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青空でさえ知っている

04

 すっかり、忘れていた。
 正直に言えば、安里は少しだけ、実行委員の仕事が楽しくなってきている。こうして、吉岡と話したりもできるし、みんなで一つのことを成功させようと奔走するのは、楽しかった。ひどく忙しい毎日ではあったが、充実した日々でもあった。
「なんかさあ、理が自分が無理矢理引っ張り込んだだけだからって、委員長――あ、うちのクラスのね――に言っててさ。とりあえず、節句対決終わったら、他の奴に頼んでみる、とかさ。俺は反対!」
 吉岡は「断固反対!」と叫んで、安里の手から奪ったコンテナを自分が持ってきたコンテナの上に重ねた。菖蒲の葉はコンテナに納まりきっているわけではないから、そうすると葉が傷つくのだが、安里はそんなことに気を回せる状態ではなかった。
 ――そういえば、節句対決までって言ってたっけ……。
 今は、やってみてもいいかな、と思っている。だが、今更だ。前言を撤回してまで、自分が続ける意義もわからない。自分にとっては大きな意義がある。だが、イベントを取り仕切る委員会には、もっと活発で積極的な生徒の方が役立つだろう。
 吉岡はコンテナ二つを持ち上げて、すたすたと歩きだした。小柄な吉岡が二つも持っていたら、前が見えるのだろうか思うが、足取りは危なげない。安里は慌てて、その後を追った。
「イベント実行委員、嫌い?」
 ふいに立ち止まった吉岡に、じっと見つめられる。大きな目は、ごまかしを許さない、と言っているようだった。
 安里は、首を横に振った。
「好き、だと思う」
 途端に、吉岡の満足そうな笑みが返ってきた。こちらまで嬉しくなりそうな笑顔だった。
「良かった。じゃあ、辞めるなんて言わない! 理にも言っておきなよ」
 それには、安里も曖昧にしか頷けなかった。
 日尾には、まだ慣れない。もうずい分と同じ時間を過ごしたのに、いまだに緊張したり、立ち竦むような気持ちになったりする。安里の中で一番正直な部分である心臓が、煩くてたまらないときがある。
 ――いまさら、辞めたくないなんて言えるかなあ。
 できれば、日尾には嫌われたくないな、と安里は思った。


「おまえはどうしてそう、がさつなんだよ!」
 吉岡とともにプールに行くと、待っていたのは先輩の怒号だった。と言っても、専ら怒られているのは吉岡だ。
「せっかく菖蒲班が綺麗に洗ってくれた奴を、なんだって潰すんだっ」
「うう、ごめんなさい……」
 いつも威勢のいい吉岡が、しゅんとなっている。まるでテストで零点を取ったような気落ちした表情で、安里にも謝ってきた。その顔があまりに哀れを誘う顔で、安里はおかしくなって、笑いながら首を振った。
「別に使えるなら、俺はいいよ。傷がついても、菖蒲は菖蒲だし」
 ぴーっと鳴き声が聞こえそうな勢いで、吉岡は安里に抱きついてきた。だが、鬼のように怒っている先輩が、その襟首を素早く掴んだ。
「中ノ瀬が優しいからって、泣きつくんじゃない! 大体、おまえはいつも人の話は聞かないわ、いい加減なことをやるわ……」
 声がだんだん遠ざかっていく。吉岡は怖い先輩に捕まえられて、プール掃除に連れて行かれた。言葉はきついが、先輩もただ怒っているだけではないらしい。人に迷惑をかけるな、とか、行動する前に考えろ、とか、なにやら教師みたいだ。怒鳴り声は、愛情の篭った説教に聞こえる。
 菖蒲の葉は、プールサイド、西日の当たらない北側に置いた。あと二時間もすれば日は落ちるだろうが、まだちょっと暖かいかもしれない、と心配になる。だからといって、少しずつ持ってきておかないと、後で大変だ。コンテナは、まだあと八個はある。早くしないと、暗くなってからも作業は終わらない。
 プールには、たくさんの生徒が入っていた。何しろ風呂にするのだ、丁寧に洗わないとならない。きちんと消毒もするそうで、プール班は最も大変だと言われていた。だが、プールサイドから見ている分には、ずいぶんと楽しそうだ。デッキブラシを持って競争していたり、泡だらけになってはしゃいでいたり。廊下の水道で、一人淋しく菖蒲の葉を洗っている側からすれば、羨ましい光景ではあった。
 その中に、ふと連行された吉岡の姿を見つけて、そう言えばお礼言ってないな、と安里は方向転換した。一つ、気になっていることもある。
 濡れたプールサイドを慎重に歩いて、吉岡のもとに辿り着くと、安里は遠慮がちに「吉岡」と声をかけた。
「あれー、安里。どうした?」
「あ、ううん。さっきはありがとう」
「別に、お礼言われるようなことしてないって。っていうか、余計なことした感じだったし。ところで安里! 『吉岡』じゃないだろ?」
 がしり、と首に腕を回される。身長は安里の方が高いので、少しぶら下がられている感じだ。
「路って呼んでって言っただろー。ね? み・ち」
 間近でにっこりと笑顔を見せられ、安里は耳の先が熱くなった。吉岡――いや、路の笑顔は心臓に悪い。
 ほら、言えー! と叫ばれ、安里はおずおずと「路」と呟いた。言われた方は大満足の様相で、まるで小学生のように安里に抱きついてきた。
「あー、吉岡、おまえまたさぼってんな! お仕置きだー」
 大声とともに、ばしゃばしゃ、と音がした。安里は一瞬、何が起こったのかわからなかった。ぱちぱちと瞬きをすると、ぽたぽたと、生ぬるい雫が目の前を落ちていった。
「あーっ! ちょっと、おまえ何してんだよー」
「え? あれ? 中ノ瀬? なんでここにいんの」
 呆然と立っている生徒の手には、ホースが握られていて、その先からじゃあじゃあと水が流れていた。いや、それが水ではなくて、温いと言えどもお湯だったのが幸いか。安里は頭からすっかり、びしょ濡れになっていた。
「うっわ、ごめん。俺、てっきり同じプール掃除班の奴かと……」
 うわー、どうしよう、とおろおろとしている生徒に、安里は「気にするなよ」と声をかけた。
「着替えればいいだけだから。外、まだあったかいし」
 ごめん、本当にごめん、と何度も謝る生徒に苦笑しながら、安里は路の方を見た。
「ところでさ、あの、ちょっと気になったんだけど。吉岡……じゃなかった、路は、菖蒲の葉を持ってきていいって、他の人にも言った?」
 不思議だったのだ。二人で持ってきたあのプールサイドには、他のコンテナはなかった。路が最後に安里のところに来たのなら、もう他に持って来ている人がいてもおかしくはないと思った。
 路は、「あ」の形に口を開け、目も見開いた。どうやら、忘れたらしい。
「おまえなあ……連絡事項もまともに伝えられないのかー!」
 やばいとばかりに駆け出した路を追いかけたのは、先ほどの先輩だった。運の悪いことにすぐ後ろにいたようで、目を光らせていたらしい。路は元気よく逃げ回っている。
 安里は苦笑しながら、それを見ていた。少し寒くなって、両腕を擦る。シャツが張り付いて冷たくなってきていた。ともかく、着替えなければならない。風邪を引くわけにはいかなかった。明日の節句対決は必ず見たいし、菖蒲湯も、初めて入ってみたいと思ったのだ。


 外に出ると、さすがに肌寒い。風があたると寒さ倍増、安里は身体を抱えるように小走りに寮に向かった。
 校舎前の大階段の下で、ばったりと日尾に会った。
「あれ、中ノ瀬……って、一体どうしたんだ?」
 階段に片足だけかけて、日尾は目を細めた。
「あ、菖蒲、置きにいったら水かかっちゃって……」
 身体は冷えてきているはずなのに、耳の先が熱い。つっと首筋に雫が垂れて、情けない格好をしているのだと、安里は急に自覚した。
「かかって、って言うか、かけられた?」
「え? あ、別にそうじゃなくって」
 日尾と話すとき、自分はどうしてこんなに要領が得ないのだろう。身体の中で溢れてくるものはたくさんある気がするのに、その十分の一も口から出て行ってくれない。
 さらりと風が吹いて、安里は身震いした。
「早く着替えた方が良いな。急がなくていいから、寒かったら暖まってからこいよ」
 日尾の声は優しい。落ち着いた、柔らかい、丸い響きがある。だが、今はどこか違和感があった。なんだろう。何が違うのだろう。
 安里は頷いて、だがすぐに、伝えなければいけないことを思い出した。
「あの、菖蒲の葉を置くところ、掃除できたって、他の人にはまだ言ってないみたいで……」
「伝えに来たの、路?」
 頷くと、ぽたりと雫が前髪から落ちた。
「コンテナを持っていくの、手伝ってくれて」
「で、他の奴らに言うのを忘れたのか」
 あのばか、と呟く日尾の声は呆れていた。また、微かな風が吹く。張り付いたシャツが、冷たい。背筋がぞくぞくとして、安里はとうとう、我慢できずにくしゃみをした。
「ああ、本当にやばいな。風邪ひくぞ。わかった、そのことは伝えておくから。とにかく早く帰って、シャワーでいいから暖まれ」
 とん、と肩を押される。冷たい肌に、その掌がひどく熱く感じた。安里はふっと日尾を見上げて頷くと、駆け出した。
 見上げたとき、違和感の正体がわかった。
 一瞬、目が合った気がした。だが、それがあからさまなほど勢いよく、逸らされた。さっきの会話中、日尾はこっちを見ていなかった。いつもなら、安里の言葉にならない部分まで汲み取ろうと、目を覗きこんでくるくらいなのに。
 日尾の目は、ずっと、逸らされていた。


 こういう自覚の仕方は、したくなかった。
 遠ざかる白い背中を目の端に映しながら、理は長い溜息を吐きながら顔を撫でた。しっかりと見つめることができないのは、後ろめたさの現われか。情けないにもほどがある。
「理? 何つっ立ってんの」
「別に」
 そんなつもりはなかったが、怒ったような口調になった。先刻のことを知られたら、話のネタにされてしまう。意地の悪いこの男には、知られたくなかった。人の良さそうな顔をして、この二葉信吾という男は、底意地が悪い。
「なんだよ。怒るなよ。まあほんと、お手を煩わせたのは悪かったよ。だからお礼に葉っぱ洗うの手伝うから」
 信吾に肩を叩かれる。せっかくの安里との二人の時間だ。邪魔だからいい、と言おうとして、理はいや、と考えを改めた。このままでは気まずい雰囲気になるのは目に見えている。安里はどうであれ、自分は真っ直ぐ彼を見ることはできそうにない。それを不審に思われなければ良いが、信吾がいればそれも緩和できる。そもそも、安里と理はそれほど会話が弾むわけではないのだが。
「おまえ、騒ぎは収まったのか」
「とりあえずね。海田先輩が許すわけないって言うのが、一番効いたみたいだけど。ったく、誰だよな、あんな噂流したの」
 良い迷惑だ、と憤慨する信吾に頷きながら、理は溜息をつく。ここ最近、溜息の回数が増えた気がする。
 そもそも、あんな話を聞いたから、余計な想像をしてしまったのだ。理は言いがかりもいいことを思って、首を振りながら歩き出す。信吾も一緒だ。
 噂は、今日になって突然流れたらしい。曰く「春姫も菖蒲湯に入るらしい」。理に言わせれば、あの海田先輩が、重藤先輩が大勢と風呂に入ることなど許すはずがないのだが、他の生徒たちは色めきたった。大半は、好奇心だったと理は思う。つい先日、例年よりずっと遅く「春姫」が公式に認められた。その浮かれた気持ちがなかったとは言えない。だが、もちろん、重藤先輩にとっては嬉しくない輩がいたことも事実だ。
 そして、対決前日になって、賭けをする生徒が増えたのだ。それも、三年生に賭ける生徒ばかり。一年は一年で、自分たちも賭けられないのか、と言い出した。先輩たちだけなんて、ずるい、と。
 結局、事態の収拾がつかなくなった賭け班が、二年代表の理に応援を頼んだ。もう理が「入るわけがない」と言って収まるはずもなく、不機嫌な顔をされるのを承知で、海田先輩のところへ行った。行って、噂の否定を頼んだ。海田先輩は、信吾に詰め寄っている連中に、こちらの背筋が凍るような怖い顔で「入れさせるわけないだろ。いいか、誰であろうと、そんな目的で入ってみろ、許さねえぞ」と仰って下さった。おかげで、賭けをしようとしていた生徒たちは引き攣った顔で逃げていった。
「それにしても、海田先輩、怖かったな」
 信吾は思い出して、きしきしと笑っている。
 理には、先輩の気持ちもわかった。自分だって、安里が菖蒲湯に入ることを楽しみにしている雰囲気に、正直困っている。入って欲しくないと、言える立場でも仲でもないのに、言いたくなってしまう。そんなことを考えていたから――あの濡れたシャツ姿の安里に、ひどく動揺した。獣のような衝動が身体を貫いて、危なかった。あれが二人しかいない部屋の中だったら、確実に自分は安里を傷つけていたに違いない。
「なんか、どうしたんだよ、理。怖い顔してるけど。いや、せっかくの二人っきりの時間を邪魔したのは、本当に悪かったよ。あ、俺、もしかして邪魔?」
「いや、別に。いてくれた方がいいし。俺はちょっと伝言回してくるから、信吾、先に行ってやってろ」
 頼んだぞ、と言うと、理は玄関で信吾と別れた。
 自分も、水でも被って冷静になるべきだと、思いながら。


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