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ユーフォリア――euphoria―― 



06

 開け放していた窓から涼しい風が入ってきて、ふと顔を上げると、雨が降り出していた。七緒は窓へ近寄ると、少しだけその風を吸い込み、ぱたりと窓を閉めた。
 テーブルの上のウイスキーを飲もうとグラスに手を掛けて、先刻の風でその上にあった紙の切れ端が飛んで、下に落ちているのが目に入った。それを、拾い上げる。伏見の、顔に似合わない繊細な字で書かれた、二つの番号。
 できることなら、そのどちらにも頼らずに、自分で哲史を薬物の深みから救いたかった。
 ――今度こそ。
 七緒は、ウイスキーの残りを一息に煽ると、どさりとソファーにもたれかかった。テーブルにはもう一つ、今ではすっかり手に馴染んだ、プライヴェートの携帯が置いていある。
『七緒ぉ?』
 先ほどまで話していた、舌ったらずな、哲史の声がよみがえる。それですぐに、薬をやっているとわかった。
『哲史』
 少しだけ、怒気の含んだ声で名を呼ぶと、哲史が笑うのがわかる。薬に手を出してから電話をしてくるのは、止めてほしいからだと七緒は思っている。
『おまえまた……』
『ねえ』
 七緒の言葉など聞いていないかのように、哲史の媚びるような声がする。いつもより、ひどいかもしれない、と七緒は思った。
『おまえ、今どこに……』
『セックスしよう?』
『は?』
 思わぬ言葉に、七緒は携帯を落とすかと思った。哲史は、くすくすと笑っている。
『セックスー』
『哲史、』
『ねぇー、しようよぉ。気持ちいいこと』
 笑いを含んだままの声で、哲史がかすれた声で言う。薬を使ってセックスをすれば、感覚が鋭くなって気持ちよくなる、というのは七緒も聞いていた。それを哲史もわかっていて、身体を売る前に薬を舐めたり打ったりしているのも知っている。
 何度も、何度もだ。
 どちらもやめるように、話をした。でも、例えば薬をやめるといって捨てても、哲史はすぐにまた、薬を欲しがる。そのために、身体を売ってそのお金を稼ぐのだ。悪循環だ、と七緒は思う。
 哲史をそばに置いておけたら、と考えたこともある。でも、哲史には両親もいるし、学校もある。問題は、その両親は哲史の今の状態を知らず、哲史は知られないようにしていることだ。驚くことに、学校を滅多に休まないのもそのためだ。
『大丈夫』
 と微笑んでいた。役目さえ間違わなければ、大丈夫、と。
 役目――
 哲史はきっと、ずっとその役目とやらを果たしてきたのだろう。だから、それさえこなせば、どうなってもいいと思っている。
 生きていくということは、そういうことじゃない。そうきっぱり言えない自分が、七緒は歯がゆい。哲史が、哲史らしくあることが一番良いのだと、ただ言うだけでは足りないと思う。
 雨の音が激しくなって、七緒はふと顔を上げた。窓には、幾筋もの雨の跡が流れている。
 哲史は、どこにいるのだろう。
 先刻の電話は、きっと部屋からではない。背後に街のざわめきが、かすかに聞こえていた。自分に断られて、ほかの誰かに抱かれているのだろうか。
 ふとそう思って、七緒の唇が震えた。それから勢いよく立ち上がると、ジャケットを羽織り、携帯と傘を掴んで、外へ飛び出した。走りながら、哲史の携帯を鳴らす。でもそれは、呼び出し音だけを流しつづけていた。


 ようやく哲史を見つけ出したのは、それから一時間も経ってからのことだった。哲史の行動範囲を大体抑えている七緒は、最近一番頻繁に通っている繁華街を、走り回っていた。その間、何度も携帯を鳴らしたが、返事はない。走っている七緒には傘はほとんど役に立たず、そのうち邪魔になって、畳んでしまった。それでも雨は、小降りになったわけではない。
 ようやく見つけたときには、七緒はずいぶんと濡れていた。そして、哲史もまた、雨に濡れたままガードレールに腰掛けていた。
 初めて会った日も、雨だった。こんな風に、座ってどこかを見つめていた。
「あー。七緒だあ」
 七緒が近づくと、哲史がすぐに見つけて、ふわりと微笑んだ。それから、七緒の首に腕を巻きつけて、抱きついた。とろりとした目は、楽しそうに笑っている。
「抱きにきてくれたの?」
 すっかり体重を預けた哲史は、重たい。七緒は首からその腕をはずそうとしたが、哲史が嫌だと首を振る。
「なんか満足できなくってさあ。ねえ、抱いてくれる?」
 くすくすと笑いながら、媚びるような艶やかな視線を送る哲史から顔をそむけて、七緒はただ、帰るぞ、と言った。
「どーこにー?」
「おまえの家」
「七緒のとこがいいなあ。大丈夫。今日はウチには誰もいないし」
 七緒はなおも巻きついている哲史の腕を無理やり引き剥がしにかかり、歩くように促した。確かに、このまま家に帰しても大人しく眠るとは思えない。七緒は仕方なく、タクシーを止めて、自分のアパートまでの住所を告げた。
「七緒ぉ」
 なんとか哲史にシャワーを浴びさせて、後から自分もシャワーを浴びて髪を拭きながら出てきた七緒を、哲史が甘ったるい声で呼んだ。見ると、ベッドに横になって七緒を呼んでいる。
 着替えにと出したTシャツは細い哲史にはぶかぶかで、短いスエットのズボンから伸びたすらりとした足がいやに艶かしい。男の身体の目のやり場に困るというのは、どういうことだろう、と七緒はため息をついた。哲史はわかっていて、誘うような格好をしているのだ。
「ねえ、セックスしようよー」
 電話から数時間はたっているが、まだ薬の効果が切れないのか、哲史はいつもと違う舌っ足らずなしゃべり方をしている。
「しない。だから早く寝ろ。大体、おまえの寝るとこはそこじゃない、あっち」
 七緒がそうソファーを指すと、哲史がむくりと起き上がった。
「なんで?俺とじゃやだ?」
 言いながら、七緒に抱きつく。それから、俺は、七緒が欲しいのに、と呟いた。
「言っただろ、犯罪なんだよ、犯罪。それに――」
「じゃあ、俺が大人になったらしてくれる?」
 首に腕を巻きつけて、間近になった哲史の目は、意外にも真剣だった。それに、七緒は戸惑った。
 哲史を、そういう目で見たことはない、と七緒は断言できる。放っておけず、なんとか救い出したいと思うそれは、もっと肉親の愛情に近い気がしていた。そう、まるで弟のような――
 ふと唇に生暖かいものを感じて、七緒は自分が考え事をして、油断したと悟った。哲史が、唇を重ねてきたのだ。まだ子供とは思えない、ひどく官能的な口付けをする。
 唇を割って、舌を絡ませて――
「ん……っ」
 その快楽の波に呑まれそうになった七緒がはっと気づいたときには、哲史は鼻を鳴らして、のけぞった。七緒の腕に、ずしりと重みがかかる。
 哲史はそのまま、すやすやと眠りに落ちていたのだった。


 仕方なくそのまま哲史にベッドを譲った七緒は、身体の節々がわずかに痛いと感じて、目を覚ました。そういえば、ソファーで無理やり眠ったのだと思い出す。
 目を上げてベッドを見るともぬけの殻で、七緒は眠たい目をこすりながら、起き上がった。昨晩は、あまり眠れなかったのだ。
 七緒の部屋は広いが仕切りがなく、キッチンからリビングになるところが一段低くなっていて、またベッドのある空間へと高くなる。つまり、リビングだけが一段低くなって、仕切りの代わりをしているのだ。ソファーはそのリビングに鎮座していて、目の前のテーブルには、昨晩飲んだウイスキーのグラスに氷が溶けたものと、伏見からもらった電話番号が書かれた紙と並んで、「ごめんなさい」と一言だけ書かれた紙が置いてあった。
 見ただろうか、と煙草を咥えながら思う。
 見た、だろう。
 別に隠していたわけではなく、紙は開いてもあった。見られて困るわけではない。でも――
 自分は決して見捨てはしない。離れたりはしない。それだけを、哲史に信じていて欲しかった。


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