gravity
05
そもそも自分も深住も男であり、出会いは間違い電話だ。これが恋になるはずなど、なかった。
恋ね……。
休日の昼に簡単に作ったうどんを食べながら、陽はぼんやりとテレビを見ていた。
男同士で恋だとか考える自分が馬鹿なのだ。
一味唐辛子のたっぷり入った汁を飲む。身体の中から温かくなって、ほっと息を吐く。
ただ気持ちを傾けるだけならいい。ただずっと、想っているだけなら。でも、いつかそれが苦しくなると陽は経験上知っていた。女の子相手にも、陽はいつだって尻込みをして見ていただけだからだ。だが、自分だけが想いを募らせていくのはとても辛い。
女の子相手なら、玉砕覚悟で気持ちを告げることもできる。今まで付き合った二人のうち一人は、あまりのことに業を煮やした友人たちに仕組まれて、叫ぶように告白した。だが今回は。男相手ではどうすることもできない。
華やかに目立っていた深住と鞠絵を思い出しながら、陽は良い機会なのかもしれない、と考えていた。ここ三週間ほど、深住からの連絡が一度もない。何度か自分から電話を掛けるかメールをするか、と迷ったこともあるが、結局実行できないままだ。深住からも連絡がないから、余計に行動を起こしづらくなった。
元々ただの間違い電話が始まりだったのだ。最初の暴言を詫びたいと言った深住の目的は果たしている。
陽はどんぶりを流しに入れ、コーヒーを淹れた。和食の後でも、この苦い飲み物が欲しくなる陽のコーヒー好きに呆れた深住を思い出す。でも、それからときどき、和食の後に遅くまでやっている喫茶店やコーヒーショップに誘ってくれるようになった。
寄ってく? と訊くときの深住の顔はなぜかひどく甘い。陽はなんとなく気恥ずかしいような気分になることが多かった。多分、馬鹿みたいな期待をして、自分自身が甘やかな気持ちになったのだと思う。
そんなときが、一番幸せだった。ゆっくりとコーヒーを飲みながら、深住が煙草を吸う様をぼんやり見たり、他愛のない話をしたり。夜中近くの膜掛かったような店内で、二人で、寛いだ気持ちになって。
陽はため息を吐いて、コーヒーをこくりと飲んだ。苦みがゆっくりと口内に染み込んでいく。
幸せだった。
あのときは何となく嬉しいような温かいような気持ちだった。思い返せば、あれが幸福というものなのだと思う。
今でも、幸せになれる。あんな些細な、思い出を浮かべるだけで。
午後、姉から電話があった。近況報告も兼ねて、家族の様子を少し聞いた。
「うん、元気よ。でもやっぱり、年とったかな」
電話越しに、姉のため息を感じる。本当は自由奔放が売りの姉が、両親のために実家に残っていることは陽も知っている。
「正月には帰るよ」
「当たり前でしょ。みんな待ってるわよ」
そして、長男の陽の結婚があまり期待できないこともわかっていて、姉は結婚しても家にいられるように考えている。
「私も、陽に紹介したい人いるし」
「え? それ……」
「うん」
恥らうような、嬉しそうな声だった。陽はひどく安心して、ゆっくりと長い息を吐いた。
「お医者さん?」
「そう。父さんのこと、尊敬してるとか言うの。……いい人よ」
良かった、と心の中で呟く。姉が結婚できないのは、自分の所為ではないかと陽はずっと思っていた。戸籍上は嫁に行ったとしても、実家に婿に来てもらう形になるからだ。
「楽しみにしてる」
言うと、姉が微笑んだのがわかった。
自分が実家にいられるならいいのかも知れない。陽は何度かそう考えたことがある。でも、自分がどんな職場でもやっていける性格ではないこともわかっていた。
その上、医者の家を継ぐでもなく、いつまでも結婚しないで家にいる自分に風当たりが強くなることも想像できた。いまだそう言った考えが根強い土地なのだ。両親もまた、言葉にはしないが心配していた。
姉の声はとても幸せそうだった。しっかりした姉のことだから、妥協して選んだわけでもないだろう。兄となる人は、きっといい人に違いなかった。
陽はなんだかひどくほっとして、ベッドにごろりと横になった。それから思い出したように流していただけのテレビを消し、音楽をかけた。女の声で、ジャズが流れる。
――あんたも、誰か見つかればいいのにね。
姉がぽろりと言った言葉だ。そうだね、と返したけれど、どことなく胸の内が苦しかった。
――あんた、淋しがり屋なのにね。
それには、そんなことないよ、と返したけれど、弱々しい声だった。「その点だけは頑固よね」と姉は呆れた声を出していた。
天井を見上げて、目を閉じた。何もかも自分の望み通りになるはずがない。陽はこの城と松館図書館と言う城を守れればいい。その二つがあれば、それでいいと思った。そうやって生きていければ。
曲の間奏部分になったところで、不釣合いな機械音が部屋に響いた。陽は驚いて起き上がり、テーブルの上の携帯電話を掴んだ。見知らぬ番号だった。でも、どこか見覚えがある気がする。
そう首を傾げたところで、思い当たる人物がいた。見覚えがあるのは、自分の番号に似ているからだ。
「はい」
一応の警戒心を持って電話に出てみると、相手はやはり木室だった。「突然悪いな」と恐縮している。
「いえ。どうしたんですか?」
「いや、今日、深住がアメリカに発つ日だろ? 牧谷さんは見送りに行くの?」
突然の言葉に、陽は一瞬言葉が出なかった。
「アメリカ……?」
「あれ、今日だよな? 夜の便」
知りません、と思わず陽は叫んでいた。
そんなこと、聞いてない。アメリカなんて、聞いてない。
「え……え、そうなの?」
「アメリカって、本当ですか?」
「そう聞いたけど。向こうで新しい店を出すとか」
陽は呆然と立ち尽くした。深住が、アメリカに行く――。
「俺は空港まで行けないから、ちょっとあいつの家まで餞別を渡しに行こうと思って。牧谷さんも、もし良かったら行かないかと……」
「行きます! 連れて行って下さい」
今までこんなにはっきり自分の希望を言ったことがあったかと思うほど、陽はきっぱりとそう言っていた。
木室は駅前に迎えに来てくれた。陽はただ不安ばかりを感じて、ずっと硬い表情をしていた。車の中でも、最初に挨拶とお礼の言葉を交わしたくらいで、会話はなかった。
木室がちらちらと陽を見ていたが、それにも気付かなかった。
陽は思い込むと激しいタイプだ。淋しくない、淋しくないと言い聞かせるのもその所為で、そうすれば、本当に「淋しい」と思わなくなると思っている。
深住の住まいは想像に違えず、閑静な住宅街にあった。
驚いたことに、庭に背の高い木々が植わった、一軒家だった。白壁に年月を感じさせるこげ茶色の木枠の窓が、都会ではなく避暑地のような印象を抱かせた。
ただ、それらの家の外観を眺める暇は、陽にはなかった。木室の車から飛び出して駆け込んだところ、深住がスーツケースを持って車に積もうとしていたからだ。
「深住さんっ」
深住が驚いた顔をして、振り返った。陽は走ったわけでもないのに、荒い呼吸を繰り返した。鼻がつんっとしてくる。
「陽? どうした?」
「深住さん、アメリカ行くって……」
ああ、と深住が僅かに顔を伏せて、微笑んだ。
「行くよ。これから空港行くところだけど」
陽はぐっと唇を噛んだ。じっと、まるで睨むように深住を見る。深住はそんな陽をちらりと見た。
「――陽、ちょっとおいで」
「え?」
「いいから、ちょっとこっちに来て」
突然そんなことを言う深住に首を傾げながら、陽は深住に近寄った。手を伸ばせば触れられる距離で、立ち止まる。大きなスーツケースが目に入って、自然、逸らすように横を見た。その頬を、深住の指がすっと滑った。
「引き止めにでも来た?」
陽は深住に視線を移した。それから、小さく唇を震わせた。どうして、そんな甘い笑顔をしているのだ。自分は、こんなにも泣きそうなのに。
「陽? どうして来た?」
深住の右手の指が、頬を撫でる。どうして、そんなに優しく触るのだ。
「迷惑でした?」
「そうは言ってない。ただ、ずっと連絡がなかったのに来たから」
「深住さんだって」
「陽は一度も、自分から連絡を寄越したことないだろう?」
それについては弁解の仕様がなく、陽は顔を伏せた。深住が小さくため息を吐く。頬を撫でていた指が、離れていった。
「迷惑だったのかと思って、俺も連絡しなくなった。強引なところがあるのも認める。陽、最後だから、正直なところを聞かせて欲しいんだけど。ずっと、迷惑だった?」
深住の言葉の途中からずっと、陽は首を横に振っていた。
迷惑だなんて、思ったことはない。
「そんなことない。迷惑だなんて思ったこと、一度もないです。いつも、楽しかった。だから――」
だから? 促す柔らかい声色に、陽は思わず吐き出すように言った。
「だから、行って欲しくなくて。会えなくなるなんて、嫌で。こんなの、我侭だってわかっているけれど――」
言い終わる前に、陽は深住に引き寄せられていた。驚いて顔を上げると、ゆっくりと唇が重なった。柔らかく温かい。腰と背に回った逞しい腕に、陽は眩暈がした。
「ん――」
舌が絡み合う。与えられるとは思っていなかったものを得て、陽はひどく幸せな気持ちになった。
でも、それはあまりに儚くて。
深住は遠くへ行ってしまう。そう思うと、瞳が潤んだ。首に腕を回して、「離れるなんて嫌だ」と呟くと、深住の腕に力が入った。
「――陽、タイミングが悪いな。昨日――いや、せめて一時間前だったら……」
行かずに済んだのに、ということはないだろう。旅行ではなく仕事だと木室は言ったはずだ。陽は意味がわからず顔を上げた。と、後ろから声がした。
「駄目ですよ。時間ぎりぎりですから。キャンセルも無しです。向こうも数ヶ月待った、と煩いんです」
他に人がいるのをすっかり忘れていた。深住に声を掛けたとき、スーツケースを車のトランクに入れるのを手伝っていた人間がいたのに、気にしていられなかったのだ。木室の車に乗せて来てもらったと言うのに、彼の存在さえ忘れていた。
陽は慌てて深住の腕から抜け出した。先刻一体、自分は何をしただろう。穴があったら入りたい、とはこんな心境に違いない。
「わかってるよ。陽、空港まで一緒に行くだろう? たっぷり可愛がる暇がないのは心残りだが、仕方がない」
「車中でしようとか考えないで下さいね。たった三ヶ月でしょう。我慢してください」
にっこりと笑った男はすらりとした体躯をしていて、縁無し眼鏡の似合う、少し冷たそうな顔をしていた。だが、それがひどくこの男に合っている。
「え? 三ヶ月?」
「たったとは言わないよな。三ヶ月も、だろう。まあ、もともと余裕のある日程だから、二ヶ月――いや、一ヵ月半で終わらせる」
待ってろよ? と深住の指が再び陽の頬を滑った。だが、陽は口をぽかりと開けて、呆然と深住を見ていた。
「――ずっとじゃなくて? 三ヶ月だけ?」
「陽まで三ヶ月だけ、なんて言うのか。俺はひと月近く会えなかっただけで、堪らなかったのに」
騙された。いや、自分が誤解しただけだろうか。
陽は今度こそ、頭を抱えて座り込みたくなった。そもそも、木室の言い方からしてもう会えなくなると思えたじゃないか――そう思い出そうとしたが、確かに「ずっと」とか「もう会えない」とか、言っていなかった。つまりは自分が勝手に変な思い込みをしてしまったということか――。
陽が情けなさに泣きそうな顔をして木室を見ると、木室はどことなく視線を逸らしている。
「木室さん……? もしかして……」
「いや? 俺はついでに牧谷さんに声掛けただけだけど」
本当かもしれないが、嘘かもしれない。じとっと睨むと、木室は居心地が悪そうな表情をした。
「まあ、終わりよければ全て良しって言うし」
良かったと思わないか? そう言われて、陽も何も言えなくなった。
「さて、陽。そろそろ空港に向かわないと、怖い秘書殿が怒り出しそうだ」
するりと、ごく自然に腰に腕が回ってきて、陽は真っ赤になった。せっかく少し熱が引いた気がしたのに、また耳の先まで熱くなる。
そのまま車の中に押し込まれそうになって、陽は慌てて深住の腕から逃れた。
「陽?」
「あの、気を付けて」
とてもじゃないが、空港まで一緒にはいけない。秘書だと言う彼にも悪いし、それに、ああ言った別れの場に行くと、余計離れがたくなる気がする。
陽が木室の下に小走りで向かうと、深住のため息が後ろから追いかけてきた。
「陽、三ヶ月も会えないのに……それもようやく想いが通じ合ったのにここで別れるなんて無粋じゃないか」
陽はふと立ち止まると、くるりと振り返った。それから、一ヵ月半、と呟く。
「え?」
「一ヵ月半で帰って来るのでしょう? 待ってますから」
それに答えたのは、秘書の男だった。深住は苦笑を浮かべている。
「わかりました。深住が約束を破らぬよう、私が見張っていますので」
陽が軽く頭を下げると、その男は楽しげに笑った。
顔を上げたところで、深住と目があう。いつもの甘い目をしていて、陽の頬も緩みそうになった。
食事の後、二人でコーヒーを飲むときのような、幸せな気持ちだった。
早く帰ってきて欲しい、と陽は本気で願った。これが夢だと思わないうちに、早く――。
深住は多分、陽のことが手に取るようにわかるのだ。
深住がアメリカに発ってから、毎日のように国際電話が掛かってきて、陽はそう思った。あの日のことは嘘だったかもしれない。陽は良くそう考える。でも、深住は簡単に、電話一本で、嘘じゃないと伝えてくれる。アメリカでの話や、他愛ない話や、陽が立ち尽くして絶句するような囁きでもって。
声を聞くたびに、会いたい、と思う。電話での会話で、会えば何をするのかわかっているのに、それを最初に想像したときは気が遠くなるような思いだったのに、それでもいいから会いたいと思う。深住ならきっと、男同士なんてどうしたらいいのか良くわからない陽をからかいながらも、上手く進めることだろう。そんな妙な安心感まで感じている。
なんだか深住の思い通りにされている気がして、陽は悔しい。だからときどき、陽はぽろりと本音を漏らすことにしている。そんな時、深住は息を呑むからだ。
――会いたい。淋しい。
そう言うだけで、深住は僅かながらも絶句して、切なそうな息を吐く。だが、陽の逆襲はそこまでで、その後口を開く深住はここぞとばかりに、こちらが恥かしくなるような甘い言葉を囁き続ける。
もうすぐ深住が帰って来る。律儀に報告してくれる仕事の進み具合を聞いていると、約束は守られそうだ。実はこっそりとカレンダーの日付を斜線で消しては後何日、と数えていることは内緒だ。
陽は電話を切ると、窓を開けた。ひんやりとした空気が部屋に入ってきて、肩を竦める。冬の朝の空は青く晴れて、目に染みた。
今晩は姉と婚約者を連れて、木室のレストランで婚約祝いをする予定だ。その提案をしたとき、姉はひどく驚きながらも喜んでくれた。
――あんたも少しは成長してるのね。
そう言われたのは悔しく腹立たしい。でも、心配を掛けていた自覚はあるから、もう大丈夫だと示すべきなのだろう。
少なくとも、今は少しは素直になれる。淋しいと、言う相手がいる。
ふと視線を落とした先に、親子連れが見えた。母親の手を握ってスキップするように歩いていた子供が顔を上げてきて、手を振った。陽は笑いながら、手を振り返した。男の子は、再びスキップをしながら遠ざかっていく。陽はそれを見ながら、ゆっくりと窓を閉めた。
(了)
今回のリクエストは、
・登場人物のどちらかが眼鏡着用
・携帯no.のなぐり書き
・大人テイスト
でした。まずはものすごーく遅くなってしまって申し訳ありませんでした。
そして楽しいリクエストをありがとうございました! 書きながら、私もとても楽しませていただきました。
少しでもお気に召したら嬉しいです。