眩しさに目を細めた先にだって、見えるものがあるだろうと言う
04
夜中になってもやっぱり眠れない俺は、突然コーラが飲みたくなって、部屋を出た。自販機は俺の部屋の隣、階段とエレベーターをぐるりと回ったカフェテラスにある。部屋から近いし、月夜で明るかったから、薄暗い廊下に出てもきっと大丈夫だろう、と思った。
それなのに、なんとコーラは売り切れていた。そうなると余計飲みたくなるのが人間で、一面ガラス張りのテラスから差し込む月の明かりに少しばかり安心して、俺は一階に降りた。一階のほうが自販機の数があるから、そこならあるだろうと思ったのだ。それでも俺が降りた北側の自販機はやっぱり売り切れていて、俺は南側に向かった。
一階も同じようにテラスになっていて、そこから広い広いロビーが広がっているから、なんだかちょっと不思議だった。ホテルみたいなのに、誰もいない。広大な空間に一人だ。
自販機でコーラを買った俺がふと顔を上げると、中庭で人影が見えて、俺はびくりと身体を竦ませた。来るんじゃなかった、と一瞬後悔した。でも、その俺の目に入ってきたのは、月明かりに照らされた、それは美しく穏やかな顔だった。
孤高の狼。
彼がそう呼ばれていることを俺は知っていた。この学校の奴らは何かとネーミングが好きで、先生から一生徒まで、色々な呼び名があるようだった。その中で、少しだけ俺の興味を惹いた、孤高の狼。東西分かれていても、結局は互いが互いを切磋琢磨するような関係で、やたらと団結力のある九重の、一匹狼がどんな奴か、ちょっと見てみたかったんだ。
何かの折にちらりと見た彼は、確かに俺と同じ年にしては迫力があって、ちょっと怖かった。さっき見た顔なんて、嘘みたいだ。じろりと睨むだけで、先輩はおろか先生まで黙らせるらしい。
狼―――確か浅木と言った―――は、俺に気づいても笑っただけで、視線をもとに戻して、何かを眺めていた。普段着に、学校のパーカーを羽織ってる。きらきらとその頭から全身に、気持ち良さそうに月の光を浴びて、本当に狼人間なのかと思った。
「何見てるんだ?」
中庭へのドアを開けて、俺は浅木に遠慮がちに近寄った。浅木はそれを嫌がるでもなく、夕顔だよ、と答えた。
「夕顔?」
「ああ、もう季節はずれだけどな」
指差された先には、確かに大きな白い夕顔が咲いていた。って、俺には朝顔と夕顔の区別なんてつかない。でも、それは月明かりにぼんやりと儚げで、朝に見る朝顔とはやっぱり違うんだ、と俺は思った。
「でも、浅木は確か南寮だろ?」
生徒会役員でも、委員会委員長でもないのに、浅木は南寮の個室を手に入れた、と俺は聞いていた。その方法が誰にもわからなくて、浅木は謎の人物になっている。
それにしても、もう夜中の二時を過ぎている。西寮生じゃない浅木がいる時間ではなかった。
「クラスメートというか悪友に手伝いごとをさせられていて、こんな時間になったんだ。その帰り際にふと中庭を見たら夕顔があんまり綺麗に咲いてるし、月も綺麗で、ついね」
あっと思ったが、大丈夫だった。辺りは闇ではないし、何しろ浅木が、ふんわりと柔らかく微笑んだから。それに見惚れて、綺麗と言う言葉をすんなりと受け入れた。
そう、浅木は狼と言われるだけあって、ワイルドな男らしい顔をしているのに、それが何とも優しく、柔らかく笑うんだ。月明かりの所為もあるかもしれないけど、俺はそれで今回は救われたらしい。ほっと息を吐くと、ああ、と浅木が夕顔を見たまま言った。
「駄目なんだっけ」
「知ってるんだ?」
「最後だけ、見てたから。正当防衛なんだろ、叩かれても。確かに言葉は鋭い武器になる」
あれだけで良くわかったな、と言うと、微笑まれた。それで、こいつはきっと優しいんだ、と思った。そうやって、人の心の機微にすぐに気づける、優しい奴なんだ。そしてだからこそ、一人でいるのを好んでいるのかもしれない。
「おまえさ、これから南寮に帰るのか?」
俺も隣に並んで夕顔を眺める。確かに、夕顔は見事で、この月光浴は気持ちの良いものかもしれない。自然の、大いなる優しさと言うか。並んでみると、浅木の身長がかなりあるのがわかった。
「そうだよ。このごろ夜の散歩もしてないし、丁度いい」
「夜の散歩?」
「そう、ときどきするんだ。特に月が良く見える晩には」
浅木はそう言うと、気持ち良さそうに目を閉じた。俺はそれを見て、羨ましくなって、自分も真似してみようと思ったが駄目だった。やっぱり、怖い。
「栖坂は、眠れない?」
切れ長の細い眼が見つめてきて、どきり、とする。俺は慌てて首を振ってみたものの、それが嘘だなんてすぐばれると思った。それで、俺は小さくため息を吐いた。
「目をさ、瞑れないんだ。瞑ったら、闇だろ?それが怖くってさ。がきじゃねーっての」
俺がそう自嘲気味に笑うと、浅木も柔らかく笑う。この笑顔は曲者だ、と思う。これのおかげで要らないことまで話してる。それから、浅木は同情でもなんでもなく、こう言った。
「じゃあしばらく、俺の月見に付き合わない?」
それで俺は、それから夜毎に、浅木と月見をしている。
しばらくっていつまでだろう、と俺は考える。眠れない俺のことを知っている浅木といると、無理に眠ろうとしなくていいし、浅木は浅木で都合のいいときだけ来て帰って行くだけだったから、俺はずいぶん助かった。気がまぎれる、というか。
長い夜は、もう嫌だった。
新月が近い。俺はそれに、知らずため息をつく。
月見なんだから、お月様がなけりゃあ月見は出来ない。ということは、俺は浅木に会えないってことで……。
そこまで考えて、俺はまた小さくため息を吐いた。なんだか、おかしなことになってきてる。
「おい、その憂い顔はみんなが困るからやめときな」
教室の窓から外を眺めていた俺に声をかけて来たのは、壮真だった。
「なんでみんなが困るんだよ」
「とにかく困るんだよ。みんながそりゃもう、心配しちゃうの」
壮真の言葉に振り向いて教室を見てみると、何人かがぱっと顔を背けたのがわかった。
「そりゃあ悪かったね」
「何を憂いてるんだよ」
ちょっとからかったような壮真の口調。でも、心配してくれているのはわかる。
「月はどうして満ち欠けするのかと……」
「はあ?」
そう、ずっと満月だったら良かったのに。そうしたら、いつだって月見が出来る。
俺と浅木はぽつりぽつりと会話をするだけだ。壮真や他のクラスメートと話すときの、楽しさがあるわけじゃない。でも、とにかく心穏やかになれる。
―――あの闇に、呑み込まれずにすむ。
「いや、何でもない。秋だからさ、こんな俺でも物思いにふけってみてるだけ」
俺がにっこりと笑うと、壮真もそれ以上は追及してこなかった。
俺だってわからない。こんなに、気に病むことじゃない。薬はあるし、眠れないことに変わりはないんだ。でも、浅木に会えないと思うと、少しつらい。
昼間の学校では、ほとんど会わない。浅木はF組で同じ東棟だけど、思ったより偶然なんて転がっているものじゃないらしい。唯一会えそうな食堂にも、来たことはない。
それに、多分俺には夜のあの時間が必要なんだ。また今日も眠れないだろうという諦めと、闇に呑まれる怖さと。浅木に会う前は、それと戦わなければならないあの時間は、とてもきつかった。寮全体が、眠り始めるあの時間。一人取り残されるみたいで。
「まあさ、何かあったら言えよ?真面目な話」
再び物思いにふけり始めた俺に、壮真はそれだけ言って、困ったように笑った。俺もそれに、ありがと、と笑った。
みんな優しい。
そっと伺うように俺を心配してくれるクラスメートも、何も聞かずにいてくれる壮真も。それなのに、俺は自分のことで手一杯だ。
情けないと思う。
俺は思わず吐きそうになったため息を飲み込んで、大きく深呼吸した。
逃げたくはない。この闇に呑まれることに、きちんと向き合いたい。戦いたい。
でも、それはひどくつらいことで、ときには戦う前から呑まれているときがある。そうすると、もうどうしようもなくて、震えて泣きそうになるのを必死に耐えるだけになる。
浅木に会いたかった。
浅木が笑ってくれれば、俺はこの闇の存在を冷静に受け止められる。大丈夫だ、という気がするんだ。でも、そんなときに限って新月で。
俺はそれでも縋るように、からりと窓を開けて下の中庭を覗き込んでみる。
二階だから、暗くて、顔なんてわからないのに、浅木がいるのがわかった。ゆっくりと、首を回して俺を見上げたのがわかる。俺はどうにも泣きたくなって、そこに座り込んでしまった。浅木がいる。それだけで、とてもとても、安心して。
俺はいつからこんなに浅木に依存していたんだろう。
どうして、こんなに切ないんだろう。
思考が定まらない。それは意味のある言葉のようで、ただの誰かの呟きのようでもあった。俺はそれを、ただ聞いていた。
「おい、大丈夫か?」
だから、突然しっかりとした声が聞こえて、俺は驚いた。定まらない視線をあげると、心配そうな浅木の顔があった。見たことのない、顔。俺はびっくりして、心臓がどきどきしてくるのがわかった。
なんだよこれ……
なんだかやばい状況なのはわかった。何も答えず、座り込んだままの俺に、浅木が心配そうに手を伸ばしてくる。
わ、ちょっと待って。頼むから待って―――
と思っていても、ちょっとパニックになり始めの俺は、早鐘のように鳴り出した自分の心臓の音ばかりを聞いていた。どうしようもなくなって俯いた俺の髪を、浅木の手がくしゃりと撫でる。
うわっ―――静まれ心臓っ。
「どうした?大丈夫か?」
俺の困惑はよそに、浅木はゆっくりと俺の髪を撫でてくれていた。どきどきするのは変わりがないが、その大きな手に優しく撫でられるのは心地が良かった。
「おまえが急に見えなくなったからびっくりした」
浅木が、呟くようにそう言う。
「だって……いると、思わなかった」
「なんで?」
「月、見えないじゃん」
ようやく顔を上げた俺に、浅木がふんわりと笑った。
う……顔、赤くなったよな、俺。
「ああ、そうか、そうだよな」
浅木は一人納得したように苦笑した。どうしてそこで苦笑なわけ?俺、変なこと言った?
「栖坂、冷えるぞ」
俺が考え込んでいると、浅木がそう手を差し伸べた。恥ずかしいが、なんとなく嬉しくて、その手を取って立ち上がる。
じゃあ、と帰りそうな浅木に、俺は思わず声をかけていた。
「コーヒーでも、飲まない?」
我ながら、芸のない誘い文句だと思った。
home モドル 01 02 03 * 05