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半夏生

05
 久しぶりに二時間ほどの残業で済んで、どうしようかと思いながら鴇田がビルから出ると、雨が降っていた。思わず見上げた空は真っ黒だった。
 天気予報など、見ていない。月が変わったのは月末の戦場を生き抜いてきたから、わかっている。六月になって、梅雨に入ったのだろうか。鴇田はここ数年、季節の移り変わりを考えたことはなかった。鴇田が気にするのは、原油価格の変動だったり、半導体市場の変化だった。
 自社ビルから駅まで、歩いて十分、走れば五、六分でつくだろう。濡れるのを気にせずに雨の中を行くか、それともサハラに行くか――空を見上げたまま鴇田は考えていた。
「お帰りですか」
 後ろから声が聞こえて、鴇田はそのまま頭を後ろに向けた。背の高い影が見えた。
「おう。夏目も今帰りか」
「はい。ああ、雨なんですね」
 夏目が横に並んで、空を見上げた。
「傘……持ってないですよね」
 朝はそれほど悪い天気ではなかった。そもそも鴇田は、雨でもないのに傘を持つのが嫌いだった。念のために、と持っていても、大概どこかに忘れてきてしまう。
「おまえもだろ?」
「ええ。止みそうもないですね」
 大降りとまでは行かないが、小雨ではない。夏目は大して困った風ではなく、空を見ていた。それから、ふいに鴇田を見た。
「飯にでも行きませんか」
 意外な誘いだった。夏目は誘いになかなか乗ってくれないと、女子社員が口惜しがっていたのを鴇田は聞いていた。
「一時間ぐらいじゃ、止みそうもないですけど」
 どうですか、と夏目が視線を流した先には、居酒屋があった。ビルが立ち並ぶ中、少し場違いなほど古びた居酒屋だったが、酒も飯も上手いことで知られていた。
 鴇田は「そうだな」と頷いて、ゆっくりと足を踏み出した。数歩歩いて、振り返る。夏目はまだ、突っ立ったままだ。
「行かないのか」
「いえ、行きます」夏目が微かに笑った。
 その柔らかさに、鴇田は一瞬、その顔を見つめた。そんな顔も出来るのか。鴇田は意外なものを見た気がした。
 ぱしゃりと音がして、夏目が鴇田の隣まで大股で歩いてきた。鴇田はそれを待たずに、歩き始めた。スーツの上着は、すでに濡れて色が変わっていた。


 鴇田は店の前で上着を脱いで、おざなりに雨を払った。それから中に入ると、もわっと暖かい空気がワイシャツの身体を包んだ。二人、と案内の店員に指で示すと、座敷とカウンターがありますが、と言われた。鴇田は夏目の意見は聞かずに、カウンターに向かった。
「生を貰えるかな」
 鴇田がそう言うと、夏目も「俺にもお願いします」と付け足した。それから鴇田は、適当に食べ物を頼んだ。
「おまえは?」
 おしぼりで手を拭いて、出てきたビールを煽る。店員は、夏目の注文を待っていた。
「じゃあ、唐揚げと冷奴と、トマトサラダ」
 店員が去っていくと、夏目はおしぼりで手を拭きながら、また微笑した。
「鴇田課長って、マイペースなんですね。さっきも」
「さっき?」
「雨の中、ゆったりと歩いて行くんですから」
 鴇田は肩を竦めた。
「走っても変わらないだろう」
 そうですね、と答えて、夏目は自分のグラスを鴇田のグラスに軽くぶつけた。
「お疲れさまです」
「ああ、お疲れ」
 冷奴がカウンターに置かれた。鴇田が食べるように促すと、夏目は礼儀正しく「いただきます」と手を合わせて食べ始めた。最近、こう言う若者を見ていない。
「月末は大変だと聞きました。お疲れ様でした」
「ん?ああ。やっと終わった。でもまたすぐに始まる」
 頼んでいた目刺が来て、鴇田はそれを頭から齧った。それを飲み込んでから、鴇田は口を開いた。
「そっちこそこれから大変だろう。新規プロジェクト、発足したんだろう?」
 鴇田にはメールでその知らせが入っていた。寺井は頼んだなどと言っていたが、実際のところは開発そのものに鴇田はタッチしない。
「はい。……大変です。遣り甲斐はありますが」
「遣り甲斐か」
「寺井課長には感謝しています。こんな機会を与えてくださって。尊敬できる上司を持って、俺は幸せだと思ってます」
 夏目はビールをごくりごくりと飲んだ。見ていて気持ちのいい飲みっぷりだった。
「俺に言っても仕方がないだろう。寺井に言ってやれ」
「照れて怒鳴られそうなので、言えません」
 鴇田が隣を見ると、夏目はにやりと笑っていた。違いない、と鴇田は思った。あれで寺井は照れ屋なのだ。
 夏目は食べっぷりも見事だった。から揚げが出てきたところで、ほっけとコロッケと漬物、ビールの追加を頼み、鴇田にも勧めた。鴇田が頼んだのは、目刺と焼き鳥と枝豆で、それだけで十分だった。
「若さか」
「え?」
「いや、よく食べるなと思って」
 確かに昔は、もう少し食事と言うものに楽しみもあったし、もっと食べていた気がする。鴇田は漬物を貰って、ぽりっとそれを噛んだ。
「鴇田課長が少食なんだと思います。その割に、飲むのは俺と変わらないんですね」
 二人とも、二杯目の生ビールを飲んでいた。グラスには、もうほとんど残っていない。
「少食ね。そんな品のいいもんじゃないけど」
 鴇田はグラスをあけ、日本酒を頼む。「それ二つで」と夏目が追加した。ちらりと横顔を見たが、まったく酔っているような様子はなかった。
 頼んだ日本酒を終わらせて、二人は店を出た。食べたのはほとんど自分だからと、夏目は自分が払うと強固に言っていたが、鴇田は無理やり割り勘にした。入社二年目の若造に、奢ってもらうわけにはいかない。
「気にすんな。この分はおまえの上司が埋め合わせる」
「……寺井課長は関係ないでしょう」
 硬い声だった。鴇田は「おまえはそれを、仕事で埋め合わせる」と気にしていない風に言った。
 雨はまだ降っていた。すっかり濡れそぼったアスファルトが、きらきらと街灯を反射させている。ここからなら、「サハラ」まですぐだ。鴇田は駅とは反対方向に足を向けた。
「鴇田課長?どちらに?」
「まだ飲み足りない。――来るか?」
 鴇田の予想とは反対に、夏目は頷いた。鴇田は肩を諌めて、歩き出す。
「あ……ご迷惑でしたか」
「いや?それなら誘わん。俺は社交辞令とか上手く言えない人間なんだ」
 夏目が微笑んだのが視界の隅に見えた。外見からすれば、こう言った控え目な笑みを見せる人物には見えない。
 サハラでは、夏目は大歓迎を受けた。鴇田が人を連れてきたのは初めてのことで、それも若くて格好がいいと、百合絵はうっとりと夏目を見る。だが、美人ママのその歓迎振りにも、そつのない態度で応対してしまう夏目を、鴇田は苦笑交じりで見ていた。これでは、会社の女の子達など太刀打ちできないだろう。
「じゃあ、鴇田課長は毎日ここに?」
「そう、家では飲むなって、厳しく言い渡されているのよね?」
 百合絵が可笑しそうに言う。夏目が、首を傾げた。
「課長、ご結婚は……」
「してないよ。一人暮らしだ。だが生憎、小姑並にうるさい友人というのが一人いる。おまけにそいつは、同僚ときた」
 鴇田は悪びれもせずそう言った。
 最初のとき、寺井はそのためにここに連れて来たのだ。家で飲まずに、ここで飲め、と。確かに、家で浴びるように飲んでいた頃より酒量は減ったし、例えホテルであろうが睡眠をとっている。
「帰らないんですか?」
「そうなのよ。終電なんて気にしないし、カプセルホテルに泊まるか、ファミレスとかマージャンとかで時間潰して、会社で寝たりしてるのよね?それは寺井さんも心配するわよ。ひどいと一週間とか帰らないんでしょう?着替えはどうしてるのよ」
 百合絵が何杯目かの水割りを作りながら言う。少し酔ってきているようだった。普段は、これほど客のことをぺらぺら喋ったりしない。
「適当に買うか、取りに帰ったりしてるよ」
 何枚か下着やシャツの予備が会社に置いてあることは、鴇田は言わなかった。
「それにしても、なんでそんなことをママが知ってるんだ」
「そりゃあもちろん、あなたのその親切な友人が、心配してときどき来るからでしょう。来られないときは電話のときもあるし」
「電話?何考えてるんだ、あいつは」
「心配してるだけでしょう?」
 百合絵の声がひどく柔らかく響いた。彼女が一体どこまで鴇田の過去を知っているのか、聞いたことはない。鴇田が彼女に何も聞かないのと一緒だ。百合絵と言う名前が、本名なのかどうかも、鴇田は知らない。そうやって、距離を取ってきた。
 だが、寺井は知っている。きっと何もかも、知っている。
「というわけで、今日は終電までに帰ってね。ちょうど夏目さんもいらっしゃるし」
 にっこりと百合絵が笑った。彼女がそう言ったからには、鴇田は逆らえない。一瞬、良く行く雀荘が頭の隅を過ぎったが、夏目が「責任重大ですね」と言って、それも消えた。
 サハラで傘を借りて、駅まで歩いた。百合絵は「家までしっかり送り届けてね」と言っていたが、夏目もさすがにそこまでするつもりはないようだった。電車の方向が逆だと知って、鴇田が「じゃあここで」と言えば、頷いて何も言わなかった。
 駅に入る前に煙草を吸いたくて、鴇田は傘を差したまま道の端で煙草に火をつけた。夏目も立ち止まる。
 先に行っていいと言おうと思ったところで「煙草、貰ってもいいですか」と夏目の声がした。鴇田は煙草を口に咥えたまま、少し俯いてポケットに手を伸ばした。
 すっと、長い指が目の前に現れた。それが唇に挟んでいた煙草を取った。
 鴇田が顔を上げる。夏目は鴇田から奪った煙草を一吹かし、美味しそうに目を細めて吸って、長い煙を吐き出した。それから、咥えていた煙草の形を残したままの鴇田の口に、それを戻した。唇に、夏目の指が触れる。
「今日は、ありがとうございました」
 夏目はすっと頭を下げて、おやすみなさい、と駅構内に向かっていった。鴇田はその後姿を、ぼんやりと眺めていた。


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