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遠景涙恋
第八章 幻光


04
「命に別状はありません。でも、しばらく安静にしていてください。刃が掠ったところが拙かったですね。動脈の上でしたから……少し血が足りなくなっていると思います。頭がくらくらするかもしれません」
 シャリスの言葉に、キーファは頷いて、そっとリーフィウの額の上の髪を撫でた。すっかり血の気を失っているのは、怪我の所為だけではないのだろう。
 シャリスは起きたら飲むように、と薬湯を置いて、静かに部屋を出て行った。キーファがほっと肩の力を抜いたところで、申し訳ありません、と後ろで声がした。
「私の不注意です。剣を取られるなど……」
「油断は命取りにもなりかねないということだな。だが、今回のことはおまえに非はない。これの気性を読みきれなかった俺の失敗でもある」
「それでしたら、私の責任でございましょう」
 まだ青い顔のイーザがそう言って、ぎゅっと手を握った。
 血飛沫が舞ったとき、イーザは叫ぶことしか出来なかった。それは本当に一瞬のことで、あの時ザッハが飛び掛らなければ、リーフィウは確実に目を突いていただろう。結局、剣の刃は目ではなく、リーフィウの手首を掠った。リーフィウがしっかりと、かなり力を入れて剣を握っていたために、掠った程度だったはずが、思ったより深い傷になった。そしてそこが、ちょうど動脈だったために、血が吹き上がったのだった。そのまま気を失って倒れていくリーフィウの様子が、先刻からイーザの頭の中で繰り返されている。あの恐怖は、忘れられそうになかった。
「イーザ、少し休んだ方がいい。ザッハも腕を怪我したのだろう?シャリスに見てもらえ」
 その言葉に、ザッハはすっと頭を下げて、シャリスの後を追った。こう言うときは、キーファ王は決して何を言ってもそのとおりにさせるのだと、知っていたからだ。だが、イーザは思い詰めたような顔をして、まだ立っていた。
「キーファ王。私はリーフィウ様のお傍に……」
「ああ、気持ちはわかるが、本当にひどい顔色をしている。しばらくは俺がいるから、少し休んでいてくれ。そのうち交代に呼ぶ」
 そう言われてしまえば、イーザは逆らえるはずがなく、やはりすっと頭を下げて、自分の部屋へ退いた。
 キーファはふっとため息を吐くと、静かに眠るリーフィウの顔を見た。
 まったく、無茶なことをする。
 血飛沫を被って倒れているリーフィウを見たときは、キーファも血の気が引く思いだった。イーザの叫び声に、扉の前の兵の一人がキーファの元に駆けつけた。少しでも何かあれば、すぐに報告するように、と言ってあった。
 手当てをされ、綺麗に血も拭き取られたリーフィウの顔は、まるで死人のように真っ白で、キーファはもう一度、その顔に手を伸ばした。ほんの微かな体温は、キーファに余計な心配をもたらした。血が出た所為で、体温が下がっているのだ。
 しばらくそっと、触れているかいないかと言うほどの弱さで、キーファは髪を撫でていた。
 ザッハとリーフィウを会わせるためには、ザッハの精神的な回復がなにより必要だった。若く鍛えられた身体はほどなく回復した――目だけは治らなかった――が、兵として生きていくことを決めていたザッハに、視力の喪失は深い絶望だった。
 その揺れたままのザッハでは、リーフィウに会わせられない。そう言って、二人が会うことを許可してこなかったのはキーファだ。だが、ザッハも随分落ち着き、心配しているだろうからリーフィウに会いたい、とまで言ったときに、大丈夫だと思った。
 リーフィウがこれほど激しいものを持っているとは、キーファも知らなかった。泣いてしまうだろうとは思っていたが――自分の目を突こうとするなど。
 ふっと手の下の頭が動いた気がして、キーファはそっと手を戻した。寝台には腰掛けたまま、じっとその顔を見ていると、僅かに震えた瞼が開いた。
「あ……」
 リーフィウはそれだけ言って、傍らのキーファを見た。その目が、見る間に濡れていく。だが、それは零れ落ちない。
「もう少し、寝たほうがいい。シャリスが薬湯を」
 言いかけたところで、なぜ、というリーフィウの声に遮られた。
「なぜ、目が見えるのです。キーファ王、私は、目が見える……」
 声を震わせながら、リーフィウは指でそっと目の周りを触った。左手に包帯が巻いてあったが、そんなことには気付かなかった。
「見える……なぜ、見えるのです」
 今にも目を潰すのではないかと思ったキーファは、思わずその腕を捕まえていた。力加減も何もなく、傷口の痛みにリーフィウは眉根を寄せ、キーファは慌ててそれをそっと外した。ひどく、冷たい手だった。
「ザッハが、止めたからだ」
 キーファの声に、リーフィウの瞳から涙が零れた。
「ザッハは、見えないのに」
「そのことは、あなたの責任ではない」
 零れる涙に眉根を寄せて、キーファはそれを拭おうと手を伸ばした。だが、リーフィウががばりと起き上がって、そのキーファの襟元を掴んだ。
「リーフィウ!」
 手首の傷は、簡単に開いてしまう。止まらずにどんどんと布を染めたその赤さを、キーファは鮮明に覚えている。だが、リーフィウはそんなことには構っていない。
「私に責任がないはずがないでしょう?ザッハは私の代わりに捕らえられた。私の代わりに、左目を失った。私が……」
 うっと言葉を詰まらせて、リーフィウが額をキーファの胸元に押し付ける。キーファは好きにさせておきながら、そっとその髪を撫でた。
「ザッハに身代わりを命じたのは俺だ。あなたが何を言おうと、ザッハは身代わりになった。俺の命だからだ。兵の任務上の怪我や死は――全て俺に責任がある」
 リーフィウの涙は、止まらなかった。ぶるぶると震える手は痛みを訴えたが、そんなものでもなければ、逆に発狂しそうだった。
「私が、行かなければ良かった。ルクに戻りたいなどと、考えなければ……」
「それも私の判断だ」
「でもっ」
 ばっと顔を上げたリーフィウの腕を、キーファはそっと触った。左手の包帯に血がにじみ始めていた。きつい目をして、決して自分を許そうとしないリーフィウに、キーファの目が痛々しそうに細められた。
「あなたは重要な外交カードだ。だからこそ、俺はあなたをルクに連れて行った。そして、ザッハを身代わりに立てた。そこにあなたの責任などない」
 キーファの声は、冷たかった。捕まれた手には、温かい体温が感じられるのに、リーフィウは身体の中がひんやりとしたのを感じた。
 ――あなたは、重要な外交カードだ。
 キーファの言った言葉が、わんわんと響いた。そして、瞳から、再びぽろりと涙が零れた。
 促されて、横になる。
 リーフィウは、自分が生きていることの意味が、わからないと思った。


 リーフィウが自分のしたことを本当に悔いたのは、イーザがリーフィウを見て、憔悴しきった顔でぽろぽろと泣いたときだった。良かったと一言言って、その場に崩れてしまったイーザに、リーフィウはただごめんねと、謝るしかなかった。とても、心配を掛けたのだ。
 あのとき、リーフィウはどうしても自分を許せなかった。だから衝動的に、ちょうど目の前に見えた剣を取ってしまった。それがどれだけ馬鹿な行動なのか、今になれば良くわかる。
 自分の目を、ザッハに与えられるわけでもないのだ。
 リーフィウは、もう絶対にあんなことはしないから、とイーザに何度も約束した。ザッハにも、ラシッドにも、そして一番怒ったシャリスにも、ごめんなさいと謝って、同じ約束をした。もう、自分の身体を自ら傷つけることなどしない。
 だが、それからのリーフィウは、滅多に笑わなくなった。微笑んだりはするのだが、そこにはどうしても哀しみのようなものが混じっていて、見ている方の胸を騒がせる。
「あれ、どうにかなりませんかね」
 そう言ってため息を吐いたのは、シャリスだった。
「このままだと、ちょっと危ない気がします」
 気になっているのか、シャリスは毎日のようにリーフィウの元に通っている。ただ他愛もない話をするだけなのだが、あの笑顔は少しも変わらなかった。
 国王軍の首都での活動は、湖宮にいるときよりも少ない。師団が幅を利かせていて、どちらかというとお飾り的なものになるからだ。その間に鍛錬しようと励むのだが、一日は長く、一週間も、一ヶ月も長い。毎日それだけをしているわけにもいかず、国王軍は少しばかり暇になるのだった。だからシャリスも、空いた時間にリーフィウを訪れることができた。
「危ないか……そうだな」
 王宮の奥、王の寝室にも近いラシッドの部屋は、とても簡素なものだった。もともと放浪の身だ。多くのものは要らない、とラシッドは何も持たない。
 そこで二人で綿のたっぷり入った敷物に腰掛けて、花茶を飲んでいた。
「彼は強い人だと思っていましたが……あんなにぴんっと張った糸みたいな状態では、却って切れやすい」
「もともと、あんな感じだったよ。いつでもぎりぎり崖っぷちにいる感じだ。それでいて、そのことに本人が気付いていないから性質が悪い」
「わかっていらしたのならなぜ……?」
 シャリスのその問いには、ラシッドは答えなかった。
 ラシッドには、もう守る人間がいる。その人にとっても大事な人だから、リーフィウのことも守りたい。だが、だからと言って本当に大事な方の人間を疎かにはしたくなかった。そうすると、自分はリーフィウを中途半端に見るしか出来ないのだ。
「一番いいのは、キーファ王なのでしょうが」
 答えないラシッドに諦めて、シャリスはそう言って深いため息を吐いた。
 キーファはあれからも、変わらぬ態度でリーフィウと接していた。訪れるのは夜だけで、やはり何もせずに眠っているはずだ。確かめたわけではないが、本人達の様子を見ていればわかることだった。
「俺はリーフィウ殿が来ることで、何か好転するような予感がしていたんだが……甘かったな」
「確かに、キーファ王は彼のことになると人が違いますね。もう少し様子を見てもいいのでは?」
「そうだな。まあ、リーフィウ殿のことは、少し動いてみるよ」
 ラシッドの言葉に、シャリスはほっとした。何しろ、彼に近い人物がいないのだ。イーザでさえ、未だ信頼されているとは思えません、と寂しそうに笑った。
 あんなことがあっても、リーフィウはやはり同じように微笑んで、弱音の一つも吐かないのだと。自分には気を使ってくれているようで、謝ってばかりだったのだと。
 もちろんシャリスも全身で心配したのだと怒ったのだが、リーフィウはやはりひたすら謝り、微笑みながら、心配してくれてありがとう、と礼を述べた。
 リーフィウの瞳は潤むのだが、そこから決して涙は落ちない。その代わり、あの切なげな、痛々しい微笑を浮かべるのだ。
 どこかで感情を爆発させないと、リーフィウはそのうちおかしくなってしまうだろう。そういう危うさがあって、シャリスは心配でたまらなかった。
 開け放たれた窓から入ってきた風の冷たさに、シャリスは僅かに身を震わせた。
 もうすぐ、白の季節になる。


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