えて口付けてきた。それが抜き差しならぬことになる前に、リーフィウは手で軽くその体を押した。押された方は少々不満気な顔で、問い掛けるように真下の顔を見た。
「ここでは……」
 リーフィウがそう首を振ると、キーファは仕方がない、と言うようにため息をついた。
「それならば、部屋に戻ろう」
 そう手を差し伸べられたが、リーフィウは一瞬躊躇した。――ルク王子は王を篭絡し、カハラムを乗っ取ろうとしている――馬鹿げたその噂話のことが、ふいに思い出されたのだ。厩に入ってくるときは、ハリーファもいたし、必死でもあった。だが、ここから二人で出て行けば、警備の兵たちにまたいらぬ詮索の種を蒔きかねない。
「どうした」
「いえ……。どうか、お先にお戻りください」
 キーファが、目を眇めてじっと見つめてきた。それから逃れるかのように、リーフィウはキーファの手を取り立ち上がった。
「なぜ一緒に戻らない?」
 リーフィウは咄嗟に何も言えず、立ち尽くした。いやな空気が流れる。先刻、ようやく再び心を通い合わせたと言うのに、また逆戻りだ。
 リーフィウが、何か言わなくては、と口を開いたとき、キーファがさっと振り向いた。今までずっと大人しくていたロシュカも、ぶるると鼻息を荒く吐き出した。すぐに外が騒がしくなった。


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