home  モドル 8-05 01 02 03 * 05


遠景涙恋
第九章 深淵


04
 ラシッドが来たその日の夕方、リーフィウは少し緊張しながら夜が来るのを待っていた。キーファに、真意を尋ねようと思ったのだ。何度もラシッドが言うが、たぶん、自分たちの間には言葉が足らないのだと、ようやくリーフィウもわかった。
 だが、ああも無視していた後で、どうやって話を切り出したらいいものか、と悩んでいた。
 そんなことをあれこれ考えているうちに、廊下が騒がしくなって、リーフィウとイーザは顔を見合わせた。夕食にはまだ時間は早いし、誰かが尋ねてくるにしても、これほど騒がしいことは少ない。だが、廊下から「ラ・フターハ様!」という叫び声が聞こえて、イーザがびくりと身体を揺らした。それからすぐに、リーフィウを呼んだ。
「どうか、私の部屋にいてくださいませんか。物音を、お立てにならないよう。決して、出てこないよう。鍵は必ず、落としてください」
 言いながらも、リーフィウを部屋に連れて行ったイーザは、念を押すようにもう一度同じことを言い、慌てて部屋の扉を閉めた。リーフィウは訳がわからないながらも、とにかくイーザの言いつけは守ろうと、鍵を閉め、部屋の中に蹲った。
 ラ・フターハ。聞いたことがある名前だ。
 それが第一師団の師団長、そして宰相タシュラルの息子だと思い出したとき、隣の部屋に大きな声が響いた。
「久しぶりだな、イーザ。ところで、ここの深窓の姫はどこだ?」
 リーフィウは、思わず眉根を寄せていた。シャリーアと、間違えているのか。
「申し訳ございません。ただ今こちらにはいらっしゃいませんが」
「そんなわけがないだろう?かの姫は閉じ込められていると聞いたぞ。退屈だろうから、相手をしに来たのだが」
「ラ・フターハ様。こちらには、王の許可を頂いて……?」
 凛としたイーザの声がした途端、何かが壊れる派手な音がした。水の音も混じっていて、花瓶か甕が割れたのかとリーフィウはますます眉間に皺を寄せた。
「誰に口を聞いている、イーザ。誰の許可だって?」
「キーファ王の許可でございます。こちらには、王の許可なく、いかなる人物もいれぬよう、そう言い遣っております」
 また、派手な音がした。だが、今度の音は何かを叩いたような音で、リーフィウは思わずはっと身体を浮かした。
 見えないのが、もどかしい。イーザが怪我をしていなければいいと、そればかり祈った。
「俺の前で王のことを言うな!いいから捕虜を出せ。ルクの元王子、いるんだろうっ」
 ぐっと、リーフィウは唇を噛んだ。自分だとわかっていて、この男は姫と言ったのだ。
 なんたる、侮辱だろう。
 だが、それよりもイーザの声がすぐに聞こえないのが、リーフィウには心配だった。
 一瞬の静寂の後、強情なっ、と怒鳴り声がした。それから、どんっと何かが壁にぶつかる音と、くぐもった声がして、リーフィウはとうとう耐えられなくなった。
 かちゃりと鍵を開け、外に出る。それからすぐに、壁の近くに蹲るイーザを見つけた。
「イーザッ」
「リーフィウ様!出てきては……」
 イーザの言葉は、最後まで聞こえなかった。ラ・フターハが、リーフィウの腕を掴んだかと思うと、寝台に乱暴に放り投げたのだ。
 柔らかいはずの寝台に、それでも強かに背を打ちつけて、リーフィウは一瞬目を閉じた。が、すぐにそれを後悔した。そんな暇はないのだ。
 目を開けると、にやりと笑ったラ・フターハがいた。さすがは師団長と言うだけあって、動きは素早く、そして力も強い。リーフィウは必死に抵抗してみたが、自分の身体さえ、ぴくりとも動かなかった。
「もういい加減、王も飽きただろう。そろそろこちらに順番を回してくれてもいい頃だ」
 それとも、手離せぬほどいいのか?と言ってから、ラ・フターハは豪快に笑った。
「そうでもないみたいだがな。あの王は男の楽しみを知らなかったから、下手だろう?ここのところは何もしていないと、知ってるんだ。可哀想にな。男の楽しみを知らないなど……それも、こんな極上の……」
 いつの間にか手首を縛られたリーフィウは、ひっと喉を鳴らした。突然、下を全て脱がされたのだ。それをくくっと楽しそうに喉の奥で笑ってから、ラ・フターハは無骨な手でその白い肌を撫でた。
「さすがまだ若い……」
 唇をその肌に寄せられ、リーフィウはその気持ち悪さに背筋を震わせた。何処もかしこも、触られているところも、内臓さえ、気持ちが悪かった。
 ラ・フターハはしばらくそれを楽しんだ後、唐突にリーフィウの足を抱えた。
 何をされるのかなど、わかりきっている。そのときの痛みが唐突に思い出されて、リーフィウは恐怖に顔を強張らせた。
 だが、その痛みは、まるで次元が違うと、リーフィウは知らなかった。あの時は、痛み止めも含まれたお茶を飲んでいたし、キーファは乱暴ではあったが、慣らさずにしたわけではない。リーフィウの快楽を引き出さなかった点は同じだが、傷つける意図はなかった。それでも、慣れない器官は悲鳴をあげた。
 痛い、というものではなかった。ただ、叫ぶことしかできなかった。何が起こったのか、わからなかった。
 下から、引き裂かれたと思った。
 そして、あまりの痛みに、気を失った。


 ラ・フターハとて、馬鹿ではない。なぜ突然、それもあの時間にリーフィウの部屋を訪れたのかと言えば、国王軍の幹部が揃って貴族の家に呼ばれたことを知っていたからだった。それはラ・フターハの策略ではなかったが、そのあたりの情報は寝ていても入ってくるようになっている。これはいい機会だと思った。
 むしゃくしゃしていた、ということもある。結局、今回のヤーミンとの戦いも、キーファが収めたのだ。その上、ナーヴァは逃げた。
 逃がしたと、ラ・フターハは知っている。
 だが、手出しは出来なかった。港を守っていた国王軍第三部隊に、それとなく監視されていたのだ。
 リーフィウのことは、あのリヤムシャレンの踊りを見たときから、気に入っていた。艶やかな姿態に、意志の強そうな目。未だ少年らしさを残した身体は好みに完全に嵌っていて、なんとか手に入れようと色々画策した。だが、そればかりは契約の一つに入ってるから駄目だと、父親も非協力的だった。
 王が何だというのだ、とラ・フターハは思う。
 実権のない王の言うことを、聞く必要などないと。
 それだけ不遜な態度のラ・フターハにとって今回幸運だったのは、最初に駆けつけたのがキーファ王ではなかったことだった。それを幸運と言うには、あまりに酷い行いだと、誰もが思ったが。
 キーファたちは、恒例の挨拶回りの一貫となっている貴族の屋敷を回る行事を、嫌々こなしていたところだった。今日はラ・フターハは遠出をして二三日帰ってこない予定になっていたはずで、油断もしていた。父親のタシュラルは、子ほど馬鹿ではない。今このときに弱みを握られるようなことはしないだろうし、彼はそう言った子供じみた欲よりも、権力の方が好きだった。
 だから、ラ・フターハが途中で自分の兵だけ置いて、帰ったことなど知らなかったのだ。
 その上、最近はハリーファも諜報の仕事につけていて、今も丁度首都カラムにいなかった。
 今まで一度も、ラ・フターハが行動を起こしたことがなかったことに、安心していたのかもしれない。
 騒動を最初に聞きつけたのは、少しだけ先に屋敷に帰ってきたシャリスとザッハだった。ザッハが頭痛を訴えていて、一足先に二人で宮殿に帰ってきたのだ。王がいると、それなりに格式ばった行列をしなければならず、宮殿に入るまでもなかなか時間がかかるのだ。
 二人が駆けつけたとき、リーフィウの部屋には、床で気を失ったイーザと、やはり寝台の上で気を失ったリーフィウがいた。その上に、服を着たままの男が乗っていた。それがラ・フターハだと気付いたシャリスとザッハは、抜きかけた剣を収めるしかなかった。
 ラ・フターハは、ゆっくりと身を起こすと、ひどい殺気を纏った二人を笑った。
「ラ・フターハ殿。ご自分がなさったことを、わかってらっしゃるのか」
 ぎりぎり目一杯押さえたシャリスの声は、それでも怒りに震えていた。だが、それを意にも介せず、ラ・フターハは笑みを止めなかった。
「楽しんでいただけだ。王も心が狭い。捕虜を一人で楽しむことはなかろう?」
 ぎりっと、ザッハが歯を噛み締め、シャリスはその腕を握ってザッハを押さえた。
 シャリスも、許せないほど頭に来ていた。だが、厄介すぎるほど、厄介なのだ。ラ・フターハと言う、人間の位置が。
 ラ・フターハは、乱れたままの服で、二人の横を通り過ぎた。
「罪に問われる、覚悟はおありなのだな」
「たかが捕虜だ。命を奪ったわけではない。少し楽しんだだけだ。今までそれで罪に問われたことはあったか?」
 ラ・フターハはそう言って、部屋を出て行った。
 彼がタシュラルの息子である限り。
 そして、カハラム軍の師団長である限り。
 容易に手を出せるものではない。それが、こちらの弱点となり、キーファの王座を奪われかねないのだ。
 もしここにキーファがいれば、ラ・フターハに命はなかっただろう。だがそんなことをしたら、タシュラルならなんとでも言ってくる。暴君とでも、なんとでも。そして、ここぞとばかりに退位へと追い込むに違いない。そろそろ扱いづらくなってきた、王とその軍を、潰すために。
 彼は、息子の死さえも道具として使うだろう。そう言う、男だった。
 そして、だからラ・フターハという、息子が出来たのだ。
 ザッハがどんっと、握った手で思い切り壁を叩いた。シャリスは、一度息を吸って、とりあえずの怒りを押さえることにした。目の前に、しなければならないことがあるからだ。
「ザッハ、このことをラシッド殿に伝えろ。間違っても、キーファ王に先に伝えるな。いいな、押さえろよ」
 それから、衛兵っ、とシャリスは叫び、ザッハは無言のまま頷くと、駆け出した。
 誰を押さえるべきなのか、ザッハもわかっていた。
 本音は、違ったとしても。
「第二部隊の誰でもいい、二三人ここに来るように伝えろ。意識を失って、傷のあるけが人がいることも忘れずにな」
 それに、衛兵の一人が頷いた。それに息をついて、シャリスはとにかくと、リーフィウとイーザの様子を見た。
 二人とも、息はしている。イーザは顔に思い切り殴られた跡があり、リーフィウは手を縛られていた。それをそっと外し、下を見ると、下肢から血が流れていた。その量の多さに、シャリスは目の前が真っ赤になる。ラ・フターハの残虐的な嗜好は有名で、どれだけのことをされたのかと、怒りで一瞬震えた。
 その上で、あの言葉を吐いた、あの男。
 許せるはずがなかった。
 だが、何も出来なかった。
 シャリスはそのとき初めて、キーファの苛立ちやもどかしさが、わかった気がした。
 所詮、国王軍でも、師団長を容易く斬ったりは出来ない。それどころか、捕まえることさえままならない。
 実権が、ないからだ。
 シャリスは怒りに叫びそうになりながらも、するべきことをなしていった。湯を沸かし、イーザはそっと柔らかい布団に寝かせ、リーフィウの血を拭い……。
 何かしていなければ、到底耐えられなかった。
 その苛立たしさと。
 何よりも、どうにも出来なかった、自分への怒りと。
 その全てに、耐えられそうになかった。


 幼きキーファ王は、無言で暴れたという。
 ただただ、全てを壊したと言う。
 その気持ちが、わかる気がした。
 その中で、何よりも壊したいのは、自分だった。
 何も出来ない自分を、一層のこと、壊してしまいたいと思った。


home モドル 8-05 01 02 03 * 05