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遠景涙恋
第十四章 薄明
05
「私は幼い頃から、歴史学者になることが夢でした」
急に話題を変えたリーフィウに、キーファが軽く首を傾げた。だが、リーフィウはそれを気にせずに、真っ直ぐ窓の外を見ながら話を続けた。
「本を読むのが好きで、そうやって過去を旅することが楽しくて仕方がありませんでした。何百年も前の人間が、自分が今立っているところと同じ場所に立っていたのかもしれない。そう思うと、不思議で……わくわくしました」
本好きなのは、今も変わらないだろう、とキーファは暇さえあれば本を読んでいたリーフィウを思い出していた。自分を待つ寝台の上で、中庭の東屋で、リーフィウは飽きることなく本を読んでいた。
「今より、過去を。未来より、過ぎ去った時を。そちらばかりに目がいって、父にはよく怒られました。過去を学ぶことは大切だが、それを今に生かせずにどうするのだ、と」
あの頃から、きっと自分には王になる器がなかったのだ、とリーフィウは思う。もう消えてしまった過去という時は、再構築するのに膨大な時間が掛かる。そしてその痕跡は、今このときにも薄れていく。そうかと思えば、急に現れたりもする。そのことに、リーフィウは夢中だった。自分が作る歴史には、興味がなかったのだ。
「確かに王となれば、学んだ過去を今や未来に役立てなくてはならないだろう。だが、それも研究してくれる学者がいるからこそ。それは決して無駄ではない」
キーファの言葉に、リーフィウが一瞬目を見開き、それから微笑んだ。
「私は、その学者に、なりたかったのです」
リーフィウが、どこか遠い場所を見る。無邪気に自由な未来を信じていた幼い自分を見ているのか、それとも、遠い過去に思いを馳せているのか。
「その夢を、今、叶えようと思うのです」
きっぱりとそう言ったリーフィウと、キーファの目が合う。
「まだ一部ながら、カハラムの歴史書を読みました。以前キーファ王が仰っていたと通り、体系だった本は未だ編纂されていない。それも、カハラムに残っている文献だけでは、正直心許ない。でも、少なからず、ルクにもカハラムについて記述した本がある。それらを、研究できないかと思っているのです」
そう言った文化交流があってもいいのではないか、と言ったのはシャリーアだ。新しい条約や、ラシッドの出自を利用することは、ラシッドの助言によるところが大きかったが、兄の将来については、シャリーア自身が考えていたことだった。
カハラムの歴史書のいい加減さや、だからこその面白さを、リーフィウは手紙などで書いていた。だから、兄の昔の夢を、シャリーアは思い出したのだ。
「実際にあった事柄を調べていくのですから、現地に赴いたほうがいいこともあるでしょう。でも、大半は文献の研究に費やすと思うのです。それならば」
リーフィウが、ふいに目を伏せた。
「それならば、お傍にいられる」
囁きにも似た小さなその呟きを、キーファは聞き逃すようなことはしなかった。そして、ただ無意識に、その腕を伸ばした。
久しぶりに触れた温もりに、互いに安堵する。一度は、生涯の別れを信じた。その温もりが、今ここにあるのだ。
交わすべき言葉は見つからず、二人はそうやって、長い間、互いの温もりを確かめ合っていた。
シャリーアの提案した新条約は、コクスタッドの使者によってもたらされたラシッドの出自の後押しもあって、締結の運びとなった。シャリーアの戴冠そのものを、カハラムへの反逆だと言うものもあったが、キーファはそれを退け承認、リーフィウの人質の件もあり、しばらく様子を見ることになった。
何度か往復される書簡の中、キーファに一通の手紙が届いた。シャリーアからの、私信だった。
――この度は、ルク女王としてではなく、あなたの友であり、リーフィウの妹として、この手紙を差し上げます。
相変わらずの、勢いのある筆だった。だが、とても丁寧に書かれたことは、一文字一文字に見て取れた。
シャリーアはそこに、詳しい事柄は何も書いてこなかった。語るかどうか、兄に任せたのだろう。ただ、リーフィウを頼むと、何度も繰り返し書かれていた。
実の兄を売った女傑だと、カハラム内でのシャリーアの評判はあまり良くない。リーフィウを貢物のように扱ったと、今ではリーフィウのほうに同情が集まっているほどだった。
だが、それもシャリーアの優しさなのだろう。彼女が他国で生きることになった兄のことを、どれだけ心配しているか、この手紙が示していた。
――今回のことについては、キーファ様には、色々ご迷惑をお掛けいたしました。王として、言うべき言葉ではないとわかっておりますが、感謝の意は、尽きません。友の言葉として、お受け取りいただければと思います。そして、友として、わたくしは、キーファ様を信用しております。
どうぞ、兄のことをよろしくお願い致します。妹として、あなたの友として、心から、お願い申し上げます。
キーファはリーフィウと再び会うことが出来たが、それは同時に、この兄妹を引き離すことになった。人質としてリーフィウを差し出した身では、例えカハラムに戴冠の挨拶に来ても、ゆっくりと話すことはできないだろう。
いつもの東屋にリーフィウを見つけて、キーファは足を早めた。人質と言えども、以前の捕虜扱いから考えれば客人に近くなったリーフィウは、以前より自由がある。そして、学者として生きたいと言ったその言葉を、キーファは支持し、助けることにした。リーフィウは今、好きな本に囲まれて生活している。
現地調査をしたいときは、自分と一緒に行けばいい。キーファはそう言って、時を見てリーフィウを連れ回す気でいる。キーファ自身も実権を握って日が浅く、地方を見ることを重要視しているからだ。
足音に気付いたリーフィウが、本から顔を上げた。僅かに微笑んで、また本に視線を落とす。カハラムにある歴史書の総合的な編纂、そして他国に残っている資料も交えた歴史書を作るのだと意気込んでいるリーフィウは、その資料集めと読書に夢中になっている。
隣に寝そべるように身体を預けてきたキーファに、リーフィウは軽く微笑む。何か飲むかと聞いたが、首を振られた。
「構わないでいい。少し休みたいだけだ」
キーファはそう言って、心地よい風に目を閉じた。だが、リーフィウは本から顔を上げて、首を傾げた。
「キーファ王?今は執務時間内では……?」
キーファは聞こえていない振りをして、目を閉じたままだ。
「また、お仕事をサボって来ましたね?」
その顔を覗き込むと、キーファはぱちりと目を開き、腕を伸ばしてリーフィウの顔を引き寄せて、その煩い口を塞いだ。たぶん、ファノーク辺りが泣きついているのだろう。リーフィウは、キーファが仕事を放り出すことを許さない。
少しくらい、休ませてくれてもいいじゃないか、とキーファは思う。ときには夜中まで書類と格闘したりして、寝入ったリーフィウの傍に潜り込むだけの日も多くある。
「キーファ様……」
二人きりのときだけ、リーフィウはキーファを王と呼ばない。王としてではなく、一個人としてキーファを見ているのだと、言外に教えてくれていた。だから、キーファはそう呼ばれるのが好きだった。
でも、今はその口調に非難じみた色が混じっていた。
「……少しくらい、甘やかしてくれないか。昨晩も、あなたの寝顔しか見られなかった」
その前も、疲れきって眠ってしまった。リーフィウのほうにばかり負担が掛かると思うと、余裕がないときに肌を合わせることはしたくない。吐き出すだけで、その後眠ってしまうなど、自分が許せないのだ。
「随分遅くに、帰ってらしたようですね。十分な睡眠は取れていらっしゃるのでしょうか」
どれだけ遅く帰ってきても、キーファはいつも同じ時間に起きる。朝は朝の仕事があり、放っておくことは出来ないのだ。
心配そうな声に、キーファは再び目を閉じながら、だから、と言った。
「だから、少し休ませてくれ」
「それならば、お部屋に……」
言いかけて、リーフィウは口を噤んだ。無意識に髪を撫でたその手を、掴まれたからだ。
「部屋に帰って、一人で寝ろと?」
「……キーファ様」
「傍にいられる、とあなたは言った。それなのに、少しも一緒のときは過ごせない」
それは多分にキーファの忙しさの所為でもあるし、以前のことから、リーフィウは一切政治には近づいていないこともあった。
リーフィウは、ふっと笑いを零した。子供のように甘えるキーファは、最近になって知った顔だ。自分の思い通りにならないことが重なったり、我慢をしなければならないことがあったりすると、こうして甘えたりする。以前は無言で暴れていたことを考えれば、随分良くなった、とシャリスなど笑った。
だから、リーフィウはこうして甘えてくるキーファを邪険にはできない。それに、そんなことをして、他の誰かに甘えられるなど、考えたくもない。
触れているのは、僅かな部分だ。キーファの頭が、リーフィウの腰辺りに触れているだけで、預けられている、というほどではない。でも、その微かな重みが、愛しいとリーフィウは思った。
「傍におります。約束いたします。……キーファ様がお望みになる限り」
柔らかい声が、囁くように言う。キーファは掴んでいた手首を撫で、その手を包み込んだ。
「では、俺は生涯、それを望み続けることにしよう」
リーフィウの指が、キーファの指に絡んだ。
もう少し。
キーファは目を閉じた。もう少しだけ、こうしていたい。
風に、雪紅花が香った。それに顔を上げたリーフィウは、日の光に、きらきらと輝く、美しい庭を見た。
了
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