遠景涙恋 番外――水鏡
06
「どうした」
キーファの問いかけに、ハリーファがかすかな明かりの下に姿を現した。片膝をついて、頭を下げている。
「サミア様が、王に会えないのならばお帰りになる、と」
「それは好都合」
キーファの呟きは、リーフィウにも聞こえた。だが、ハリーファはもちろん、聞こえなかった振りをする。
「帰ると言うなら、帰らせればいい」
今度はハリーファも、了承の印により深く頭を下げた。だが、すぐには立ち去らず、下げた頭も上げなかった。その姿に、キーファが目を眇めた。
「何だ。言いたいことがあるなら言え」
そう言われて、簡単に口が開ける立場ではない。特に、王の意に添わぬような場合には。ハリーファは、辛抱強く膝をついている。リーフィウはそのハリーファとキーファを交互に見た。厩舎の空気が重くなる。
「自らの手足となる人間を困らせるのは、感心しませんね。ハリーファには、こんな主のところは辞めて、私のところへ来ないかと何度も誘っているのですが」
どうです? と言いながら現われたのは、現在副隊長をしているファノークだった。
「おまえの方が困らせている気がするが」
キーファは煩そうに顔を顰めながら、ロシュカに寄りかかった。興奮気味だったロシュカは、それで少し落ち着いたようで、こつこつと床を叩いていた足が止まった。
「困らせているなんてとんでもない。私も王の手足となっていて、困っている人間ですよ」
ため息混じりのファノークは、簡素な服を着ていた。休もうとしていたところなのかもしれない。もう、夜はだいぶ更けている。
「なぜおまえが出て来た」
ファノークは呼ばなければ来ない、とキーファが良く言っている。リーフィウもあまり話をしたことがなく、軽く頭を下げただけで、所在無く立っていた。
「行けと言われたからです。事態を丸く収めてこい、と」
「相変わらず、尻に敷かれているわけか」
ファノークが苦笑いした。「そう言うことを言うと怒られますから止めてください」と言う。
リーフィウには、話題の人物はわからなかった。ファノークの口ぶりからするとかなり親しい相手のようだが、彼を良く知らないリーフィウには、思い浮かぶ人物はいなかった。
「事態を収めろと言われたのはおまえだろう。俺のところに来るな」
「丸く収めろと仰せですので。ここはキーファ王にお出でいただきたい」
キーファは何も言わず、動かなかった。後ろから見ていたリーフィウには、無視しているようにも見えた。
「お姫様は十分警護されていると思いますが、王宮からこんな時間に帰ると言うのに王の兵が付いていないと言うのは、いささか問題ではありませんか」
というより、後々の問題になることは大いに考えられた。サラフ族の族長の娘をぞんざいに扱ったと文句が来るのは確実だ。リーフィウでも、それくらいのことはわかる。
「それなら、おまえが行ってやれ」
「私でいいのですか? 副隊長である私が警護に行っても?」
キーファが舌打ちをした。ファノークほどの地位にいる人間が警護につくとなると、よほどの人物と言うことになる。キーファが大切に思っている証拠になり、サラフ族をつけあがらせる餌を与えるようなものだ。
「王が少しばかり出て行って、その辺の兵に警護を申し付けて、お気を付けてとでも挨拶すればいいんです。そもそも、こんな馬小屋になど逃げて来なければ、サミア姫が向こうから挨拶にくるのを待ってれば良かったんですよ」
どうやらファノークは結構怒っているらしい。ここにきて、リーフィウはようやくそう気付いた。
キーファもやっと諦めたのか、ロシュカから身体を離すと、出口に向かう。木戸を開けたところで、振り返った。
「ここで待っていてくれないか。すぐ戻る」
キーファはそう言い置いて、厩舎の外へと歩いていった。
リーフィウはその後姿を見送ると、ロシュカに歩み寄った。キーファを真似て、大きな体に寄りかかる。ロシュカは外が気になるようで、じっと騒がしい方向を見ていた。リーフィウもつられるようにその方向に目を向けた。何か人が喋っている声はしていたが、リーフィウにその内容まではわからなかった。
キーファが戻って来たのは、それからしばらく後だった。ファノークも一緒だ。
「なぜおまえもついて来る」
キーファは木戸を開けたところで振り返った。どうやら勝手についてきたものらしい。
「万事丸く収めなければ帰ってくるな、との厳命でして」
「……おまえは何をしたんだ」
キーファの呆れたような溜息が厩に響いた。
「丸くかどうかはわからないが、騒ぎは収まった。サミア姫はには無事お帰りいただいただろう」
「後で悔やむことになる、などと物騒なことを仰ってましたがね。まあ、そのあたりは許してもらいましょう。ですが、万事、ということですので」
ファノークは片膝をついて頭をさげている。
「どうか、ご自分のお部屋にお戻りください。迷惑……いえ、心配している人間がたくさんいますので」
小屋の中がしばらく静まり返り、馬たちの息遣いだけが響いた。リーフィウには横顔しか見えないが、キーファは不貞腐れているように思えた。その顔を見て、先刻のことが脳裏に蘇る。戻る、戻らないで喧嘩になりそうだったのが、中断されたままだ。リーフィウは、知らず俯いてしまった。
「リーフィウ殿も、どうかお願いしていただけませんか」
急に名を呼ばれて、はっと顔を上げる。だが、返事はできなかった。
「帰るつもりだった」
キィ、と木戸が鳴った。キーファはリーフィウに背を向けて、柵に寄りかかった。
「だが一緒に帰ろうと言ったら、断られた」
「断られた?」
ファノークが問い掛けるように視線を寄越したので、リーフィウは「お先にお戻りください、と申し上げました」と頭を下げた。
「それなら、お先にお帰りになったらいかがですか。それからお呼びになれば、リーフィウ殿も断れないでしょう」
「断られた、と言ったはずだが」
「断らない、ではなく、『断れない』です。ここでは、お二人だけ――失礼。ロシュカもいれて二人と一頭だけでしたから、リーフィウ殿もお断りしたのでしょう」
ファノークが言い替えたのは、ロシュカが不満気に足を鳴らしたからだった。
「サミア姫が仰っていた噂は、確かに兵の間でも囁かれている噂だということです」
「あの馬鹿げた噂か」
キーファが吐き捨てた。ファノークは頷いて、キーファをじっと見た。
「馬鹿げた噂ですが、それが兵たちの間で囁かれていることは真実です。リーフィウ殿は、王よりよほど耳が良いらしい。その噂を知り、配慮したのでしょう」
視線を感じて、リーフィウが僅かに首を廻らせると、思わず優しいファノークの目にぶつかった。
「王は、その配慮を無駄にしようとなさっている。リーフィウ殿も、苦労なさる」
キーファはふっと上半身を浮かせると、どんっと柵にぶつけた。ロシュカが、飼い主の気持ちを代弁するようにこつこつと苛立たしげに足を鳴らした。
「納得できませんか。ご不満が?」
「いや、わかった。だが、それをおまえに指摘されるのが気に食わない」
「何を仰るかと思えば。私のまわりには、リーフィウ殿を良く知るものがございますので、その受け売りです」
ファノークは笑いながら立ち上がった。「参りましょう」とキーファを急かす。
「リーフィウ殿は、ハリーファと共にお戻りになるよう」
その声に、ハリーファがすっと現われた。ロシュカが少し、寂しそうに鳴いた。
リーフィウが部屋に帰ってすぐ、キーファから使者が来た。少し心配そうな顔のイーザに微笑んで、リーフィウは王の居室に向かった。
部屋の中では、キーファが一人、杯を傾けていた。既に侍女たちには退出を命じたらしい。王の部屋は広い。侍女たちが立ち働いていないと、一層その広さが感じられた。
リーフィウが部屋に入ってきたことを確認したキーファは、杯を大きく傾け、酒を飲み干した。リーフィウは酒を注ごうとその傍らに向かったが、王は立ち上がって寝室へと誘った。
「話をしてからと思ったんだが」
我慢できそうにない。
深い口付けのあと囁かれて、リーフィウも思わずキーファの首に腕を巻きつけて、抱きついた。ずっと、この温もりや力強さに餓えていたのだ。キーファは荒々しく、だが決して傷つけることなく、リーフィウに応えた。
だが話をしたいと言うのは嘘ではなかったらしい。いつもなら久しぶりに抱き合うとリーフィウが意識を失うまで攻め立てるのだが、今夜はお互いに一度果てた後、キーファはゆっくり立ち上がった。寝台横にある卓上のガラスの杯に水を注ぎ、リーフィウに渡す。キーファは、リーフィウを高めることに関しては丁寧で執拗だ。だから、リーフィウは毎回あられもない声を上げてしまう。何とか声を押し殺しても、掠れた悲鳴に似た声が漏れてしまう。だから、キーファは良く口移しで水を飲ませてくれることがあった。そんなときは、大概リーフィウにはおぼろげな意識しかないのだが。
「ありがとうございます」
身体を起こして、杯を受け取る。その掠れた声に、リーフィウ自身も驚いた。久しぶりな上に、もう抱かれることはないかもしれない、とまで考えた後のことで、普段以上に敏感になっていて声の制御ができなかった。そう思った途端、リーフィウの顔は水に垂れた絵の具のように、薄っすらと赤く染まっていった。
「誘われる色だ」
キーファはそう評して、リーフィウの頬を撫でた。恥ずかしさと、快楽が呼び覚まされる予感に、リーフィウは目を伏せた。キーファはふっと笑って、僅かに身体を離した。
「リーフィウ、サミアのような姫君たちの役割は知っているか」
突然の質問に、リーフィウは一瞬首を傾げたが、すぐにキーファの言いたいことを汲み取った。
「歴史書で少しばかり読みました。忠誠の証、それから――足掛かりだとか」
キーファは、綺麗に言えばな、と苦笑した。
「制度というより、慣習だが、当初は人質としての意味合いの方が大きかった。だが、最近は王位を狙う目的の方が大きくなってきている。だから、こんな悪習は止めることにした」
リーフィウは、その横顔を思わず見つめた。その心配そうな視線に気付いた王は、微笑んだ。
「反発はあるだろう。だが、次の王位をシンハークへ譲ると決めたのは私だ。自ら火種を作ることだけは出来ない。それに、この悪習には血生臭い話が多い」
「血生臭い話?」
キーファが頷く。
「国の中枢部は、人質は欲しい。だが、子ができることは歓迎しない。それで、その理想の状況を作り、保つことにした。邪魔は排除する、と言う方法で」
排除、という言葉の冷たい響きに、リーフィウの背筋が震えた。
「実際、私にも兄がいたらしい。だが、彼の母親はカラム族ではなかった」
血生臭い話、というのは、決して昔の話ではないのだ。リーフィウは、そっと傍らの身体に寄り添った。
「酷いときは、寵妃が命を落とすこともあったそうだ。もちろんどれも表向きは病死となっている。このことに関しては、王の耳には入ってこないしな。こんなことでは、禍根を残すだけだ」
キーファの顔には苦悩の色が浮かんでいた。こんな問題が起こる前から、思い悩んでいたのかも知れない。
「だが、代わりになる良い案がなかなか浮かばない」
長い溜息が聞こえた。何も言えずにいるリーフィウの隣で、キーファがどさりと仰向けに寝転がった。二人の火照った身体が冷めていく。キーファは戻ってきてすぐにリーフィウを呼んだため、暖房は間に合わなかったようだ。部屋の空気は、冷え切っている。
知らず自分の腕に手を伸ばしたところで、リーフィウはキーファに抱き込まれた。
「キーファ様!」
「今夜は冷えるな」
首筋に顔を埋めてくる。唇が、故意なのか偶然なのか、その首筋に当たっている。
リーフィウが咎めるように名を呼んだが、その声色は甘く、キーファはくすくすと笑っただけで、離す気はないらしい。
「焦っても仕方がない。そう思うが、あまり放っておいたら面倒が起きる気もする」
「少なくとも、私はもう、キーファ様を他の方にお譲りするつもりはありません。ですからどうか、思い詰めないでください」
リーフィウは、顔をくすぐるキーファの髪を撫でた。背中にまわされた腕の力が強くなる。それに応えるように、リーフィウも王の頭を強く抱きしめた。裸で抱き合っているというのに、ただ優しいぬくもりだけが感じられた。二人はしばらく、その陽だまりの中のような温かさに身を任せていた。
「私も、もう誰にも譲らない。それでもいいか」
長い沈黙の後になって、ようやくキーファが口にした思いに、リーフィウはその優しさを感じて胸が詰まった。リーフィウの言葉に拘束力はない。立場から言えば、キーファはいつでも他の人間を選ぶことはできる。だが、王の言葉は重い。自分の立場をわかりすぎるほどわかっているキーファは、だからその言葉を口にすることを躊躇い、そして許しを乞うたのだろう。
リーフィウは顔をあげ、キーファの目を見詰めた。真摯な目だった。その目に、リーフィウは自分も今だけは正直になろうと決めた。
「はい。どうか、私を離さずにいてください。ずっとお傍にいさせてください。それが――私の至上の喜びです」
答えは、口付けで返された。
それは官能を呼び覚ますためのものではない、柔らかく温かい、誓いに似た、口付けだった。
(了)