home
モドル 5-05 01 02 03 * 05
遠景涙恋
第六章 夜香
04
そろそろ準備を、と言われて、寝床から立ち上がったキーファに、リーフィウは最初はひどく驚いて、それから心配になった。昨日、あれだけ血が出ていたし、何しろ縫ったのだ。いくら痛み止めの薬を飲んでいるからと言って痛くないことはないだろうし、リーフィウからしてみれば、そもそもあの傷で動くと言うのは無謀だった。
「……そんなに、心配しなくてもいい」
ふいにキーファに言われて、リーフィウは目を伏せた。じっと、誰の手も借りずに服を身につけているキーファを見ていたのだ。
「一晩中、見てくれていたと聞いた……悪かったな」
キーファも目を合わせずに、次々と準備をすすめる。手に滑り止めの布をつけるときは、口で器用に巻いた。
まるで怪我をしたことなど関係ないかのように、いつもと同じ準備をしていくキーファに、リーフィウはどこか不安が起こった。昨日、死ぬことを怖がらない、と言ったシャリスの言葉が思い出されたのだ。
「キーファ王、戦いに出るおつもりですか?」
それで思わず、そんなことを聞いてしまった。自分はこのことに何も言うことはできないと言うのに、ただ不安だけがどんどん膨らんでいってしまったのだ。
キーファは驚いたように顔を上げて、それからどこか逃げるように再び視線を自分の腕に落とした。ひらりと落ちた布を、口に咥え直す。
「その傷で……」
「大したことはない」
最後の段階になって、布を縛ってとめようとしていたキーファの動きが止まった。すっとリーフィウが傍に来て、手伝うとばかりにその布に手を伸ばしてきたのだ。
「無茶です」
きゅっと、布の端をしばる。それからふと上げられた顔に、キーファは何も言えなかった。
リーフィウの茶色い瞳が、揺れていた。とても、心配なのだと言うように。
「ものすごい血が出ていたんですよ?真っ白な顔をして、目の前で崩れていって……」
震える唇でそう言ったリーフィウを、キーファは抱き寄せそうになって、瞬間目を閉じた。
触れてはならないと、戒めたのだ。自分はもう、十分すぎるほどこの青年を傷つけてきた。
「悪かった」
「シャリス様も言ってらっしゃいました。王が戦いに出てきていないとわかったら、ヤーミンを一気に叩くことは難しくなる。でも、出ているだけでいいと。戦わなくとも、いいと」
リーフィウの細く白い指が、無骨なキーファの手首を握った。
「どうか、どうか……無茶だけはなさらないで下さい」
なぜ、これほど心配なのか。
なぜ、この男を相手にこんなことを言っているのか。
リーフィウはそう思いながらも、言わずにはいられなかった。
生きて、帰ってきて欲しいと。
知らぬ間にルク王子――と思っていた偽者なのだが――を取り返されてしまったヤーミンのナーヴァの怒りは凄まじかった。前日までは、自分たちの形勢逆転を信じて歓喜に酔っていたのだ。それも、長年の勝てずにいた敵、カハラム国王軍相手の初勝利が間近に迫っていたのだ。
それが、次の日の朝になって「逃げられた」と間抜けな報告を部下がしてきたのだ。死に物狂いで探しても見つからず、門番達は恐怖に真っ青になっていた。何しろ、ルク王子の代わりに薬で眠らされた自分たちの味方の兵が牢にはいて、それがいつ交換されたのか、それさえわからないのだ。
前日、まだ掴んでいないと言うのに勝利の予感に騒いだのが馬鹿なのだと、カハラム国王軍なら言うだろう。
だが、ナーヴァも大国の元首である。ヤーミン軍のその優秀さはカハラム国王軍にも匹敵するものだが、それも一重にナーヴァと言う絶対的な中心人物がいるからで、その柱が冷静さを失うと、誰もフォローをすることができない。それが、キーファという柱を失っても十分機能するカハラム国王軍との違いだった。そのことを、ナーヴァは良く理解していた。
ヤーミン軍は戦闘準備と同時に、すぐさま退去を始めた。ルクという島の戦闘で、港もカハラム軍に抑えられているという最悪の条件だったが、現在残っているヤーミン軍の半数でも港に着けば、一部隊のみのカハラム軍より有利ではあった。
その上、カハラム軍はカハラム軍の事情があった。キーファ王が、退去をするヤーミン軍を追撃しなかったのである。
ヤーミンを手に入れることは、タシュラル宰相にとっては願ってもいないことだ。だが、キーファはそのために国王軍を更なる危険に晒すつもりはなかった。ナーヴァの首を取れば、ヤーミンと戦いになる。ヤーミン本国での戦いをするにも、カハラム本国での戦いとなるとしても、国王軍が捨て駒にされることはわかっている。最近のタシュラルの野心の大きさは、国王軍の司令部でも問題になるほどだ。ラシッドなどは、キーファの命も心配している。
ナーヴァを逃がすことの危険について、国王軍司令部では意見が割れた。ラシッド、シャリス、そして怪我のために積極的ではなかったが、ザッハも、ナーヴァを逃がすことに難色を示した。イル・ハムーンは慎重派で、キーファは追撃を良しとしなかった。港で警備とヤーミンの援軍を見張る第三部隊のファノークは、どちらかと言えばキーファの先を心配した意見を汲んだ。そのヤーミンとの戦闘を機に、どさくさに紛れて国王軍並びにキーファを一掃しようとタシュラルが考えてもおかしくない、と。
それには他の部隊長達も思うところがあったらしく、ナーヴァの追撃は見送られた。ただし、部隊長を痛めつけられた第一部隊は容赦なく、向かってくるヤーミンたちを叩き潰した。
捨て身の戦闘は激しく、ルクの民たちは互いに抱き合って嵐が早く過ぎることを祈った。いまだ先の戦闘の記憶は生々しく、子供達のなかには親兄弟を失った者もいて、再びその恐怖が蘇って泣き叫ぶ者もいた。
リーフィウはそんな子供を抱き締めながら、カハラム国王軍の無事を祈っていた。あれだけの傷を受けながら、そんなことを微塵も感じさせずに出陣していった、キーファの鋭く精悍な横顔が、知らず支えになっていた。
キーファは言った。
今日で片をつけると。
それならば、きっと今日で終わる。だから大丈夫だと、リーフィウは子供達に言い続けた。もうすぐ、家に帰れるからと。
戦闘の音が消えたのは、日没間近の頃だった。リーフィウがそっと部屋を出てみると、警備兵は少なくなっており、宮殿の中にいた第二部隊も出動したのだと初めて知った。
慣れた廊下を、真っ直ぐに歩く。城門が見える辺りで立ち止まったリーフィウは、その光景に、思わず祈りの形に手を組んだ。
西日に、門や城壁が輝いていた。それは、血に濡れた輝きだった。
戦果の報告とこれからのことについて話したい、とリーフィウがキーファから呼び出されたのは夜中に近い頃だった。ルクの民たちは、今回は本当に蚊帳の外での戦闘で、戦況が全くわからずに不安でいたために、そんな時刻になっても誰も眠ってはいなかった。リーフィウは遅くなるかもしれないから私に任せて眠りなさい、と言い残してその部屋を出た。
宮殿の中は静かだった。勝利に沸いている風でもなく、リーフィウは不安になった。あまりよい戦果ではなかったのだろうか。
前後左右と兵に囲まれて、リーフィウはキーファの部屋まで歩いた。部屋にはシャリスもいて、キーファの怪我を見ているところだった。
「動かさないように、と言いましたよね?」
「寝てるわけじゃないんだ。無理なことを言うな」
「……だからって、馬に乗って腕を振り回すような真似をしないで下さい」
「隊長が指揮をとらずに誰が取るんだ」
はあっと深いシャリスのため息がして、リーフィウはちらりとキーファの腹部を見た。そこからくるくると落ちている包帯は、真っ赤に染まっていた。
「こんなになっているのなら、早く言ってください」
兵の心配ばかりして……とシャリスがぶつぶつ言っているのをキーファは聞こえない振りをして、リーフィウのほうを見た。
「すぐに終わると思うが」
そう言って、視線で座布団を示す。リーフィウは小さく礼をしてから、そこに坐った。
「リーフィウ様からも言ってください。キーファ王は無茶ばかりする」
「シャリス。リーフィウ殿は関係ないだろう」
シャリスはそうですか?と皮肉を込めた声を出して、不機嫌を隠さなかった。普段優しく冷静なシャリスは、身体を大切にしない人間が我慢ならない性質で、そう言う人間相手には容赦がない。
「けがをした兵は多かったのでしょうか」
「ええ、まあ……ヤーミン軍もナーヴァを逃がすために捨て身でしたから。こちらはこちらでザッハのことで、第一部隊はかなり怒っていましたしね。あまり、後味のいいものではありませんでした」
はあっと重い息を吐いてから、シャリスはその光景を掃うように頭を振り、気を持ち直してキーファの腹部を素早く拭いた。キーファはすっと背筋を伸ばして立っている。
それから、シャリスは包帯を手際よく巻きながら、その手を止めることなく、「次にひどく動いたら、縫い直しですよ」と恐ろしいことを言った。
シャリスは二人にお茶を淹れてから、部屋を出た。キーファには、酒を飲むなと何度も言っていた。
「ナーヴァは、逃がしたのですか」
とろりとしたお茶は、良く眠れるようにとイーザが出してくれたものと同じだった。
「今はカハラムにヤーミンとまともに戦える戦力はない」
キーファはリーフィウの問いに直接答えずに、簡潔にそう言った。
正確には、国王軍と師団がまるで敵同士のような関係の今は、戦力にならないということなのだが。
ナーヴァを逃がしたことについては、リーフィウは何の感慨もなかった。何か言えるほど、二国間の関係を知らなかった。
「戦は……」
「終わった。……ヤーミンの国民性はわかっていたつもりだが、シャリスの言うように後味の悪いものだった」
リーフィウが首を傾げたのを見て、キーファは続けた。
「ナーヴァは絶対だ。ヤーミンは恐ろしいほどに統率が取れているが、それもナーヴァがいればこそ。ヤーミンの中では、ナーヴァと言うのはある種の狂信的な信者を持つ元首だ。だから、今回のように、ナーヴァを逃がすためだけに、平気で命を捨てるものもいる。それをザッハのことでどうしても引けない第一部隊が叩いたから――決して後味のいいもんじゃない」
キーファは疲れたような顔をしていた。戦に勝ったはずなのに、少しも喜んでいない。そこに、キーファの葛藤を見た気がした。
後味が悪いとわかっていながら、キーファは第一部隊を止めることはできなかった。
彼らの気持ちもわかるし、それが兵というものだからだ。
キーファは立ち上がって、戸棚からパナ酒を取り出した。シャリスの小言は、聞かなかったことにするらしい。
「数日間、残党の処理をする。それが済めば、ルクの民たちはもとの生活に戻れるだろう。それまでいま少し待って欲しい」
キーファはそう言うと、小さな杯をぐいっと煽った。リーフィウにも勧めてきたが、お茶を飲んでいるリーフィウは遠慮した。
「……傷に、さわりませんか」
また傷が開いたのかと思ったほど、先ほどの包帯は赤く染まっていた。その傷で馬に乗っていたと言うだけでも、リーフィウには信じられない。
「シャリスは大げさなんだ」
少しばかり、ばつが悪そうにキーファが言った。心配をかけていることはわかっているのだ。
それから、キーファは大儀そうに寝床の上に転がった。やはり、戦いと怪我に疲れているのだろう。リーフィウは、聞きたいことは聞けたのだから、退出しようとした。
だが、キーファが呼んだ気がして、リーフィウは扉に向かいかけた身体を止めて、振り返った。
もう少しだけ、居てくれないか。
キーファの、小さな声がした。
home モドル 5-05 01 02 03 * 05