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青空でさえ知っている

05

 端午の節句対決は、大いに盛り上がった。イベント実行委員会としても、今年度初めてのイベントを成功におさめ、みんな満足そうだった。
 心地よい昂揚と達成感は、安里が初めて体験したものだ。
 だが、安里の心の底には、紙で切ったような、細くて薄い、小さな傷がある。結局、日尾に辞めたくないことを伝えられなかった、そのことが、心の片隅で引っかかっている。
 あの日、対決の前日、大階段で別れてから、日尾はどこかよそよそしくなった。あからさまにではないが、目が逸らされる。どことなく、以前より遠い。物理的にも、精神的にも。一度少し近づいてから、また距離が離れたとき、それが例え以前と同じ遠さでも、もう決して届かない距離なのだと思ってしまう。
 安里がそこで手を伸ばせれば、いままでだって日尾に助けられずにすんでいた。でも、そこで立ち竦んでしまうから、日尾はいつも振り向いて、手を差し伸べてくれていたのだ。
 安里は図書館の窓際の席で、ゆっくりと紺色に沈んでいく木々を見ていた。数分前に、図書館の明かりが点いたところだ。蛍光灯の光は、なんだってこんなに紙の白さを浮き立たせるのだろう。安里は横目に映った白い面を、殊更恨めしく思った。
 図書委員の大事な仕事の一つに、月に一枚POPを書く、というものがある。書店などに飾られる手書きPOPと同じように、図書委員が匿名で、一冊の本を薦める。委員に選ばれた本は、その手書きPOPと共に、入り口左側の棚の上に置かれる。ずらりと三十六冊――ときには飛び入り参加があって四十冊近く――なかなかに圧巻だ。
 昨日読み終わった本が良くて、安里は早々にPOP書きをしようと思っていた。草案だけを考えておくのもいい。だが、現実から逃げるように読んだ本について書くとなると、人に薦める文章にはなかなかならなかった。
 ――中ノ瀬くんがPOPに書く本、必ず借りる生徒がいるのよ。
 ふと、司書の先生に言われたことを思い出した。
 この席に坐る前、安里はカウンターの奥にある倉庫に行って、壁にかかっているホワイトボードに、今月の本を書いてきた。安里は新刊を避けているから、あまり他人と被ったことはないが、同じ月に二人以上が同じ本を推薦しないよう、POPを書く前にはそこを確かめなければならない。司書の先生がたまたまそこで備品の在庫調べをしていて、話し掛けられたのだ。
 POPは匿名で、その上安里たち新二年生は、その匿名性をもっと高めようと、互いにPOPを書きあって筆跡を誤魔化していた。今年もそうすることに決まっている。だから、安里に限らず、去年の一年生図書委員たちの誰がどの本を推薦しているのか、当てるのは難しい。もちろん、文章の癖などもある。だがたかが十行ほどの文章だ。毎回見つけるのは至難の業だ。
 ――最初は、字体で見当つけてたみたいだけど、あなたたち小細工してるでしょう? なかなか苦戦してたみたい。でもここ三ヶ月は、パーフェクト。ちゃんとあなたが推薦した本を借りてるわ。
 司書の先生はとても楽しそうにそう話してくれた。気になった安里は、それが誰なのか訊いてみたが、「最近、個人情報とかうるさいでしょ? だから駄目、教えて上げられない」とにっこり笑って返された。
 探すのは、無理だよなあ。
 新入生は除外しても、九百人以上の生徒がいる。自分が推薦した本を読んでくれていると言うのは、POPはその目的で書いているにしても、面映い。たぶん、趣味が合うのだろう。できればその生徒と知り合いたいと、安里は思った。
 司書の先生は、「彼」が推薦人が安里だと言うことまで気付いているかどうかは、わからない、と言っていた。「あなたがPOPで書く文章は、普段の様子と違うものねえ……。ええと、あれ何て言ったかしら? そうそう、テンション? って言うのかしら、それが全然違うでしょう?」としみじみ言われてしまった。
 好きな本について話すとき、とても熱くなってしまう、ということは自覚していた。後で後悔するときもあるのだが、POPでは、敢えてそのテンションで書いてみよう、と思ったのだ。どうせ匿名だし、唯一誰のPOPかわかる図書委員たちは、熱くなって語る安里を知っている。
 そのテンションが、今はちょっと下がり気味だ。ネガティブな言葉ばかりが思い浮かんで、筆は進まない。その上、頭の中に空白ができるとつい考えるのは、イベント実行委員のことだ。
 どうしたらいいのだろう。
 このままでは、実行委員をやめることになる。でも、自分は辞めたくない。心は決まっているようなものだ。それなのに、こんなところで真っ白の紙を前に、暗闇に沈む木々を眺めている。
 安里は唐突に立ち上がった。椅子のひき攣れた音が、静かな図書館に響いた。いつもだったら、周りを思わず見渡してしまうような、大きな音だった。だが安里は、紙とペンを無造作に鞄に押し込むと、椅子もそのままに出口に向かった。
 なすべきことがあるのなら、それをする。
 昨日読んだ本の主人公に惹かれたのは、そう強く、真っ直ぐに前に進む姿があったからだ。その姿に憧れた。自分もそうありたいと願った。自分とは、正反対のその人物に。
 いつか、日尾に言ったことがある。日尾のようになれたらいいのに、と。だが日尾は、それに笑って首を振った。
 ――実行委員のみんなが、俺みたいだったとしたら、今ごろ収拾ついてないと思うよ。俺は思いつきで意見を言うだけだから。それを補強してくれる奴がいないと駄目だし、細かいところに気を配ってくれる奴もいないと困る。ノートに記録取るのも嫌いだしな。
 言いながら、彼が指したのは安里のノートだった。会議が終わると、日尾はそのノートを見たがった。安里は自分が活用しようと思って書き取っているわけではないから、いつしかそのノートは、会議後には日尾の手に渡るようになった。
 ――それを見ていると、頭が整理できるんだ。問題の解決策が思い浮かんだり、逆に新たな問題を見つけたり。それと、誰が発言したのかまで書いてくれてるだろう? それ、実はもの凄く役立つ。
 二年代表の日尾は、人事も仕事の一つである。適材適所を実行するには、各委員のことを良くわからなければならない。それに、大いに役立つのだ、と。
 あれほど嬉しかったことはない。以来、安里は以前に増して熱心に議事録を取るようになった。
 思えばあれも、日尾が「手を差し伸べた」ことの一つだ。会議に出ることに消極的だった安里は、そのことがあってからは、あの場にいることを苦痛に思わなくなった。
 ほとんど走るように、安里は図書館を出た。もう、遅いかもしれない。そう焦る気持ちばかりが募った。
「中ノ瀬? どうした?」
 渡り廊下でばったり会ったのは、二葉だった。彼も読書家で、図書委員の面々と変わらないほど本を読んでいることは、二年の委員たちみんなが知っていた。
「日尾、どこかな」
「理? 今日は実行委員の幹部会だから、第二会議室……」
 安里は最後まで聞かずに、ありがとう、と叫んで校舎に向かった。
 階段を四階まで駆け上がる。さすがに息が切れたが、休んでる間もなく廊下を右に曲がり、生徒会室隣の第二会議室のドアを叩いた。
 何も考えていなかった。ただ、早く伝えなければと、そればかりで。
 はい、と返事が聞こえてドアを開けると、そこには実行委員長、副委員長、各学年代表が顔を揃えていた。威勢よく顔を向けられ、安里は何も言えなくなる。その上、走ってきたので息も整わなかった。
 日尾は、斜め前にいた。驚いたように、安里を見る。そんな顔は初めて見た、と安里は思った。
「あ、あの……」
 急に、会議の最中なのだ、と思い出した。途端、かあっと血が頬に上ってきた。
 ――どうしよう。
 自分から飛び込んだのに、安里は途方にくれるような気持ちになった。何を言ったら良いのか、それすらわからなくなる。
 いっそ、謝ってドアを閉めるか。
 そう考えたとき、日尾がすっと立ち上がった。その場にいる生徒たちに「ちょっとすいません」と断って、安里の方に向かってくる。そのままドアのところまでくると、安里の肩をそっと押して、廊下に出た。
 日尾は無言で、階段まで安里を誘導した。第二会議室から見えないところまで来ると、少し困ったような顔で「どうした?」と訊いてきた。
 安里は俯いて、一度大きく息を吸い、それをふっと吐き出すと、顔を上げた。真っ直ぐ、なるべく真っ直ぐ、日尾を見る。
「あの、俺、節句対決、すごく面白かった。成功するかどきどきしたし、終わった後はやり遂げたって感じで、嬉しかった。俺、一年のときは、イベントなんて、端っこから見てるだけって感じで、参加してるのかよくわかんないことが多かったんだ。だから、実行委員があんなに苦労してるなんて知らなかったし。でも、イベントって、ああやって作り上げていくから楽しいんだよな。俺、イベント実行委員になって、良かったって思った」
 安里は必死に訴えた。日尾は、最初は呆気にとられたような顔をしていたが、次第に柔らかい笑顔になった。
「中ノ瀬、それはつまり、実行委員を続けるってこと?」
「うん。今更かもしれないけど、続けたい」
 はっきりそう言うと、日尾はとても嬉しそうに、笑った。それを見て、安里は自分は間違っていないのだ、と確信した。こんな風に日尾が笑ってくれるのなら、自分がここに来て、こうして訴えたことは間違っていなかった。
「良かった。本当は、俺だって辞めて欲しくなかったんだ」
 日尾がほっと息をつく。安里も一緒に、ほっとした。
「楽しかった?」
 訊かれて、安里は勢いよく頷いた。
「うん、すごく」
 自然に、顔が笑った。ほっとして、嬉しくて、そして楽しかった日を思い出して。
 すっと、腕が伸びてきた。くしゃりと、大きな手が安里の頭を撫でた。温かく、頼りがいのある、大きな手だった。
 うっとりと、しかけた。目を閉じて、その感触を楽しみたいと、思った。
「ええー。じゃあ明日駄目じゃん。まじかー」
 ふいに大きな声が下から聞こえた。びくりと体が震えて、頭の上の心地よい感触が、離れていった。
 びっくりした。安里は急に現実に引き戻されたような気分になると、かあっと耳が熱くなるのがわかった。思わず、俯いた。とてもじゃないが、日尾を直視できなかった。
「もう、戻んないと。……じゃあ、これからもよろしくな」
 顔を上げたとき、安里には日尾の後姿しか見えなかった。
 安里はゆっくりと腕を上げて、自分の髪の毛を触った。自分の手では、あの大きくて温かい手の代わりに、なるはずがなかった。


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