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ユーフォリア――euphoria―― 第二話


06
 いってらっしゃい、と雪絵に見送られて、哲史は数ヶ月前と反対方向の電車に乗り込んだ。適当に来ただけだったが、昨晩のうちに路線は調べてあった。わりと遠くだと思っていたのが、あのときは鈍行を乗り継いだから大した距離は移動していなかった。隣町の大きな駅から新幹線に乗れば、二駅だった。
 夕方、久しぶりにその街に足を下ろした哲史は、懐かしさに駅前で立ち止まった。この街を、こんな風に思う日が来るとは、以前の哲史は思っていなかった。忌々しい、生まれてしまった自分を思い出すだけの街だと思っていた。それなのに、懐かしくて堪らなかった。七緒と過ごした時間は、まだ自分が生きてきた中でわずかでしかないのに、その鮮やか過ぎる光景ばかりが思い出された。
 すぐにでも七緒に会いに行こうと思っていたが、揺れる電車の中で、哲史は一つの決心をしていた。まず、父親に会いに行くこと。そして、きちんと自分がこれからどうしたいのか――それが例え理解されなくとも――もう一度話してみようと思った。中途半端にではなく、もう決して屈指もしなければ逃げもせず、同じようなことがあったら戦うことを言っておきたかった。
「おまえから来るとは、思っていなかったな」
 父親はそう言って、疲れたような顔をした。実際、仕事も忙しければ院内派閥のいざこざもあるのだろう。そのうえ自分のことまで、よくやっていると哲史は尊敬するより呆れた。哲史にとっては七緒がいれば幸せで、でも、この人の幸せは、一体なんだろうと思った。これほど疲れ果てて、必死に掴もうとしているものは。
「俺も、自分から会いに来る日が来るとは考えてなかったよ」
 哲史はそう言って、荷物を床に置くと、ソファーに坐った。父親は、じっとその哲史を見ていた。
「大きく、なったんだな」
 ぽつりと呟かれて、哲史は眉根を寄せて父親の顔を見た。呟いた方は、苦笑しているようだった。
「おかしなものだ。ずっと一緒に暮らしていたのに、おまえの成長が少しもわかっていなかったらしい。この間、初めて大きくなったんだと実感したよ」
 父親の聞いたこともないような穏やかな口調に、哲史は寄せていた眉を解いて、あとはただじっと父親を見つめた。
 自分も同じようなものだった。今始めて、きちんと父親の顔を見たような気がする。
「生まれてこなかったものと思ってくれ、と言ったね」
 穏やかなままの口調で、そう言った父親に、哲史は頷いた。あの、凶暴なまでの苛立ちと、絶望的な諦めを持って話した、卒業直前の日を思い出す。それは遥か遠い日のことのようだった。
「おまえは、生まれてこなければ良かったと思うか?」
 親の問うことじゃないと小さく苦笑するのがわかった。哲史は、そんなことを父親が考えているのが不思議だった。哲史の意思など、聞いたこともなかったのだ。
 哲史はふっと七緒を思い浮かべて、その口元を緩めた。息子である前に、哲史なのだと言った七緒。親には恵まれなかったかもしれないが、哲史は七緒と出会った。
「思わない。俺は七緒と出会った。それだけでも、生まれてきた価値はあると思う」
 きっぱりと言った哲史に、深海はそうか、と一言言っただけだった。生命とは不思議なものだ、と医者ながら思う。どんな形にせよ、生まれてきた生き物は強く、そして何者にも支配されないのだ。それを分らないでいた自分の愚かさを、哲史に笑われているようだった。
「私が今できることは、きっと何もしないことだろうね。もう、おまえの生きていく道を決して邪魔はしない。好きに、しなさい」
 焦がれた、言葉だった。哲史はただじっと父親を見詰めて、ありがとう、と呟いた。それは父親に対してだったのか、七緒に対してだったのか、他の何かに対してだったのか、わからない。でも、ただ何かに、感謝したかったのだ。


 疲れ果てて、それでも着替えを持ってまた出かけなければならないことを思いながらアパートの前まで来た七緒は、自分の部屋の前で蹲る黒い物体を見つけて、目を眇めた。用心深く階段を上がると、ふっとその物体が動いて、自分を見た。
「哲史……?」
 呟いた自分の声も、その顔も、きっととても間抜けだったに違いない、と後になって七緒は思った。でもそのときは、まるで信じられない気持ちで、ただ立ち尽くしていた。
 哲史は、その手を伸ばしていいものかどうか、迷っていた。ひどく触れたくて、今すぐにでも飛びつきたいと思うのに、長く離れていた時間が、それを戸惑わせた。でも、それも一瞬のことだった。惚けたように立っていた七緒が、哲史を呼んだ。その懐かしくて変わらない声に、哲史は迷いなど忘れて、飛びついた。勢いがつきすぎて、七緒は階段から落ちそうになるくらいだった。
「哲史、おまえ……」
 七緒が戸惑いながらも、ぎゅっと抱き締め返してくれたことが嬉しかった。そのまま、引きずられるように部屋に入っても、哲史はそこから離れようと思わなかった。とても安心できて、気持ちよくて、離すことが出来なかった。
「どうしてたんだ」
 部屋に入って、ようやく落ち着いてきた七緒は、離れようとしない哲史に苦笑しながら、自分も手を離すことが出来ないことを自覚していた。恐ろしかった。また、どこかに行かれてしまうのではないかと思うと。
「哲史、顔見せろ」
 七緒がぽんぽんっと頭を叩くと、哲史がゆるりと顔を上げた。お互い、間近にその顔を確認して、大きく息を吐いた。
「突然、いなくなるんじゃないよ、おまえは」
「うん、ごめん」
 はあーっと大きな息を吐いて自分の肩口に顔を埋めた七緒に、哲史は素直に謝った。最終的に駄目だったら頼ると言ったのに、結局何も言わずに姿を消した哲史を、七緒がどれだけ心配したのかわかる。痛いくらいに抱く、その腕の強さに。
「話は、おまえの親父さんから聞いた。まったく、見事に隠れやがって」
 口調は怒っている風だったが、吐き出される息に安堵が滲み出ていて、哲史はやはり申し訳なく思った。七緒の仕事の大変さはわかっていたのに、その上探してくれていたなんて、贅沢すぎるな、と思う。ふっと顔を上げると、シンプルなカレンダーに、蛍光ピンクで花マルマークがつけられているのが目に入った。あれから月日は経ったのに、そのままなのか、と哲史はなぜか泣きたくなった。
「もう、どこにも行くな」
 搾り出されるような声に、哲史は頷いた。きちんと言葉にして伝えたいのに、口を開けたら嗚咽が漏れそうで、声を出せなかった。
「覚えておけ。地位や世間体や、そんなものは俺を不幸に出来やしない。おまえがいなくなる方が、よっぽど堪えるんだ。だから、もうそんな理由で俺から離れるな」
 肩口に顔を埋めたままの七緒の声はでも、はっきりと哲史に聞こえた。哲史はやはり頷くだけで、言葉を発することは出来なかった。
 ふいに無機質な電話の音がして、七緒がはっと顔を上げた。それから、慌てて携帯を取り出すと、通話ボタンを押して、いつもの声で「はい、七緒」と答えた。それが、哲史にはひどく懐かしかった。
「ああ、悪い。ああ、すぐ戻る。いや、哲史が」
 そこで、叫び声のようなものが聞こえて、七緒が顔を顰めた。まだ離れていない哲史は、その電話の主が来生だとわかっていた。
「来生、ああわかったから、少し落ち着けよ。はいはい、わかったって」
 苦笑交じりに七緒が言って、哲史に携帯を差し出す。興奮した来生の声は大きくて、会話の内容を聞いていた哲史もまた、笑いながらそれを受け取った。
「はい、来生さん?はい、哲史です。すみません、ご心配かけて」
 七緒がまた、哲史の肩口に頭を乗せた。それから、名残惜しそうに立ち上がると、電話をする哲史を置いて、着替えの用意をした。連日の張り込みが続いていて、今はほんの少しの交替時間だった。それでも署に詰めていなければならないのは変わりなく、少ない空き時間で七緒は家に戻ったのだ。
「ごめん、張り込み中だったんだ」
 適当に着替えをバッグに詰めていると、背後で声がした。七緒はもうどうでもいいとばかりにバッグを閉めると、くるりと振り返って、哲史を抱き寄せた。
「謝るなよ。ああ、でも……」
 今離れるのは不安が大きすぎた。そういう女々しさが自分にあるのに驚いて、七緒はため息をつく。
「大丈夫。待ってるから」
 それに気付いたのか、哲史がそう笑った。七緒はそれでもしばらく、哲史を離そうとしなかった。あいつ、絶対さっさととっ捕まえて吐かせてやる、と唸っている。
「七緒に話したいことも――したいことも、いっぱいあるんだ。だから、待ってるから」
 哲史がそう言って、思いついたように口付けようとしたのを、七緒が慌てて手で遮った。
「七緒?」
「おまえな、抑え効かなくなるようなことしてくれるな。俺も聞きたいことも、したいこともたっぷりあるから、すぐ帰る」
 七緒はそう言って、ようやく哲史から離れた。そう言えば、お預け状態が続いていたのだった、と今更七緒は気付いた。少し不安げな哲史に、艶やかに笑いかける。
「哲史、覚悟しとけよ」
 そう言って、玄関から出て行った七緒を哲史はぼうっと見送った。覚悟などとっくに出来ているのに、あの顔はないと思う。期待が膨れるだけ膨れ上がった気がする。
 七緒って、ときどきずるいよな、と哲史はため息をついた。





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