春の夜を疾走し 05
春の夜を疾走し
05
瞼が重い。頭も痛いし、身体中を鈍い痛みが襲っていた。それでもなんとか梅野は目を開けた。部屋の中は、しんっと静まり返っていた。
重たい腕をようやく動かして、枕もとの時計を見る。九時二十分。一瞬どきりとしてでも、梅野はため息を漏らしてぱたりと腕を下ろした。いっそ気持ちがいいくらいの遅刻だ。だが、この身体のだるさでは、とてもではないが授業などまともに受けられない。
そもそも、無断欠席の場合は、すぐに寮に連絡が来る。それを受けて、日中だけいる管理人がその生徒の部屋を訪れる仕組みになっているから、こんな時間まで起こされないというのは考えられなかった。
それとも、一度来たのに、自分は起きなかったのだろうか。梅野がそう思いながら机をふと見ると、ミネラルウオーターのボトルが見えた。特に拘らない梅野は、水はいつも水道水だ。
――ああ、高居か。
ふとそう思って、昨日のことが一気に蘇ってきた。所々、特に真っ最中のことは覚えていない。だが、古柴にされたことも、その後高居と抱き合ったことも、覚えていた。
ここのところ夜の部屋が取れなかったのか、呼び出しは少なかった。それに欲求不満が溜まったのか、昨日の放課後、古柴は突然部屋を訪れた。
高居はほぼ毎日部活に出ているが、最近はときどき早く帰ってくることもある。だが、その事情を知らない古柴は、以前のように高居は部活中心の生活を送っていると信じているようだった。夜まで待てないかと言う梅野を無視して、無理矢理部屋に入ってくると、さらには手を縛り上げることまでした。
鍵を開けたのが間違いだったのだ。だが、廊下で騒がれるのも嫌だった。
梅野が抵抗したことに余計に苛立ったのか、昨日の古柴はいつにも増して意地の悪い顔をしていた。媚薬入りだというジェルはもとから使う予定だったのかも知れないが、まるで用量を無視した使い方は、その苛立ちのせいだったのかもしれない。高居のウイスキーまで持ち出して、それを無理矢理飲まされもした。その上、携帯電話を出してきた古柴は、兄の智に梅野の声を聞かせると言い出した。
さすがのことに梅野も思い切り抵抗した。その最中に、高居が帰ってきたのだ。自分の名を少し心配そうに呼ぶ声を聞いたとき、梅野は心臓が止まるかと思った。
古柴はそれでも止めようとしなかった。それどころか、高居にも聞かせてやるか、と囁いた。
その頃には、もうジェルの効果が出てきていた。アルコールのせいもあったかもしれないが、身体が燃えるように熱かった。それでも、なんとか自由な足を動かして、古柴を蹴り上げた。ただ、力が全然入らなくて、古柴を軽くよろけさせただけだった。その古柴が机にぶつかって、弾みでグラスが床に落ちて割れた。
あのとき、出て行って欲しいと高居に言いながら、梅野は高居に抱かれる自分を想像していた。引き締まった肉体と、それが汗に光る様相と。高居のものが、自分を貫く様を。理性とはほど遠いどこかで、ひどく甘美な夢のような想像をした。
――抱かれたいと思った。
梅野はゆっくり起き上がった。身体の節々が軋むように痛い。頭痛はアルコールの名残なのか。喉も渇いていた梅野は、ありがたくミネラルウオーターを貰うことにした。
ペットボトルを持ち上げたところで、小さな紙切れが目に入る。かくかくとした字で「風邪で欠席の連絡をしておく」と書かれていた。
あれで高居は、結構な世話焼きだ。昨日の事だって、高居は全く関係なく、それどころか同室の自分に迷惑を掛けられたと言うのに、あそこで振り返ったのだから。
置いていって欲しくないと、梅野が願った、あのとき。
――忘れるから。
そうまで言ってくれて、自分を抱いてくれた。抱き合っていた最中のことは、ほとんど記憶にない。だが、薬の効果が切れてきた最後の方、丁寧に、ゆっくりと、労わるように抱かれたことは覚えていた。
「お人好しなんだよ。お節介で。馬鹿だよな」
自分のことでも精一杯の癖に――。
呟いた声は掠れて、語尾は震えていた。まるで泣く寸前のような声色だった。
ふいに涙が零れ落ちそうになって、梅野は水をごくごく飲んだ。冷たい水が、全身に染み渡った。それと一緒に、高居を好きなのだと言う気持ちが、溢れて染み込んでいった。
忘れると言った。夢にするから、と約束した。
実際高居は、表面上は以前と変わらぬ様子で梅野と接していた。梅野も梅野で「あんまり覚えてないんだ。ごめんな」とだけ言って、何があったのか思い出せていない振りをしていた。それでもぎこちない空気は避けられず、二人は会話をすることが以前にも増して少なくなっていった。
――忘れられるわけないだろ。
癖になったようなため息が高居の口から零れ落ちる。体育館の床を軽く蹴るようにすると、きゅっと音が鳴った。
辺りは人の声で騒がしかった。卒業式の予行練習にと集められた一二年生が、休み時間だからとふざけ合っている。高居が顔を上げた先には、隣のクラスの列に並ぶ梅野が見えた。
五六人前にいる梅野は、軽く後ろを振り返っていた。すぐ後ろの生徒が何か言っては、梅野は笑っている。決して華やかではない、穏やかで控え目な笑みだ。でも、普段は表情に乏しいとも言える梅野は、こういった変化が鮮やかだ。笑うときも――乱れるときも。
高居は逃げるように梅野から視線を外した。
あれは、悪夢のような快楽だった。それまで一切、男との性行為に興味がなかったのに、何度も梅野の中で果てた。気が狂うかと思うほどだった。
古柴は、あの梅野を抱いているのか――。
高居は知らず唇を噛んだ。梅野はもう前を向いていて、その顔は見えなかった。
山中にある九重大附属高校は、夏は涼しく冬は寒い。山を降りた町では桜の開花の話題が出てくる頃だと言うのに、三月中旬の九重ではいまだ冬のようだった。今年は例年になく寒いのか、卒業式には霙混じりの雨が降った。
卒業式が終わると、その後一週間ほどは次の学年の準備をする。予習期間のようなものだ。
配られたプリントの多さに辟易しながら授業を終えた高居は、隣のクラスで同じ陸上部の生田に戸口で呼ばれた。梅野が休んでいるから、プリントを持って行けと言う。
「休み?」
「風邪だってさ。担任に携帯から電話来たみたい。お前たち、相変わらず無関心同士なんだなあ。ついに一年間、ちっとも馴染まなかったのか」
普通、休む場合、同室が休みの届けをすることが多い。高居は軽く肩を上げただけで、それ以上は何も言わなかった。
今朝のことを思い出しても、梅野の様子はわからなかった。いつも通りに朝軽く走って、シャワーを浴びて……。思い出してみれば、いつもは感じていた梅野の動く気配を感じなかった。高居は急に心配になった。
「生田、俺、今日部活休むから、言っといて」
「はあ? 何急に。っていうか、おまえ最近どうしたんだよ。スランプにしたって長すぎ――」
生田の声を無視して、高居は急いで部屋に帰った。そもそも、部活に行ってもまともな練習は出来ないのだ。
部屋は静かだった。コートを脱ぐのももどかしく感じながら、梅野のスペースに声を掛ける。返事はなかった。
「梅野? 風邪だって?」
そっと覗くと、梅野はベッドに横になっていた。壁に向かっている所為で、顔は見えない。ゆっくり近づいて覗き込むと、梅野は赤い顔をして、苦しそうに息を吐いていた。
「おい、大丈夫か?」
見回しても、水や薬を飲んだ後がなかった。寮監も保健医も呼ばなかったのか。高居はとりあえずスポーツドリンクと体温計を持って来た。
熱を測ると、三十八度近かった。それで誰も呼ばないのは馬鹿だ。
「高居……?」
体温計を見て呆れたところで、梅野が目を覚ました。
「おまえ、なんで何も言わないんだよ。こんな熱出して……。薬も飲んでなければ何も食べてないだろ。今、原澤さん呼ぶから。寮監もまだいるし」
「いい」
「いいって……」
高居が大きくため息を吐くと、梅野は目を伏せた。
「――見せたくないんだ」
小さく呟かれた言葉の意味が、高居は一瞬わからなかった。何を、と訊こうとして、すぐに思い当たる。
あの、赤い鬱血。
高居が梅野を抱いたときにも、消えかけた跡がいくつもあった。無性に腹立たしくて、そこに重ねるように自分も跡をつけたから、覚えている。
「でも、三十八度も熱があるぞ」
「風邪のときは結構熱が上がる性質だから。二三日寝てれば大丈夫」
そんな苦しそうな顔をして、何を言っているのか。高居はしばらく梅野を見ていたが、仕方がないと首を振った。
「とにかくまずこれ飲め。何か常備薬は?」
言われた場所から、薬箱を出す。入寮案内には、子供に常備薬を持たせるように、と注意書きがある。
「朝から何も食べてないんだろ? ヨーグルトとかアイスとか、食べられそうなもんは?」
渡されたスポーツ飲料を飲んでいた梅野が、困惑した顔をしていた。高居はそれには構わず、「ヨーグルト? アイス?」ともう一度訊いた。
「……ヨーグルト。アロエがいい」
小さく好みを付け加えた梅野に、思わず高居の顔が綻びた。
カフェテリアでヨーグルトとスポーツドリンクを調達して、夕食には病人食をお願いして戻ってくると、梅野はぼんやりと天井を見ていた。
「汗、掻いてないか? 着替えた方がいいかもな」
パジャマは? と訊くと、諦めたのか素直に言うことを聞いた方がいいと思ったのか、戸惑うことなく答えが返ってきた。梅野らしく綺麗に畳まれた服の中から、パジャマを取り出す。ついでに隣に仕舞ってあったタオルも出す。
「俺も着替えてくるから、その間に梅野も着替えて。動ける?」
梅野が頷いたので、高居は一旦自分のスペースに戻ってラフな格好に着替えた。
「迷惑掛けてごめんな」
ヨーグルトを渡すと、梅野が小さくなって謝った。
「別に迷惑なんて思ってないけど。それなら、何も言わないで一人で苦しまれている方がよっぽど嫌かもな」
梅野はさらに小さくなって、誤魔化すようにヨーグルトを食べていた。
高居は自分用のコーヒーを淹れ、それを飲みながらゆっくりとヨーグルトを食べる梅野に付き合って、その後は薬を飲ませた。
「明日になっても熱が下がらなかったら、原澤さんに連絡するからな」
「だからそれは……」
梅野の気持ちもわからないではない。だが、それでこれ以上具合が悪くなるなら覚悟を決めるしかないだろう。
「別に、原澤さんのことだから、見慣れていると思うけど」
高居がそう言うと、梅野が微かに笑った。だが、暗い目は変わらなかった。
「梅野さ、答え辛いかもしれないけど……。古柴とどう言う関係なんだ? 付き合ってるのか?」
梅野は俯き加減で、首を横に振った。
「じゃあ、無理矢理なのか?」
それにも、梅野は首を振った。
「それなら、俺、この間余計なことしたな」
気まずいような気持ちで、高居はコーヒーを啜った。梅野はようやく顔を上げて、また首を振った。
「いや、さすがにあれは困ったから……助かった」
あれ以来、二人はこの話題に触れたことはない。こうして話をすることも、久しぶりだった。
「高居……ごめんな」
もの凄く真っ直ぐな目で、梅野は言った。じっと、高居を見つめて。高居は何に対して謝っているのかわからずに、その目をじっと見詰め返した。熱の所為か潤んだ目が、ひどく綺麗に思えた。
梅野は後悔しているのだ。
ふと、そう気付いた。あのとき抱き合ったことを、梅野は後悔している。
高居は腹立たしい気持ちと、いやに哀しい思いを抱いた。そして、謝るなら自分のほうだと思った。
あのとき、梅野を抱きたいと思った。可哀想だとか、薬のせいだから手助けをするのだとか――言い訳を並べたが、振り返ったあのとき、梅野の目を見て、抱きたいと思った。
だが、高居は結局何も言えずに、梅野を寝かせた。
梅野の話では何もわからなかった。付き合っていないと言うが、割り切った関係にも見えない。悪習蔓延る九重では、校内で性欲解消の相手を見繕うこともあると高居は知っている。だが、梅野はそう言うことをする人間には見えなかった。でも、無理矢理でもないのなら――。
高居はすぐに眠ってしまった梅野の顔を眺めた。先刻より少しは安らかな寝息に、ほっと安心する。
もうすぐ、学年が変わる。それと同時に、寮の部屋も変わる。再び同室になる可能性は、ものすごく低い。最高学年になる場合、色々裏工作はできるが……。
――結局一年間、馴染まなかったんだな。
生田の言葉を思い出す。確かに結局、梅野のことは大して知らないままだ。それなのに、色々なことを飛び越して、身体だけ知ってしまった。
本当は、もっと知りたいことがある。
教えて欲しいことが、ある。